絶対唯一 君独尊

7
 そろそろ退室しようと思っていたところへ駆け込んできた連絡を聞いて、キスティスは綺麗な顔を歪ませた。
「よりによって、こんな時に任務延長って――」
 外任務で出ているアーヴァインからのそれは、キスティスの願いとは真逆のものだった。
 SeeDのスケジュールに、今入って来た新しいデータを入力して、キスティスは眼鏡を外すと椅子の背もたれに身体を預けて大きく息を吐いた。

 一昨日のあれから、セルフィの様子を気をつけて見ているが、特に変わった様子は見られなかった。今日も、ごく普通にさっきまで隣で職務をこなしていた。単純な作業ばかりだったせいか、何度もあくびをして眠気と戦っていたようだったが。ひょっとしたら夜眠れていないのかも知れないとも思う。例えセルフィに尋ねてみたところで正直に言うとは思えなかったので、訊いてはいないけれど。それも今夜アーヴァインが帰ってくれば、大部分の心配は払拭されるだろうと思っていた。
 けれどこれでは――。
 たった一日とは言え、アーヴァインの任務は延長になった。普段なら別に自分もセルフィも気にすることはないだろう。SeeDの任務としては、珍しくもない。
 だが、今だけはSeeDであることを、キスティスはとても歯がゆく思った。



「いい、アーヴァイン。くれぐれも詰め寄ったりしないでね」
 彼に限ってそんなことはしないだろうと思いつつも、キスティスは念を押さずにはいられなかった。
 アーヴァインは帰ってきた。あれから予定変更になることもなく。
 キスティスは安堵と、嫌な役回りをこなさなければならない鬱とした気分とを抱えて、誰より早くガーデンに帰ってきたアーヴァインをとっ捕まえた。そしてアーヴァインが自分の言葉で、にこにこ笑顔から、呆然とした顔、更に悲痛な顔になった後、怒った顔になっていくのを目の当たりにしたのが、ついさっきのことだった。
「分かってる?」
 キスティスはセルフィの部屋の前で、もう一度アーヴァインに念を押した。
「分かってるよ」
 そう言ったアーヴァインの声は静かで、顔に怒りの表情は見られない。代わりに悲痛とも困惑とも取れるような顔をしているのが、怒った顔を見るよりもキスティスは辛かった。
「先に入らせてもらうわね」
 アーヴァインは何も言わず、ただ黙って頷いた。それを確認するとキスティスは、インターフォンを押してセルフィの応答を待った。だが、いくら待っても、何度か押してみても、何の応答もない。
「いないのかしら。でも部屋に帰るって言ってたのに、一体どこへ――」
 キスティスは急に不安に駆られた。『後からパニックに陥る症例もある』と言ったカドワキ先生の言葉が蘇る。とにかく、部屋の中にセルフィがいるのかどうか確かめなければ、それから先のことはいないのが分かってからだと思った時、アーヴァインが小さく声を発したのが聞こえた。
「もしかして……」
「なに!? アーヴァイン、心当たりあるの!?」
 つい気が急いて、キスティスは強い口調になっていた。
「僕の部屋かも」
「え!? どうしてあなたの……」
 すぐに“何故”か悟ったのか、アーヴァインに理由を聞くこともせず、キスティスは素早く身を翻すようにして、足を男子寮へと向けた。



「セルフィ!」
 アーヴァインが自室の鍵を開けると、ドアが開くのももどかしそうにキスティスは中へ飛び込んだ。
「……いない」
 だが、そこにセルフィの姿はなかった。アーヴァインの部屋はそれが当然であるかのように、しんと静まりかえり、この部屋に人がいる気配も、いた気配も感じられなかった。
「奥もいい?」
 キスティスは後ろに立っているアーヴァインを振り返った。
「うん、いいよ」
 許可の言葉を聞くと、キスティスは急いで奥の部屋へ続くドアへと駆け寄り、それまでの動作とは打って変わってそっとドアを開けた。
「―― ここにもいない」
 部屋の大部分を占めるベッドは、カバーに皺一つなく、人が寝ている形はしていない。それ以外に人が隠れるような所も見当たらない。キスティスは別の所を探さなければと、くるりと身体を反転させた時、すぐ後から入ってきたアーヴァインが声をあげた。
「セフィ!」
 キスティスが何事かとアーヴァインの姿を追った先には、既にベッドの向こう側に回ったアーヴァインが何かに向かって手を伸ばしていた。キスティスがその光景を見た次の瞬間、弾けたような声がした。
「アービン!」
 キスティスが捜していたセルフィは、ベッドの向こう側で膝を抱えるようにしてうずくまっていたようだ、微動だにせずに。気分的に酷く焦っていたキスティスには、それを見つけられなかったのだ。
 セルフィはアーヴァインの姿を認めると、飛びつくようにしてアーヴァインの胸にしがみついた。
「セフィ、大丈夫だから」
 アーヴァインがぎゅっと抱きしめると、セルフィは堰を切ったように泣きじゃくった。
 それはキスティスにとって驚くような光景だった。セルフィがあんな風に泣きじゃくる姿など、見たことがない。泣いた顔は知っているが、あんな風に感情を露わにするようなものとはほど遠かった。
 今アーヴァインの胸で泣きじゃくるセルフィの姿を見て、やっぱり無理をしていたのだと、心に鈍い痛みが走った。だが同時に安心もした。自分の前では我慢することがあるとしても、アーヴァインの前ではああやってちゃんと泣くのだ。泣くことを躊躇わないのだ。そのことを少し淋しくは思うけれど、アーヴァインという存在が傍にいるだけで、セルフィの心は癒えるだろう。
 もう自分が心配することはない。
 タイミングよくこちらを見たアーヴァインに、キスティスは「お願いね」と視線で告げて、アーヴァインの部屋を後にした。






 朝早く、少し冷たい空気が覆う部屋のソファに座って、アーヴァインは一人考え込んでいた。
 昨夜、延長された任務から帰ってきて、いきなりキスティスに捕まった。セルフィに会いたいから後にしてと言えば、訳あり顔で思いっきり渋面を作られた。そのキスティスにしては尋常じゃない態度に、嫌な予感がすると思いながら話を聞けば、――――思いっきり嫌な話だった。
 悪い予感ほど、どうしてこう当たるのか。
 一昨日の夜、セルフィに送ったメールの返事が来なかったせいもあって、妙に胸騒ぎがしていた。
 そしたら、セルフィがめちゃめちゃヤバイ目に遭ったとかって。キスティスは必死で宥めてくれたけど、そんなの土台無理な話だから。ことセルフィに関しちゃ、無理だから。
「なんだってこんな立て続けに……」

 ―――― SeeDだから。

 多分この一言で解決してしまうのだろう。
 けれど、そんなことで片付けたくはない。そんな逃げ道に逃げたくはない。
 SeeDの道を選んだのは自分だ。大部分の理由はセルフィだけれど、けしてそれだけではない。自分に出来ること、やりたいこと、それらを突き詰めた先に“SeeD”という答えの一つがあったのだ。
 厳しい職種ではあるが、それは報酬という目に見える形できちんと評価されている。何より、赴いた先で、時折かけられる感謝の言葉が、本当に嬉しい。必要とされるということが、どれだけ自分の生きる糧になるのか身を持って知った。
 だがそんなのは、セルフィという存在が傍にあってこそだ。
 SeeDの道を選んだのは、傍で護りたかったからだ、セルフィを。例え自分の望みは叶わなくても。
 それなのに、この体たらく。逆にSeeDであることが枷となってしまった。
「肝心な時に守れないなんて、僕は――――」
 ダンとアーヴァインが拳をテーブルにたたきつけた拍子に、置いてあったミネラルウォーターのペットボトルが大きく揺れた。


「SeeDだもん」
 アーヴァインの後ろからセルフィは声をかけた。
 目が覚めたら、隣にアーヴァインはいなかった。昨夜、アーヴァインに抱きついて散々泣いた後、プツッと糸が切れたように眠ってしまったのは憶えている。一度窮屈さに目が覚めて、目の前にあった腕に、後ろから抱きしめられているんだと分かり、安心してまた眠ってしまった。さっき目が覚めるとアーヴァインの腕も姿もなかった。ちゃんと謝らなきゃいけないこともあるし、そろそろ起きようとベッドから降りて、少し開いていたドアの隙間から見えたアーヴァインの後ろ姿に、足が止まってしまった。
 髪も括らず、考え込むように俯いた後ろ姿が、酷く哀しげで。
 その様子から、アーヴァインは例の一件をもう知っているんだと思った。
 だから、普通にしていようと思ったのに。また心配させてしまうから。アーヴァインもみんなも。
 なのに、思っていたより自分は弱っちくて、夜になると思い出して、怖くて、眠れなかった。
 帰ってきたアーヴァインに抱きついて大泣きしてしまった――――。
 心配かけまいとして張っていた虚勢が、アーヴァインの顔を見た途端ポロッと落ちて、かえって余計な心配をかけることになってしまった。もうダメ過ぎて、溜息も出ない。アーヴァインがいると、いつもいつも甘えてしまう。簡単に心のたがが外れてしまう。
 ちょっと前までの自分はもっと強かったのに。一人でいても平気だったのに。

「アービンごめんね。また心配かけて」
「……セフィ」
 複雑な顔をしてアーヴァインはセルフィを見た。何と言っていいのか言葉が出てこない。聞きたいこと、言いたいことは山ほどある。けれど、喉の奥でたくさんの言葉が詰まってしまって、どれから言っていいのか分からない。
「あ、シャツごめんね。クシャクシャにして」
 セルフィは照れ隠しのように笑った。見ればアーヴァインのシャツには、昨夜セルフィがしがみついて泣いた痕跡がきっちり残っていた。セルフィはそれがちょっと恥ずかしかった。
「セフィ、謝るのは僕の方だよ。セフィが辛い思いをしている時に僕は傍にいられなかった。ごめんね」
 アーヴァインに手を取られ、促されるまま隣に腰を降ろすと、セルフィは小さく息を吐いた。
 相変わらずアーヴァインは――。
「どうしてアービンが謝るかな〜。今回のは、あたしの不注意なの。それにサイファーまで巻き込んじゃって、アービンにも心配かけて……それで」
「それで?」
「また甘えちゃって、ごめん。アービンといるとつい安心しちゃって」
「セフィこそ何で謝るの? 辛い思いをしたのも、怖い思いをしたのもセフィでしょ? いくら気をつけていても事故に遭うときは遭うよ。今回のはそういう類のものだと思うけど?」
「でも――」
「でもはやめてよ。正直僕はSeeDである自分達を呪ったよ、自分で選んだ道なのにね。セフィが今更辞める気がないのは知ってるよ、SeeDであること結構誇りに思ってること知ってるよ。僕だって同じだよ。だけどさ、二人でいる時くらい、SeeDだってこと忘れたっていいじゃない。この前も言ったけど、僕はもっとセフィに頼って欲しいんだよ? 甘えてほしいんだよ? なんでも一人で頑張ろうとしないでよ」
 アーヴァインにしては珍しく、強い口調で一気に言い切った。それをセルフィは一語一語噛み締めるように聞いて飲み込んだ。
「……うん、分かった」
 セルフィは握られた手を一度見て顔を上げ、真っ直ぐに自分を見ているアーヴァインの瞳に向かって告げた。朝の光を受けて、宝石のような綺麗な菫色の瞳が、やっと嬉しそうに笑うと、そのままふっと顔が近づいてきた。その意味をすぐに理解したセルフィは、静かに瞳を閉じて待った。筈だったが、ぐぅ〜と気の抜けるような音がして、甘やかな空気は瞬時にブチ壊された。
 あちゃ〜と思ったセルフィが目を開けると、目の前のアーヴァインは、落胆するどころか思いっきり肩を揺らして笑っていた。
「さすが…セフィ」
 笑いながら必死で声を絞り出す様が、セルフィは恥ずかしいやら、カチンとくるやら。自分はムードというものに欠けるとは思っているが、こうも絶妙なタイミングだと可笑しいのを通り越して、哀しくなる。別のシチュエーションなら「ナイス、オチ」と絶賛する所だが、何もこんな時に、こんなタイミングで……。
「朝ご飯にしよっか」
 散々笑った後アーヴァインがそう言ったのを、不本意だと思いながらもセルフィは素直に「うん」と返事をした。




「セフィ、落ち着くまで暫くここにいなよ」
 トーストと玉子とハーブのソーセージの朝食終えて、唐突にアーヴァインが言った。
「え?」
「ねっ、そうしよ。そうして。僕もその方が安心出来るし、ねっ」
 なんで? と聞き返す前に畳みかけられて、セルフィは嫌だとは言いにくくなった。もっとも、嫌などではない。それに、自分でもまだ不安だった。予想以上にダメージを受けているのは明白だった。アーヴァインが帰って来るまでの二日間のことを振り返ると、一人になるとつい、例の一件を思い出すか、アーヴァインのことを思い出すかで、どっちも辛かった。特にアーヴァインは、会いたくて、会いたくて仕方がなかった。こんなに傍にいてほしいと思ったことは、―――― 多分ない。
 もし仮に断ったとしてもこの調子だと、アーヴァインが自分の部屋に転がり込んで来るような気がする。そこまで考えてセルフィは、心の中でははははと乾いた笑いを浮かべた。
 どっちにしろ、
「うん」
 と答えるしかない。
 だが、温かい甘めのカフェオレを飲みながら、真正面でにっこにことうれしそ〜な笑顔を見ると、セルフィも心配料としては当然かも知れないな〜と思った。


「セフィまだ眠いんでしょ」
 カタカタとコンピュータを操作しているアーヴァインの後ろで、ふわぁ〜とあくびが聞こえた気がした。椅子をくるんと回転させて後ろを向くと、手で口元を隠してえへへとセルフィが笑っている。
「シャワー浴びて、寝てるといいよ。僕はちょっとキスティの所へ行ってこなきゃいけないし」
「ん〜」
「ねっ、そうしなよ」
 アーヴァインの厚意は素直に嬉しいが、セルフィは何となくそれはつまらないような気もした。だが、ここ二日ばかり眠れなかったのと、安心してやたら眠くなっていたのも事実だった。
「うん、そうする。バスルーム借りるね」
「どうぞ〜」
 にこっと笑って返事をすると、アーヴァインはまたコンピュータに向かった。


「よし、終わり」
 今回の任務の報告書が出来上がった丁度そのタイミングで、セルフィがバスルームから出てきた。
 湯船で身体も温まったのだろう、頬や見えている肌がほんのり桜色になっているのが、アーヴァインにとってはかなり目の毒だった。それを横目に、アーヴァインはセルフィと入れ替わるようにして、自分もシャワーを浴びるべくバスルームへと入った。自分の紳士っぷりを褒め称え、一方で不甲斐なさに項垂れながら。
 シャワーを浴びつつも、その両者の間で葛藤した。
 ぶっちゃけ今すぐ抱きたい。何しろ昨夜から我慢している。その前は外任務だった。それに、セルフィの前では冷静ぶっているが、あんな目に遭ったと聞いて、平静でいられるワケがない。そんな嫌な記憶、レビテガばりにぶっ飛ばしてしまうほど、激しく――――。
「はははは、それが出来れば苦労はしないんだ……」
 アーヴァインは熱いシャワーに打たれながら項垂れた。
「セフィ次第か、な」
 がしがしと髪を拭きながらバスルームを出てみれば、アーヴァインの小さな期待は速攻で砕かれた。
「さすがだ、セフィ……。ある意味期待を裏切らないね」
 例によって例の如く、セルフィはソファにこてんと横になって眠っていた。もう見慣れすぎていて、涙も出ない。良心的に解釈すれば、この場所はセルフィにとってそれくらい安心出来るということだ。そして自分のことも。この信頼を裏切るのは、少し心が痛む。それに楽しみは後にとっておく方が、感動がより大きくなるのが通説だ。だから、ここは――――。
「姫を護る皇子になるよ」
 どうにか我欲を封じ込めて、アーヴァインはセルフィをベッドへ運ぶべく抱き上げた。
 そんなアーヴァインにさらなる試練が襲いかかる。
 抱き上げた際、揺らいだ空気に乗ってセルフィから良い匂いが立ち上った。なんとも美味しそうな、まるで拷問のような香りが。
「木イチゴか……」
 よりによって、そんな香りのバスキューブを使ったセルフィに、もう号泣だった。なんという試練を与えるのか。セルフィにしてみれば、単に自分の好きな香りのものを使っただけのことだろう。これが意図してなら、即イタダキマスする所だが、そうでないことは痛いくらいに分かる。あんな無防備に眠っていたのだから、絶対他意はない。セルフィだけに、絶対の部分に自信はないが。
 それでも、今はセルフィを休ませる方を優先するくらいの理性はある。セルフィと違って全く他意がないとは言わないが。
「セフィの鬼」
 アーヴァインは小さく呟いて、セルフィをそっとベッドに寝かせた。その時「くふ」と笑ってしまったのが、アーヴァインの邪な方の心の天秤をまた重くしたのをセルフィは知る由もなかった。