Blue Horizon

 chapt.7 束の間

 フランもスカーレットも、セルフィの危惧など塵にも等しい程、実に落ち着いた大人だった。二人から見れば小娘の、知り合って数日の一介の派遣警備員が、突然切り出した突拍子もない話を、遮るでもなく聞いてくれている。それだけで、セルフィはありがたい事だと思った。自分のつたない言葉をきちんと耳を傾けてくれる二人に、心も落ち着き、セルフィなりに順序立てて話をする事が出来た。
 自分は、SeeDである事。魔女討伐のメンバーであった事。この2つを明かした時点で、それまで半信半疑の色を隠せなかったフランとスカーレットの表情が、ぐっと真摯なものに変わった。
「やっぱりそうなのね、ひょっとしたらという思いはずっとあったの。不安だった事が、はっきりして、変だけれど少しすっきりしたわ」
 セルフィの話を聞き終わるとフランは、どこか安堵したような表情をしていた。
「失礼ですが、何か今までにも思い当たるような事がおありだったんですか?」
「ええ その時は判らなかったのだけれど、あなたの話を聞いてから思い返すと、辻褄が合う事がいくつかあるわ」
「そうですか、差し支え無ければ話して頂けませんか?」
 セルフィの願いにフランは快く答えた。姉夫婦の亡くなった際の不可解だった部分が、ジェナが魔女の力を使ってしまったのだとすると、説明がつく。ただ、その時のジェナは今日みたいに酷く怯えていて、自分が何をしたのかは全く覚えていなかったという事だった。
「それともう一つ、姉が急にジェナの名前を変えると言い始めたの」
「名前を変える?」
「ええ 変えると言っても、名前そのものを変更したのでは無く、スペルを一字足しただけなんだけれど」
「ああ それで……」
 セルフィは今回の任務の資料を受け取った時に、不思議に思った点があったのを思い出した。初めて見る、変わったスペルだと思ったのだ。パッと見、何と発音していいのか分からない、それは後から付けられたものだから、不可思議だったのだ。その謎が解けた、そして、母親の、両親の温かい想いを感じた。
「ちょっといいか?」
 それまでじっと黙っていたスカーレットが口を開いた。それぞれの想いに引き込まれかけていたフランとセルフィは、我に返ったように彼を見た。
「ジェナが魔女だってのは、理解した。で、その先どうすりゃいいんだ? そこが大事なんじゃないのか?」
 スカーレットの話し方は彼の素が出ていたが、実に的を射た発言だった。今、最も優先して論ずるべきはその一点だ。
「すみません、では続けます」
 セルフィは、さっきガーデンと連絡を取った際、指示された内容を二人に話した。魔女である事が判った以上、今までのようにこの場所で生活する事は困難である事。誘拐の件も、既に魔女であるとの情報が漏れての可能性が高い。一端バラムガーデンに身を寄せ、その後はエスタへ行く事になるだろう。そして、出発は出来るだけ急いだ方が良い。
「エスタへですって!?」
 フランはその名に柳眉をひそめた。無理もない事だった。今は変わりつつあるが、エスタは長年沈黙を通して来た国、一般的な印象としては、アデルが引き起こした魔女戦争という負のイメージが未だに根強い。
「はい、魔女の研究が一番進んでいるのはエスタなんです。そしてあの国は、絶対にジェナを悪いようにはしません」
 セルフィは躊躇うことなく言い切った。
「随分はっきり言うな、お嬢さん。エスタのお偉いさんにでも顔が利くのか?」
 両腕を組み、セルフィをまっ直ぐに見る琥珀と赤茶の瞳は、左右の色が違う所為か酷く冷たく、スカーレットと会ってから、セルフィが初めて見る貌だった。
「ええ まあ。大統領には結構お世話になったり、したりしました」
「冗談抜きで知り合いなのか!?」
 ただの皮肉で言ったつもりが、どうやら真実らしいという事にスカーレットは驚いた。
「……はい」
 トップシークレットに近い事のような気もしたが、自分の話を信じて貰うには、正直に言うしかないとセルフィは思った。
「こりゃ、ホンモノだな……」
 スカーレットは、ふうと大きく息を吐き、どさっとソファにもたれた。その貌は、人なつっこいいつもの彼に戻っていた。
「エスタに行くのが良いのは判ったわ、でもバラムガーデンへは何故?」
「それは、魔女に最も近く、現時点で最も安全な場所だからです」
 フランとスカーレットは、一端そこで言葉を切ったセルフィの次の句を待った。
「私達、魔女討伐のメンバーは、孤児院で慈悲深い魔女に育てられました。そしてSeeDは本来魔女の為に作られた組織です。当初は魔女を倒すのが主な目的だったようですが、今は守る為でもあると私は思っています。それと……」
 セルフィはその先を躊躇った。個人の判断で言ってしまってもいいのかどうか、この時点でも判断しかねる。だが、フランにもジェナにも、なるべく心穏やかにガーデンに来て欲しい。恐れや嫌悪を抱いて欲しくはない。バラムガーデンへ来る事が、ジェナの為の最善の方法なのだと知って欲しい。セルフィは意を決するように、ごくんと唾を飲み込んだ。
「バラムガーデンには、友人の魔女がいます」
 流石に、その言葉にフランとスカーレットは驚きの表情を隠せなかった。
「魔女がいるの? 他にも……」
「はい、でも誤解しないで下さい。彼女は意図して魔女になった訳ではありませんが、魔女になる以前も今も心優しい人です。それだけは、どうか ――――」
 懇願するように言うセルフィを、フランは優しい目をして見ていた。
「分かったわ、バラムガーデンへ行くのが最も安全というのは、そしてあなたを信じましょう。あなたの想いと、あなたの経験を信じましょう」
「ありがとうございます」
 フランの返事は、セルフィにとって、これ以上ない位の快諾と言ってよかった。話を了承してくれただけではなく、セルフィ自身を信じると言ってくれた。SeeDとは言えどたかだか2年足らずの新米SeeDを、この状況で信頼するという事は、命を預けるという事と同義だ。それは、かなりの重責だが、同時に例えようもなく心が震える。自分に生きる意味を与えてくれる瞬間でもあった。何としてもこの人達を無事にガーデンに送り届ける、セルフィは改めてSeeDとしての自分に誓った。

「スカーレットはどう思って?」
「私は、主の決定に従うのみです」
 スカーレットは静かに低頭した。
「私たちの意志は今伝えた通りだけど、主人に黙ったままこの件を進めるわけにはいかないわ。明日の昼には帰宅の予定だから、それまで正式な返事は待って貰えないかしら。と言っても、他に選ぶ道はないのは私も分かっているから、準備は進めてくださって構わないわ」
「はい、分かりました。その時間に合わせて、迎えの段取りをガーデンへ連絡しておきます」
「あ、小型の飛空艇でもいいなら操縦できるし、こっちから行くぜ。もし、この家のを使わせて貰えればだが」
「そうね、可能ならば、その方が助かるわ」
 セルフィは、ガーデンの高速艇に迎えに来て貰う方が、より安全だとは思ったが、見知らぬ場所へ否応なしに連れて行かれるジェナの心情を思うと、親しんできたロワ家の飛空艇の方が良いだろうと判断した。
「構わないと思います。その件も連絡しておきます。それと、ジェナについてですが……」
 セルフィがジェナの名前を出すと、フランとスカーレットの顔は少し曇った。
「ロワ夫人から伝えて貰うのが、最善かと思うのですが」
 一気に場の空気が重くなった。
 さっきまで全く聞こえなかった、室内にある時計の刻む音がやけに大きく耳に響く。
 ジェナに伝えるべき真実。
 彼女の様子から、本人には魔女の自覚はないようだ。だが、G.F.をジャンクションしてもいないのに、明らかに魔法の力を使っている事から、魔女の力を継承しているのは間違いない。自覚がないのは、その継承に何らかの問題があった、という位しか現時点では理由を思いつかない。その無自覚の、いたいけな少女に告げるべき事実は、あまりにも重い。
「そうね、私から言うわ。その時セルフィさんも同席して貰えるかしら」
「はい、もちろん」
「そうと決まれば、今日はもう寝た方がいい。セルフィも寝てくれ」
 スカーレットにそう促され、フランにも同意を示され、セルフィは書斎を退室して、自分に与えられた部屋へと向かった。



※-※-※



 翌朝早くにセルフィは目が覚めた。
 ベッドに入ったのは、ほんの三、四時間前、身体も心もかなり疲れている筈だった。だが、緊張のせいか、勝手に目が覚めてしまった。魔女が他にもいたなんて、魔女に近いSeeDの自分にも、にわかには信じ難かった。探そうとしても、容易く探し出せる類のものではない。極秘中の極秘、その一連の対応を一人でするはめになるとは……。普段、自分が楽天家な事に関しては、自慢にも自負もしていたが、流石に相手が相手だけに、今回は楽観視など出来なかった。ただ少女をガーデンまで連れて行くだけ、ドールからバラムガーデンまでは大した距離ではない。その距離が、今は世界の果てのように遠い場所のように思えた。
「平常心、平常心……」
 落ち着かせるように呟く。
 ふと時計を見ると、フランとの約束の時間までには、まだ少しあったので、もう一度ガーデンへ連絡を入れた。その時に対応してくれたのがキスティスだった事もあり、それとなくアーヴァインの様子を聞いてみようと思ってた所へ、逆にキスティスの方から教えてくれた。彼はリノアのお陰で傷もすっかり癒え、今はカシュクバール砂漠へ任務で行っているとの事だった。今夜にはガーデンに戻る筈だから、あなたも早く帰って来なさいとまで言われた。早く帰って来いとか言われても、事情を知っているキスティスの気遣いだろうと思うけど、今予定外の任務中で動きようがない、どないせーちゅーねんとツッコミたかったが、ぐっと堪えて通信を終えた。
「そっか、任務に出てるんだ。元気……かな」
 セルフィは急にアーヴァインの声が聞きたくなって、携帯電話をパチンと開いた。だが、時差の関係で既に任務中の時間だろうという事に気が付き、メールを送っておく事にした。
「もうちょっとしたら、アービンの笑顔見られるかな」
 携帯に保存してある、アーヴァインの画像を見てセルフィは呟いた。優しそうと言ってくれたジェナの言葉を思い出して、少し気恥ずかしくなる。そして嬉しかった。彼は本当に優しい、それをジェナが感じてくれた事が嬉しかった。ただ、今はその優しさが、細やかな気遣いの出来る繊細さが裏目に出ている。まだ辛いのだろうか、それとも吹っ切れたのだろうか。会って確かめたい、力になりたい、自分に何が出来るかなんて、さっぱり自信がない、むしろ何かしてあげようなんて、自分のエゴでしかないという事も分かっている。それでも―――― 会いたい、堪らなく逢いたい。

 pipipipipipi...........。昨夜寝る前にセットしていたアラームが鳴る。
「ジェナの所に行かなきゃ」
 セルフィはスッと立ち上がると同時に気持ちを切り替え、SeeDの顔をして部屋を後にした。



 ジェナの部屋は、昨夜と同じ部屋とは思えない程、とても明るい色に満ちていた。子供らしい暖色系の壁紙に、可愛らしい調度や小物の数々。薄いカーテン越しに差し込んでくる柔らかい日差しに照らされ、椅子にちょこんと座っている姿は、小さな天の御使いのように愛らしかった。
「ジェナ、こっちへ」
 いつものように微笑んでフランがジェナに手を差し伸べると、ジェナは躊躇うことなくフランの手を取り、柔らかい毛足の絨毯に座った。
 場に流れる空気を敏感に感じたのか、どこか不安げに見上げたはしぱみ色の瞳が、悲しくも美しかった。


「フランママ、本当にわたしは魔女なの?」
 困惑した瞳でフランの顔を見つめるジェナに、セルフィも胸が痛くなった。
「ええ ジェナ本当よ。でも、あなたはバケモノじゃない。悪い魔女でもない、それだけは絶対信じて。自分の事、嫌いになっちゃダメだよ」
 セルフィは堪らずそう言っていた。
「おねえちゃんの育った孤児院の話覚えてるよね?」
「うん」
 ジェナは、フランの膝の上に手を置いて、不安げな顔でじっとセルフィを見ていた。
「そこでおねーちゃんを育ててくれた人も魔女だったんだよ、とっても優しい人、だから怖がらないで」
「ジェナ、セルフィさんのお友達にも、優しい魔女さんがいるんですって。きっとその人がジェナに色々教えてくれるわ」
「でも、パパとママを…わたし……」
「ジェナ、それは違うわ。あなたはパパとママを傷つけてはいないのよ。あなたが憶えていないだけ」
「本当に?」
「ええ 本当よ」
 優しく微笑むフランに、ジェナの不安気な顔が漸く解けていった。
「分かった、わたしバラムガーデンに行く」
 セルフィとフランが、はっきりとその言葉を聞いた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します。旦那様がお戻りです」
 使用人が、主の帰宅を告げに来た。その連絡にフランは、「それじゃ」と言って使用人と共にジェナの部屋を後にした。それと入れ替わるように、スカーレットが入って来た。
「話は終わったみたいだな。昼食の用意をしたんだがどうだ?」
「ウエスタカクタスのゼリーある?」
 ジェナはスカーレットに駆け寄ると、さっきとは打って変わって、明るい声で言った。
「ああ モチロンあるぜ。ジェナの好物を忘れるわけないだろ?」
 スカーレットは、セルフィと初めて会った時のような、屈託のない笑顔でジェナにウィンクをした。
「行こう、おねーちゃん。スカーレットの料理は美味しいんだよ」
 にこにこと笑顔でジェナは、セルフィの手を引っ張った。その笑顔の意味する所をセルフィは計りかねたが、とても温かい何かが、身体に流れこんで来るのを感じた。きっとこの子は大丈夫、この年にして、思い遣りというものを知っているこの子なら。セルフィのそれは、確信だった。
「そうなんだ、楽しみ〜」
 セルフィも、にこにことジェナに引っ張られた。そして、スカーレットの言葉に、聞き捨てならない部分があった。こんな所で世界三大珍味のウエスタカクタスが食べられるとは。本能に忠実なセルフィのお腹がぐう〜と鳴った。


 昼食、というには気前が良すぎる位の品数が並んでいた。まるで晩餐のような……。そこまで思った時、セルフィの鼻の奥がツンとした。この気前の良い料理を作った豪快な人とは裏腹に、静かに流れる優しさに。
「うわ〜ん 美味しい!」
 セルフィは、ほっぺたを押さえて、料理のおいしさに猛烈に感動した。
「でしょ〜 スカーレットはこんな男の人だけど、ここのシェフより料理が上手なの」
 ジェナは自慢げにセルフィに言った。
「シェフは言い過ぎだぞ、ついでに『こんな』は余計だ、ジェナ」
 そう言いながらも、スカーレットはすこぶる嬉しそうだった。
「うはー ウエスタカクタスのゼリー、サイコー!」
 セルフィは、宝石のように綺麗な緑色のゼリーを一口食べる毎に、感嘆の言葉を洩らした。
「だろう、今朝ガルバディアから運ばれて来たばっかりだからな」
「もう涙が出そう! こんなトコで食べられるなんて〜」
「もう一個食うか?」
「はいっっ!!」
 スカーレットは満足げな笑顔と共に、セルフィにもう一個ゼリーを渡す。
「スカーレットさん料理上手いんですね〜。コックでもされてたんですか?」
「いや、料理はただの趣味っつーか反動つーか」
「反動!?」
 セルフィは二個目を頬張りながら訊いた。
「昔、お嬢さんと同じガーデンにいたんだな」
「そうだったんですか〜 バラムですか?」
「いや、ガルバディア」
「あ、何か納得。あそこ、厳しいですもんね。あたしなんかトラビアに居たんで、初めてガルバディアガーデンに行った時、絶対無理だと思いましたもん」
 セルフィはうんうんと頷きながらも、ゼリーを口に運ぶ事は止めなかった。
「確かにな、ま、俺はテキトーに規則破って遊んでたけどな」
「やっぱり……」
 この豪快な性格では、さぞガルバディアガーデンは退屈だったろうとセルフィは思ったが、やはりそうだったらしい事に、スプーンをくわえたままクスッと笑ってしまった。
「おい、やっぱりってのは……まぁ、当たっちゃいるか。結局退学しちまったし」
 スカーレットは、照れくさそうに笑うと、日差しに溶けそうな薄い色の金髪を乱暴に掻いた。
「あ、すみません……」
「あはは 気にすんな。俺は今の自分に満足してるし、あそこで得た物はしっかり身になってる」
「ですよね。あたしなんか、料理が上手いってだけで尊敬の対象ですよ!」
 セルフィは、少しバツが悪くて素早く話題を切り替えた。
「セルフィは、料理が苦手なのか?」
「う〜ん 苦手って言うか、近くに上手い人がいると、自分がしなくても別にいいか〜って思っちゃうんですよね」
「おねーちゃん、それじゃダメだよ。恋人にはちゃんと手料理を食べさせてあげないと」
「ふぐっっ」
 セルフィは今まで黙って二人の話を聞いていたジェナの言葉に、食べていたゼリーを思いっきり喉に詰まらせそうになった。
 本当に子供というのは、時々ものスゴイ勢いで痛い所を突いてくる。今のはまさにセルフィの急所ど真ん中にヒットしていた。きょとんとしているジェナと、目の前で豪快に笑うスカーレットを、セルフィは複雑な心境で交互に見比べて、項垂れた。



※-※-※



 一時の楽しい食事を終えた頃。フランとロワ家当主が、ジェナの所にやって来た。
「ジェナ」
 当主は抑えた声と抑えた笑顔で名を呼ぶと、ととっと駆けてきたジェナを、屈んで抱き締めた。
 長い抱擁だった。


「フラン、気をつけて」
 小型の飛空艇が、高いエンジン音を響かせる中、フランが当主と別れの挨拶と抱擁を交わす。
「ジェナ、どこにいても愛しているよ。ママをよろしく」
「はい、行ってきます」
 抱き締めた大きな背中に精一杯手を回し、ジェナははっきりと言った。
「では、お二人をお預かりします」
 セルフィは、姿勢を正しSeeD式の敬礼をした。ジェナとフランが飛空艇に乗り込んだ後、最後にもう一度、見送る当主に軽く会釈をして、ロワ家の小型飛空艇に乗り込む。
「出発してください」
「了解っと」
 操縦席の隣に座り、スカーレットに出発の合図をする。
 飛空艇は、なめらかな弧を描き空へと舞い上がった。見る見る内に小さくなっていく、ドールの街。セルフィにとって別段変わった光景ではないが、今は下を見る気にはなれなかった。そして後部座席を振り向く事もしなかった。今はただ振りかえるよりも、前を向く事の方が大事、そう心を奮い立たせた。

「ちょっと時間かかってるね」
「あ? ああ、そうだな。久し振りの操縦なんでちょっと慎重にな」
 そろそろバラムが見えてくる頃だと、セルフィは口を開いた。ドールとバラムは近い、飛空艇ならあっという間に着く。流石にここまでは、ジェナ誘拐を目論む者も手は出せまい。もう、殆ど安全圏と言ってもいい。だが、緊張しているせいか、酷く時間の流れが遅く感じられた。バラムガーデンまでの距離が、とてつもなく長い感じがする。情けないな〜と自嘲して、何げなく携帯電話を取り出し、ディスプレィに見えた数字に、セルフィは新しい緊張を覚えた。
 慌てて、視線を四方に巡らす。だが、視界に目指すものは全く見当たらなかった。ただ大海原が広がるのみ。
『まさか……』
 たらりと、背中を何かが流れた。
 そっと気配を殺して操縦席を窺うと、殆ど視力はないという赤茶の瞳が、真っ直ぐに前方を見据え操縦桿を握る姿が見えた。
「気が付いたか? お嬢さん」
 低く抑えた声だった。
「さあ、何の事かな〜」
「とぼけなくていい、お互いプロだ。分かるよな、この状況、後ろの二人の事も……」
 他人にとぼけるなという言う割りには、スカーレットは奥歯に物のはさまったような物の言い方をした。セルフィはその言葉に全てを悟る。操縦桿を握る彼に従わなければ、恐らく……、そして彼は容赦などしない。
 セルフィは背中が酷く冷たくなっていくのを感じた。