Frozen pain

2
「そんなの急にムリ〜」
 セルフィは、向かい側に座る相手に向かって、盛大にごねた。
「そう言わずにお願いだよ、セフィ」
 必死に頼み込むアーヴァインの姿を、食堂横のカフェテリアで目にした者は多かった。だが、皆大して気に留めはしなかった。単なる日常の一風景。というよりバラムガーデンに於いては、もはや背景のようなものだ。ただ、当人達にとってはそれなりに重要度の高い内容で、しかめっ面のセルフィの表情はなかなか元に戻らない。目の前に好きなデザート類を大盤振る舞いされても、ゴキゲンナナメなのは非常に珍しいことだった。
 さっき、アーヴァインの頼みごとを、ろくに内容も聞かずに、了解の意思表示をしたのは、確かに自分だ。頷いてしまった以上、約束は守るべきだと思う。それは思う。けれど、今聞かされた内容は、全く予想もしていなかったもので、セルフィはかなり動揺していた。そして、今はなんとか逃げることが出来たとしても、いつかは立ち向かわなきゃいけない類のものだということも、判っていた。判ってはいたが、あんまり急で、心の準備が出来ていない。だから、今回は……アーヴァインには悪いけれど、断ろう、とそう思った。けれど。
「ダメ〜?」
 この声に、喉まで出掛かった言葉がつっかえてしまった。
 アーヴァインの今の表情(かお)は、とても苦手なのだ。主人に叱られた犬のような、自分の一番弱い所をガツンと突いてくる、その表情が。願いに応えないのは、非道な人間のような気分にさせられる。
 どうしてそんな顔をするのか、哀願するように見つめてくるアーヴァインを、セルフィは下唇をきゅっと噛んで見つめ返した。
 これは根比べ。
 視線を外した方が負けだとセルフィは思った。
 けれど、“見つめられる”という行為に、未だ気恥ずかしさを憶えるセルフィには、長引けば長引くほど逆効果となってしまう。そのことに、セルフィは気付いていない。
 しばらくの攻防の後、頭のてっぺんからプシューと湯気が噴き出す直前、アーヴァインの視線から逃れるように、セルフィは顔をそむけた。
「わ、わかった」
 投げやりにそう返事をして、セルフィは身体の力が抜けたように、くたんとテーブルに突っ伏した。
『卑怯やねん、アービンは。あんな……あんな目はハンソクやっ!!』
 根負けしてしまった悔しさも相まって、セルフィは盛大に悪態を衝いた。
「その代わり、ウエスタカクタスのゼリー追加してな」
 降参はしたが、タダで、というつもりも毛頭なかった。
「了解!」
 それでもアーヴァインは、ひじょ〜にゴキゲンな笑顔で即答した。
 セルフィにはそれがまた癪だったが、もう返事を撤回したりする気はない。成り行きとはいえ、自分の方には付き合ってくれたのだから、こっちにも付き合ってほしいと言われれば、付き合うのが当然だろう。それに、アーヴァインはその“切り札”は使ってこなかった。余程でなければ、必ず逃げ道を用意していてくれる。彼のそういった部分もまた好きで、セルフィは尚更イヤだと言えなかった。






 窓の外を緑で覆われた緩やかな丘陵が流れていく。もうすっかり見慣れた景色。
 最近では睡眠に利用することも多い。けれど、今日は少々寝不足なのにも関わらず、長時間列車に揺られていてもセルフィはちっとも眠くならなかった。それどころか、かなり緊張していて、身体がガチガチに固くなっているような気がする。こんな調子では、もう絶対失敗をやらかしてしまいそうで怖い。大抵こういう時に限って、ヘマをしてしまうのが自分だってことくらい、アーヴァインも知っているはずだと思う。
 セルフィは、視線を隣の席に向けた。隣に座っているアーヴァインは、いつものように脚を組んで読書を決め込んでいる。
「……アービン」
「なに〜? 喉でも渇いた? ジュースでも買ってこようか?」
 相変わらずの優しさに、セルフィはそうじゃないと、アーヴァインの腕を掴んでぶんぶんと頭を振った。
「緊張してる?」
 セルフィは声に出さず頷いた。
「大丈夫だよ、怖い人たちじゃないから。いつものセフィでいてよ」
 のほほ〜んとアーヴァインは言うが、それでもセルフィは緊張が解けなかった。
 大体、緊張するなと言う方がムリだ。か、仮にも、そう、仮にも、恋人(こいびとッ!!)の育った家に行くのだ。殆ど強制連行みたいなもんだけど。それでも最終決断をしたのは自分なんだよな〜、と思うと、セルフィは溜息しか出てこなかった。いま、窓から飛び降りたらアーヴァインは怒るだろうか。というより命がないか。矢のように流れる外の景色を見て、セルフィはまた溜息をついた。
 そう言えば。
 と、窓ガラスに映るアーヴァインの横顔にセルフィは思った。
『アービンの家族って、どんなだったっけ』
 お養母さんが既に亡くなっているというのは聞いていた。お養父さんは確か何かの職人さんで、あと…………。
『兄弟がいたような……お兄さん、弟……あれ?』
「ね、アービン。アービンにはお兄さんがいたんだっけ、弟さん…」
 とセルフィがそこまで言いかけた時、間もなくデリングシティ駅到着のアナウンスが流れた。
「なに? セフィ、よく聞こえなかった、も一回言って」
 乗客達が降りる準備を始めて車両内が慌ただしくなる。
「ん、何でもない」
 どうせすぐに分かることだから、まいいかと、セルフィはもう一度聞き返すことはしなかった。




「こっちだよ〜」
 相変わらずのほほんとした口調で言うと、アーヴァインはセルフィの手を引いた。
 デリングシティの中央駅で列車を降りて、バスに乗り換え、デリングシティの端っこ辺りで降りた。そこから徒歩で10分程度のところに、アーヴァインの育った家はあるのだと言う。
 デリングシティには何度も来たことがあったが、セルフィはこの辺りまで来たのは初めてだった。
 街の中心とは違って古い建物が多く、道幅も若干狭い。デリングシティの中でも、最も古くからある地区なのだとアーヴァインは教えてくれた。そう言われれば、中心地とは違い見かける人々ものんびりしていて、いつかテレビで見た古き良き下町がこんな感じだった。子供達を4、5人並べて叱っているおばさんや、軒先で椅子に座りチェスに興じている老人など、ゆったりとした時の流れと気さくさを感じる。どこかトラビアにも似た雰囲気に、セルフィの緊張は少し和らいだ。
「このドアにあるマークはなに?」
 セルフィはふと気になったものがあった。この通りにある殆どの家のドアには、シンボルマークのようなものがあった。ドアに金属製のものが付いていたり、軒先にぶら下がっていいたりする。
「ここは職人街なんだ。だからドアにはその家で作っているものを表わすシンボルマークがあるってワケ。例えばこの家なら、ハサミと布だから仕立屋ね」
「うわ〜、すごいね。なんだかそれだけで歴史を感じるよ」
「うん、歴史は古いんだ。でも、ここに残っている職人は随分少なくなったんだよ」
「そうなんだ、ちょっと淋しいね」
 脈々と流れる時を見続けて来たであろう、整然と立ち並ぶ家々。セルフィは、心に焼き付けるようにゆっくりと歩いた。
「ここだよ」
 ふいに聞こえたアーヴァインの声に、セルフィはビクッとした。半ば忘れかけていた緊張が戻ってくる。
 通りの突き当たり、正面には行く手を塞ぐように、蔦と緑に覆われた背の高い門があった。職人街らしく一見シンプルだけれど、近寄ると細かい細工のある鉄の門。こんな立派な門構えの家がアーヴァインの家!? と思ったが、からまった蔦の隙間から“公園”と書かれたプレートがかろうじて見える。その神秘的な雰囲気に一瞬気を飲まれたが、やはりそこにアーヴァインの姿はなかった。
 その横の建物。
 手の平ほどの大きさの四角を二つ組み合わせた枠の中に、片刃の剣の形が描かたシンボルマークのあるドアの前に、アーヴァインは立っていた。あまり古くもなく、大きくもないけれど、町並みに融け込むような家。
 アーヴァインが呼び鈴を押すと、すぐにドアの開く音がした。ドキドキと心臓が大きく脈打つのが、セルフィははっきりと分かった。そして、その僅かな間が、酷く長い時間のように思えた。一体どんな人が現れるのか。背中の筋肉がビシビシと音を立てそうなほど、セルフィの緊張は極限に達していた。
「おかえり、アーヴァイン」
 ふわりと良い匂いがした。
「ただいま、レックス」
 見ればアーヴァインは出てきた人物と再会の抱擁を交わしている。その二人を見て、セルフィは微笑ましく思いながらも心に何かが引っ掛かるのを感じた。アーヴァインと再会の抱擁を交わしている相手の顔は、どこかで見覚えがあるような気がしたのだ。しかも――。
「レックス紹介するよ、彼女が電話で話したセルフィ・ティルミット。で、こっちが……」
「あっ!」
「あらっ!」
 いまアーヴァインに紹介されたレックスが、セルフィに向けて手を差し出した所で、お互いが声を上げて驚いた。
「あ、そっか。セフィはレックスが勤めるお店に行ったことがあるんだよね」
 驚く二人とは反対に、ほやほや笑っているアーヴァインののんびりとした口調は変わらなかった。
 セルフィはやっと思い出した。通称キレイなおねーさん。何度か買い物に行ったことのある、デリングシティのショップの店員さん。その艶やかなオリーブがかった茶色の髪は、お店で見た時とは違って豊かに背中を流れているが、顔の横に流れるアシンメトリーな部分は、変わらず知的さと個性とを兼ね備えている。白磁の肌に映える薄い紫色の瞳は空のように澄み、お店で見るときよりも若干悪戯っぽさも感じた。けれど、彼女は女の人だ。ということはアーヴァインのお兄さんか弟さんの彼女なのかなと思った時、再びアーヴァインが口を開いた。
「セフィ、彼女が義姉さんのアレクシア」
「え!?」
 セルフィはまた驚いた。が、ようやく理解することができた。
 アレクシアだからレックス。レックスという呼び名から勝手に男の兄弟だと思っていた。けれど確かにアーヴァインは、彼女をレックスと呼んだではないか。
「セルフィ・ティルミットです。お招きありがとうございます」
 思ってもいなかった事実に頭が混乱しかけたが、取り敢えず、ちゃんと笑顔で挨拶をすることだけは思い出せた。
「こちらこそ、よろしくね〜 私のことはレックスって呼んでね。さ、どうぞ中に入って」
 あのお店で見た、綺麗な笑顔に誘われるように、セルフィは家の中へと招き入れられた。

「アーヴァイン」
 セルフィに続いて家の中に入ったアーヴァインを、レックスはそっと呼び止めた。
「もう、“アノ帽子”は必要ないの?」
「うん、今はね。もう偽らなくていいから。ありがとうレックス」
「そうなんだ、よかったね。で、あの子が“例のセフィちゃん”?」
「なんでそんなこと覚えてるかな〜」
「やっぱりそうなんだ。というワケで夕食の準備ヨロシク〜」
 レックスはふふと、どこか含んだような微笑をアーヴァインに向けていた。
「ええ〜 普通レックスが振る舞ってくれない?」
「いまさら私に“普通”を期待してるの? 相変わらず、甘いわねぇ。その腕前、姉上に披露しようとは思わないの?」
「はいはい、承知致しました姉上」
「返事は一回〜」
 アーヴァインは、心の中で敵わないなと呟いて、レックスの後ろに続いた。