絶対唯一 君独尊
6
ぎりぎりと身体と心が軋んだ。
この状況は受け容れ難い。だが、身体を動かせば動かすほど締め付けられ、自由にならぬのだと思い知らされる。
コツンと床にヒールの音が響いたかと思うと、更に追い打ちを掛けるように高圧的な声が聞こえた。
「どう? 気分は。ミス、ティルミット」
さっきまでの楚々とした女性店員と同人物とは思えないような、下品な笑顔を顔に張り付かせて、プラスチックの結束帯でぎっちりと拘束され床に転がっているセルフィを、声の主は見下ろしていた。
セルフィは何も言わず感情を殺した瞳で女性を見上げた。もっとも、ご丁寧に布で猿ぐつわを噛まされているので声は出せない。恩人に何をするのかと厭味のひとつも言ってやりたい所だが、女のこれはヘタクソな挑発だ。わざわざそれに乗って相手をほくそ笑ませてやる道理もない。
しかも自分の姓を知っているということは、素性を知られている可能性も高い。つまり自分をSeeDだと知った上でのこの所業なら、それなりの対処が必要だ。冷静さを欠けば、更に不利な状況になりかねない。
セルフィは慎重に相手の出方を窺った。
「ねぇ あなたセルフィ・ティルミットよね? もし人違いならすぐに解放してあげるわよ? 正直に言ってくれないかしら」
女はゆっくりと片膝をつきセルフィに顔を近づけると、店員をしていた時と同じような優しい声音で、情け深い言葉をかけてきた。だが、視界の端、右手に握られた拳銃はしっかりと引き金に指をかけたまま、セルフィに向けられているのが見え、却って不気味さを濃くしただけだった。
女は愉しくて堪らないというような笑顔を湛えたまま、肌が触れ合いそうな程近くでセルフィを見下ろしていた。見ようによっては、妖艶でどこか恍惚としているようにも感じられる。セルフィにはそれがどうにも不快だった。顔は笑っていても瞳は笑っていない。その眼には、SeeDというまたとない獲物を捕らえ、その命が今自分の手に握られていることを、セルフィに知らしめようとしているのがありありと分かる。
恐らく自分が人違いであっても解放する気がない確率の方が遙かに高いだろう。この手合いの人間は、獲物をいたぶることに快感を覚える。怯え、泣き叫び、許しを請う姿が、よりこういった人間に快楽を与える。多くはない経験と知識によってセルフィはそう判断した。
どこから自分の情報がこの女の手に渡り、偶然か必然か、こうしてのこのこ掴まってしまったことに、言い様のない悔しさを憶えるが、今重要なのはそれではない。この現実を打開することだ。
セルフィは考えた。
女の視線を真っ直ぐに捉えて、瞬きもせずに。
「ねぇ どうなの? 声は出せなくても、首を振るくらいはできるでしょ?」
それでもセルフィは何も動かず、ただ女を見返した。
続く沈黙に焦れたのか、女は歯ぎしりをし右手の拳銃を持ち上げ、セルフィの鼻先に銃口を向けた。そしてわざとゆっくりと、引き金に掛かった指に力を込めて見せる。
はったりなのか本気なのか、セルフィは判断しかねた。背中をじっとりと汗が流れたのを感じた時、セルフィの視界が突然暗くなった。
「なぁ、そのキレイなちょうちょと遊んであげちゃだめかぁ?」
ごく近く、舌っ足らずで間延びした男の声がした。
女から視線を外し声の方を見れば、さっき女を羽交い締めにしていた男が、物欲しそうに腰を曲げてセルフィを覗き込んでいた。その所為で視界が暗くなったのだ。
「さぁねぇ、セルフィ・ティルミットを見かけたら捕獲しろとは言われたけれど、傷つけるな、とは言われてないのよねぇ」
女はセルフィから身体を離し、面白いことを思いついたというように、眼を細めて相変わらずセルフィを見下ろしていた。
「ボスはいつくるんだぁ〜? それまでならあそんであげてもいいだろぅ〜?」
大の大人が、まるで子供のような口調で言うそれは、妙にセルフィの心をザワと撫でた。さっきは気付かなかったが、女を羽交い締めにしていた男の動作は、大人にしては緩慢だった。けれど時折落ち着きのなさも現れたりする。それでいて眼光だけは獣のように鋭い。大人とも子供ともつかぬ男は、そこの女と同じくらい不気味だった。
「そうねぇ、あなたはちゃんと私の言うとおり、痛いの我慢して蹴られたんだものね。ごほうびをあげるべきかしら」
男にそう言った後、女は再びセルフィに近づいて囁いた。
「うちのボスね、あなたにご執心なの。あなた一人をおびき寄せる為に、結構大掛かりな網を張ったのよ。引っ掛かるかどうかも分からないあなただけの為に。あなた一体何をしたの? 富も権力もウラの地位もある男から、あんなに好かれるなんて幸せ者ね」
女は自分のボスを嘲笑するような顔をして、勝手にペラペラと喋った。
いくら女の方が優位に立ってはいるとはいえ、自分が相手の立場だったら絶対言わないような事を勝手に喋るこの女の浅はかさも、ボスと大して変わらないとセルフィは思った。
こうなった理由はあっさりと分かったが、知らない方が良かったかも知れない。思い出したくもない、あのキモキモ男。気持ち悪いねちっこさは感じたが、まさかこれ程ねちっこいと思ってもいなかった。粘着度の高い男は嫌われるのが、最近の常識だというのを知らないのか。
そんなことを考えているセルフィのことなどお構いなしに、女は新たなる現実を突き付けてきた。
「この子ねぇ、キレイなちょうちょが大好きなのね、あなたみたいなカワイイのが。でもこの子ちょっと変わってて、他人の痛みってのが分からないみたいなのね。だから、ちょっと大変かも知れないけど、相手してあげてね〜」
柔らかな笑顔と優しい声音で言う様が、セルフィの心の奥に隠れていた恐怖心を掘り起こした。
これから何をされるのか。女の言葉からは痛みを伴うというのだけは分かった、だが ――――。
「俺たちに褒美は無いのかよ」
自分たちから離れた所での遣り取りを黙って見ていた男二人の内の背の高い男が、今になって口を開いた。隣にいる小柄な男は、同意を示すように頷いて、セルフィをじっと見ていた。ねっとりと絡みつき、舐め回すような視線。視線だけではなく、小柄な男はぺろりと赤い舌を出して唇を舐めた。その視線だけで、セルフィはこれから“何が始まるのか”察しが付いた。
『イヤや!』
それだけは嫌だった。
ある意味死ぬよりも怖い。
そんなことをされる位なら、死んだ方がマシだとさえ思う。
だが、セルフィの傍から、女が一瞥して離れていったのと入れ替わるようにして、舌っ足らずの男がにこにことセルフィの目の前に立った。離れた所にいた二人の男も、こちらへ歩いてくるのが見える。セルフィは唯一自由な足を必死で動かし、その場から少しでも離れようとした。腕は後ろ手に縛り上げられているのに、足だけ縛られていないのが、余計に恐怖心を煽る。
『……っっ!』
「にげちゃだめだぞぅ〜」
幾らも移動することが出来ない内に、舌っ足らずの男は、セルフィの服を乱暴に掴むと力任せに引っ張った。力加減など全く考慮していない、いや考えが及ばないのだろうか。あまりの勢いで身体の重さを支えることが敵わなかった薄手の布地は、悲鳴を上げるようにビリビリと裂けた。一緒にインナーの綿のキャミソールまでもが破けてしまったようだ。肌に触れた空気でそれを感じた。その痩身からは思いもつかないような怪力に、セルフィは戦慄いた。既に男の目には一番内側の下着も見えている筈だ。
怖い、怖い、怖い。―――― 堪らなく怖い。
抵抗しなければと思うのに、それを遙かに凌ぐ恐怖心でセルフィは動けなかった。出来たことと言えば、身体を小さく堅くして涙を堪えることだけ。
「下は別の趣向にしたらどうだ、コレ貸してやるよ」
後から来た男の一人がナイフを取り出すのが見えた。白の厚手のミニスカートは切り裂かれるのかと思うと、ぎゅうと膝を折り曲げ閉じた脚に更に力が入った。
「足は閉じちゃダメだぜ、お嬢さん。とその前に声は聞こえた方がいいな」
そう言ってナイフで切ったのだろう、猿ぐつわがパラリと離れた。
その後脚をぐいと掴まれた。必死で抵抗はしたが、SeeDとは言え、女のセルフィの力など簡単に男の力で覆されてしまう。曲げていた足は引っ張って伸ばされ、その間に身体を割り込ませられるように広げられると、足首は動けないように押さえつけられた。恐らく男たちには、スカートの奥も見えてしまっているだろう。
セルフィは泣き喚きたかった。
堪らなく怖かった。
だがこいつらには声なんか聞かせたくない。
涙も見せたくない。
自分が恐怖に囚われているなど、微塵も感じさせたくない。
涙だけは、絶対に流したくない。
セルフィは顔を横に向け、枷のなくなった口で歯を食いしばり、瞼をぎゅっと閉じた。これから訪れる苦痛に耐えるため。なのに、目を閉じた途端アーヴァインの顔が瞼の裏に浮かんだ。打ち消そうとするのに、そうすればするほど、より鮮明に浮かび上がる。
今一番思い出したくないのに。
もうあの笑顔を向けられていい自分じゃなくなる。
そう思うとどうしようもなく心が痛い、身を引き裂かれるような痛みが身体を貫く。
やがて太腿に生暖かい何かが触れた感触がした。それが何であるか必死で考えまいとしていると、ザッという音と空気の揺らぎでスカートが切り裂かれたのだと分かった。
『アービン……』
セルフィは無意識のうちに名を呼び、頬を雫が伝った。
「は、ぐっ……」
いきなり、ドウッという鈍い音と、少し離れた所で女の呻き声が聞こえた。続けて重い物が倒れたような振動がした。
直後何かが近く走り抜けたような風を肌に感じ「なんだよっ!」と酷く狼狽えた男の声がした。続けて、ごきっごきっと数回鈍い音がすると、また重い物がどさっと床に落ちる音がした。かと思うと今度は、ごく近くでだんっと床が揺れ、脚を押さえつけていた重しが無くなり、太腿に触れていた生暖かい感触も消えた。
小さな部屋は、さっきとは違う殺気を帯びた気配がする。
目を開けるのは堪らなく怖かったが、セルフィは状況が知りたくて堅く閉じていた瞼を恐る恐る上げた。
途端に眼の前スレスレかと思うような所を、舌っ足らずの男が白目を剥いてぶっ飛んでいく様がスローモーションのように見えた。どぉんと壁にぶち当たった音が聞こえたのは、随分後のような気がした。
最後に残った背の高い男は、一瞬狼狽えた様子である一点を凝視し「クソッ」と悪態を衝いた。だが、表情はすぐに一変し不敵な笑みを浮かべ、床に落ちていたナイフを握ると、空を切り裂くようにして前方に身体を踊らせた。ナイフの向かった先、大柄な人影がそれを待ちかまえるようにして立っていた。
大柄の男は真っ直ぐに自分へと向かって来たナイフを、身体を反らすようにして胸スレスレの所でかわす。勢いづいていたにも関わらず背の高い男は、空振りした身体を機敏に反転させると、すかさずナイフを横に向かってなぎ払った。ヒュッと風を切る音と共に、ヒラリと布かなにかの切れハシが宙に舞う。だが大柄の男の姿は、ナイフを持っている男の視界にはなかったのか、キョロキョロと頭を動かしている。大柄の男があんなに俊敏に動くとは思えなかったのだろう、酷く狼狽えていた。
漸く大柄の男の姿を下方に捉えると、その場にしゃがんでいた大柄の男は、それを待っていたかのように、薄い色の瞳に、背筋が氷るような冷徹な色と嘲笑を浮かべて相手を見返していた。次の瞬間、ナイフでなぎ払らわれるより早く、しゃがんでいた大柄の男は、立ち上がり様にナイフを持っている男の手首をガッと掴み、そのままの勢いを利用して膝で蹴り上げた。
骨の折れる嫌な音がして、背の高い男の手からナイフが力なくゴトッと床に落ちる。
手首の痛みに呻き声をあげ、怯んだ背の高い男は戦意を失ったように見えた。だが、痛みも顧みず掴まれている手首を乱暴に振り解くと、次なる攻撃を繰り出した。大柄の男はそれを片笑い顔で受け止めていた。背の高い男は、果敢に攻撃を繰り出すものの、既に肩で大きく息をし、額には脂汗が滲んでいる。それでも拳を繰り出すことは止めなかったが、大柄の男に大きなダメージを与えることはなかった。逆に、まともに何度も攻撃を受けた身体は次第に力を失い、大柄の男がわざわざ支えて立たせているように見えた。
もう勝負はついた。だが、大柄な男の瞳は尚一層冷たく光り、殴り続けている手は止まる気配がない。
「サイファー、やめて! 死んじゃうよ!!」
セルフィがそう叫ばなければ、サイファーは確実に背の高い男を殺していただろう。
サイファーはようやく酷い有り様になってぐったりとしている男を、突き飛ばすようにして解放した。
「セルフィ、無事か!?」
思い出したようにセルフィに駆け寄り、彼女を抱き起こした瞳からは氷のような冷たさは消え、代わりに酷く狼狽えた色が浮かんでいた。セルフィはそれを見て、サイファーでもこんな風に狼狽えることがあるんだと、ぼんやりと思った。
今、何が起こったのかは良く分からないが、自分を抱き起こしてくれているサイファーの腕は力強く、とても安心出来るということだけは感じた。サイファーを安心させる為にも、ちゃんと返事をしなければと思う。けれど心に反して、思考は酷く緩慢で、五感は恐ろしく鈍い。口も上手く動かせない。ただ、危機は去ったのだということだけが、今自分の心を占めている。もう大丈夫だ。陵辱されることはない。ゆるゆると鈍い思考でそこまで辿り着いた時、何かが弾けたように一気に感情が溢れ出し、それは身体の震えとなって表面化した。
「うん、だい……じょう、ぶ」
絞り出すように言った言葉にも、それは如実に表れていたようで、サイファーの瞳は安堵するどころか、悲痛なものに変わってしまった。
「セルフィ、すまない。気が付くのが遅くなって」
「大丈夫だよ、サイファーはちゃんと間に合ったから」
セルフィは心体の全てを使って笑顔を作った。
「でも、ちょっと怖かった。身体が震えちゃって止まらないや。少しだけ、ほんのちょっとだけ抱きしめてもらえないかな」
セルフィがそう言うと、サイファーはゆっくりとそれに応えた。
ああ 温かい。
人の体温って、本当に安心するんだな〜。
なんか、森の匂いがする。サイファーの匂いかな……。この腕の力強さ、なんか似てる。
良く似てるけど、――――アービンとは違う匂いがする。
アービンとは……。
心に浮かんだ愛しい者の名前は、痛い位にセルフィの胸を締め付け、ぎりぎりの所で留めていた感情の堰を決壊させた。
「……アービン」
その一言は、サイファーにも強い痛みを与えた。
「お嬢、帰ろう、ガーデンに」
呟きが聞こえたのと同時、サイファーはセルフィから身体を離すと、自分の上着を脱ぎ素早くセルフィに着せつけた。ファスナーを全部閉じてしまうと、セルフィの身体は太腿と膝の半ばほどまですっぽりと覆われた。セルフィが長すぎる袖をたくしあげて手を出そうとしているのも構わず、サイファーはセルフィを抱き上げて走り出した。
「わ、わわっ」
セルフィはサイファーに振り落とされないように、ぎゅっと彼の服を握ってしがみついた。サイファーはきっちり抱いてくれているのだから、落とされるようなことはないと思う。分かってはいるが、サイファーの走るスピードはそう思わせるほど速かった。周りの景色が瞬く間に通り過ぎていく。あっと言う間に、狭い通りを抜け駐車場までたどり着いていた。
セルフィをとんっと、助手席に座らせてくれた時には、さっきアーヴァインのことを思い出して、泣きそうになったことなど、セルフィはすっかり忘れていた。
「ガーデンに連絡して飛空艇を寄越してもらう。それまでちっと待っててくれな」
「いいよサイファー、列車で帰るよ」
そう言うとサイファーは携帯を取り出し、何度も「列車で帰る」と言い張るセルフィをわざと無視して、そのまま電話を続けた。
「もう、サイファー、いいってば! 正式な任務でもないのに」
「よかない! おまえは良くても俺がよくない」
「なんで!? 任務でもなければ、勝手に付いてきたあたしの不注意だよ? サイファーはちゃんと忠告してくれたのに。それに巻き込まれたのはサイファーの方だった……」
「んなことどうだっていい! 俺は自分に腹が立ってんだ! 気をつけろと言った俺が、全然気を付けていられなかった。セルフィをこんな目に遭わせて……」
サイファーはダンッとハンドルを叩き、その横顔は悔しさを隠そうともしていなかった。
「あたしは大丈夫だって」
サイファーを思い遣る気持ちもあったが、セルフィは本当にそう思っていた。
「今はな」
妙に何かを悟ったような眼でセルフィを見て、それから先サイファーは何も言わなくなった。
セルフィは何度となく「大丈夫だから」と言ったが、サイファーはがんとしてセルフィの言い分を聞き入れなかった。
根負けしたセルフィも口をつぐみ、大人しく車のシートに座って迎えが来るまで時を過ごした。
「どんな様子ですか?」
キスティスは、奥のカーテンの中に聞こえないように声をひそめて問いかけた。
「ん、まあ、今の所は落ち着いてるね」
カドワキ先生にしては含んだような歯切れの悪い返事だった。
「何か気がかりなことでも?」
「たまにね、後で急にパニックになる症例もあるんだよ。ちょっと落ち着き過ぎてるような気もしてね。セルフィがそうだとは言えないけど、暫く様子見はしたい所だね」
「そうですか……」
半分開かれた窓から入ってきた風が、薄いカーテンとキスティスの髪をそよと揺らした。
「女の子にとっては、かなり耐え難い出来事だったと思うよ。あの子の最も信頼している人間が、暫く傍にいてくれるといいんだけどねぇ」
「心当たりはあるんですけど、生憎と今ガーデンにいないんです」
「―― SeeDか。まだ十代の多感な時期だってのに、あんたたちは。いや、今更だね、こんなことは」
カドワキ先生はそこで言葉を切り、溜息をつくように息を吐いた。
キスティスには、彼女の言わんとすることが良く分かった。SeeDというプロの傭兵ではあっても一人の人間には違いない、高い技能と知識は身に着けていても、心はまだ未熟な部分も多い。こればっかりは経験して鍛えていくしかない。だが皮肉なことにSeeDという身の置き場は、より辛辣な事態に出会う確率が高い。特に自分たちは、大抵のことはあの長い旅で経験したつもりになっていた。だが、今回のようなことがあると、まだまだ未知の体験も多いのだと気付かされる。
ましてや、今回セルフィの身に降りかかった出来事は、心の非常にデリケートな部分に衝撃を与える内容だ。キスティスはそれが気がかりだった。セルフィを大切に思う一人の友人として、同じ女として。
けれどセルフィはキスティスの気がかりを余所に、「キスティスは心配性すぎる」と笑い飛ばした。それでもまだカドワキ先生の所で少し休んだ方がいいのではないかと、キスティスは提案したが、セルフィは大丈夫だと言い張って自室へ戻ってしまった。そこまで言い切られては、キスティスも無理強いする訳にもいかず、「何かあったら必ず言ってね」とセルフィを部屋まで送った後、自分の職務室へと向かった。
今回の件の事後処理と、自分と同じくらいセルフィのことが気になっているであろう人物に、説明をする為に。
「嫌なことは重なるものね」
キスティスは珍しくサイファーが淹れてくれたコーヒーをコクンと飲んで呟いた。
「重なる? 何がだ?」
隣の椅子に腰を降ろし自分もコーヒーを飲みながら、サイファーは訝かしげな顔をキスティスに向けた。
「ついこの前のセルフィの任務のことよ」
「あぁ そうか……そうだな」
ぼそっと呟くと再び顔を目の前にモニターに戻して「薄いな」と、サイファーは自分が淹れたコーヒーに不満を洩らした。
「でも今回の件で例の悪趣味男は逮捕されたそうよ。さっきスコールから聞いたわ」
「そうか」
サイファーにとっては良いニュースである筈なのに、何も映ってはいないモニターを、彼は睨むように見ていた。キスティスはそのサイファーの様子に、小さく息を吐いた。
感情を隠すのはけして下手ではないこの男の変化を、いつから読み取れるようになったのだろう。
「ねぇ 自分を責めてない?」
「責めてるぜ。俺がもう少し早く気がつきゃセルフィはあんな怖い思いをしなくて済んだ。しかもアレはセルフィをおびき寄せる罠だったとか言われて、情けねぇったら」
「でもセルフィは、あなたの所為じゃないって言い張ったでしょ」
「ああ」
「まったく……」
キスティスは空になったカップをゆっくりと机に置き、今度は盛大に溜息をついた。
「みんな、優しすぎ」
「お前もだろ」
ようやくサイファーはモニターから視線を外し、唇の端を上げてキスティスを見た。口元は確かに笑っていたが、それ以外は笑顔とはほど遠かった。
「アイツほどじゃないだろうが、な」
「それなのよねぇ。大事はなかったとは言え、立て続けだから、絶対怒ってへこむわよねぇ、アーヴァイン。下手すると自分を責めそう」
「間違いないな。ま、上手く宥めすかしてやるこった」
「やっぱり、説明するのは私の役目? サイファーがやってよ、当事者なんだし。スコールと違って言えるでしょ?」
「嫌だね。男の俺より、女のお前の方が適任だ」
「セルフィには優しいのに、私には優しくないのね」
あまり感情を露わにすることのないキスティスの、その言葉にサイファーはかなり面食らった。本人はそれに気付いていないのか、平然としてサイファーを見ている。そう言えばこの部屋には、自分達の他には誰もいないのを思い出した。その所為か。普段の彼女からは想像もつかない、素直な感情表現を見ることが出来るこの特権を、サイファーはかなり気に入っていた。
「別の場所でなら、いくらでも優しくしてやるよ」
ニヤリとした含み笑いでキスティスを見遣れば、瞬く間にその凜とした顔が羞恥と怒りに染まっていく様がまた、サイファーは好きだった。
バラムでそんな出来事が起こっているとは微塵も知らないアーヴァインは、時間を見計らってセルフィにメールを送った所だった。セルフィに頼まれた通り、任務に出てからも日に数通はきちんと送っている。返事もちゃんと返ってくる。セルフィに会えない外任務で、それはアーヴァインの唯一と言っていい楽しみだった。
「明後日には帰れる。おやすみ、セフィ」
セルフィからの返信はまだないが、もう夜は随分更けた。返事は起きてからの楽しみとするとして、アーヴァインは冷たいベッドにもぐり込んだ。