月琴路
三、夜に惑いて
涼やかな水面を渡るように流れる琴(きん)の音色。
月の名を冠したその琴は、細く硬い鋼同士が触れ合ったような凜とした強さの中にも、夜の闇を包み込むように柔らかさを含んでいる。その妙なる音色に、庭園に住まう美しい声で鳴く虫でさえも、今宵は黙して広い軒先で奏でられる合奏を聞き入っているかのようだ。
「佳舜(かしゅん)、また腕を上げたようだね。これでは君との合奏には私のような腕では不釣り合いだ」
琴をつま弾く青年は、柔らかな物腰と穏やかな微笑で隣で同じように月琴を弾く娘に語りかけた。
「伯攸(はくゆう)兄様の音色は素晴らしいわ。私の方が不釣り合いよ」
艶やかな黒髪をさらりと揺らして佳舜も、伯攸と同じように微笑を隣の合奏相手に向けた。
「月も雲居に隠れてしまったね。今日はこれでお仕舞いとしようか」
「そうね」
刻は深夜に差し掛かろうとしていた。あまりにも月琴の音色が心地よく、佳舜はつい刻が過ぎるのも忘れて演奏していたことに気がついた。
佳舜の月琴も持ち、伯攸は椅子から立ち上がると、佳舜を促すようにして室の中に入る。
「今度は、“蓮華白水”を演奏してみないかい?」
「あの曲はまだ私には難しすぎてだめよ」
蓮華白水は恋の歌。未だ淡い恋も知らぬ自分に弾きこなせはしないと佳舜は思っていた。それでも一度聞いたその曲の美しさに心惹かれ、練習もしてみたが、聞いた時の心震わされるような音色を奏でられるようになるには、気の遠くなるような時間が必要だと思い知らされたばかりだった。
「そんなことはないよ、一昨日は弾いていたじゃないか」
「兄様、聞いていたの?」
「ああ、庭を散歩していたら風に乗って聞こえてきたよ。佳舜の音色はすぐわかる。凜として美しい、帝の楽士にも負けまいよ」
「兄様、褒めすぎよ」
「褒めすぎてなどいないよ。佳舜ならば貴妃として後宮に上がることも出来る身分だ。そうなれば、美貌と楽才で寵姫となること間違いないよ」
「本当に褒めすぎよ」
本当にそうなるのが悔しいとでも言いたげな顔をした伯攸の言葉が、佳舜は照れくさくて堪らなかった。
貴妃など考えたこともなければ、夢見てもいない。佳舜にとってはまるで雲の上のような話だ。
「また氣術の勉強をしていたのかい?」
佳舜の月琴をいつもの棚に置いた後、伯攸は今しがた佳舜が卓子の上に置いた書物に目を止めた。それをついとつまみ上げて捲る。
「ええ、私に出来ることはそれくらいだから。父様には遠く及ばないけれど」
「氣術師にでもなるつもりなのかい?」
伯攸はやや乱暴に書を卓子に放り投げた。佳舜は足早に卓子に駆け寄り書を拾い上げ、胸に抱くように抱きしめる。
「そうね、出来ればそうしたいと思っているわ。そして都へ……」
「佳舜」
「痛っ!」
伯攸がいきなり佳舜の肩を掴んだ。
伯攸の方に向かされ、穏和な彼らしくない乱暴な扱いに戸惑った。いつもは穏やかな伯攸の顔が、心なしか怒りを含んでいるように見える。
「ここを出て行く気なのかい?」
いつもと変わらぬ優しい声音なのが怒気を帯びた表情とそぐわず、佳舜はますます困惑した。
「……それは」
言い淀んだ佳舜の肩を掴んでいる伯攸の手に力が籠もる。
「佳舜、ここにいてはくれないか。私の傍に」
「伯攸兄様それはどういう……」
真摯な瞳が真っ直ぐに佳舜を見つめる。
「分かっているだろう、佳舜も。一生私の傍に、妻になってほしいということだよ」
「それは……それは、出来ない」
「なぜだ?」
佳舜は自分を捉えている視線から逃れるように横を向いた。
この年上の従兄は穏やかな人柄で、昔から佳舜に優しくてくれた。
幼い頃この屋敷に一人連れて来られた佳舜にとって、本当の兄のような存在だった。父の生まれた屋敷だとは言え、初めて訪れ見ず知らずの者ばかりの中で、優しくて何かれと世話を焼いてくれる伯攸は、佳舜にとってとても頼れる存在だった。
やがていつの頃からか、自分を見る伯攸の眼差しにどこか熱っぽいものが混じっているのにも、佳舜は薄々勘づいてはいた。
恐らく、伯攸の妻になれば自分には安寧とした日々を送ることが出来るだろう。
だが、伯攸に抱く愛情は兄妹や家族のそれであり、恋愛としての愛情ではない。応えたいと思ったことはあったが、終ぞそれ以上の想いは抱けなかった。
それよりも、もっと強く願っていることが佳舜にはあった。
「都の父もそれを望んでいる。きっとそなたの父上も。この家を共に守っていってほしい」
「叔父上が? 嘘です。叔父上は、いつか私を都に呼びたいと仰っておいででした。都が落ち着けば必ず生まれ育った屋敷に、と」
「都になど行かなくてもいい。佳舜は私の所にいればいい」
伯攸は声を荒げた。良家の子息らしく逞しいとは言い難い腕で掴まれて、それでも佳舜の肩が軋んだ。
「伯攸兄さま、それはあんまりだわ」
「うるさい! 佳舜は黙って私の妻になればいいのだ。それが咎人の娘を長年世話してきたこの家への恩返しだろう?」
「違う! 父様は咎人なんかじゃない」
心ない言葉を浴びせられ、佳舜の心は戦慄いた。
幼い頃、父が死ぬと突然都の屋敷から突然ここへこさされた。母とも引き離され、一人この父の生まれた屋敷へ。それと入れ替わるようにして、叔父が都へ上った
一年ほど経った頃、母の死を知らされた。時を同じくして、父は罪を犯して処断されたのだと伯攸が辛そうな顔をして教えてくれた。
伯攸が嘘を言うとは思っていなかったが、信じることも出来なかった。父は何より実直な人だ。優しくて、強くて。もし伯攸の話が本当だとするなら、そこには何らかの事情があったのではないか。いつも自分には穏やかな顔しか見せなかった父が、死ぬ一月ほど前から朝廷から帰った後険しい顔をしているのを何度か見て、佳舜は幼心にもそう思っていた。大きくなったら都へ行って、真相を確かめる。それだけを願って、この屋敷で生きてきた。いつか必ずと心に念じそれだけを生き甲斐として今まで生きてきた。
佳舜に優しかった伯攸が、たった一つ許してくれなかったことがある。
ある時から佳舜が屋敷の外へ出ることを禁じたのだ。十二、三才の頃だっただろうか。落ち着いたら、必ず呼び寄せると言ってくれた叔父からの便りも全くなく、どうしても待ちきれなくなって、ある日伯攸と共に街を見物がてら歩いていた時、彼を捲いてひとり都に向かおうとしたことがあった。当然のようにすぐに見つかり屋敷へ連れ戻された。そして伯攸に外出を禁じられた。あまりに伯攸らしからぬ厳しい仕打ちに、愕然となった。
叔父の屋敷は広く、良く面倒も見て貰い、屋敷へ出ずとも不自由することはなかった。けれど、街の空気は屋敷とは全く違い、幼い頃父によく都の市中を連れて歩いて貰ったことが思い出され、懐かしく楽しかったのだ。街の皆と触れ合うのが面白かった。色んな人間に出会えるのが。
それ以後も、佳舜の心はいつもこの屋敷の高い壁の外を見ていた。遠い都の父そして母の元へと、心だけはいつもそこに向けられていた。いつの日か、かならずこの屋敷を出て都へ帰る。その為にもと、父に教わった氣術を必死で身に着けようとした。
恐らく、伯攸はそんな佳舜の思いを見透かし、屋敷から出さずにいたのだろう。今ならそう思える。
「佳舜にはどこにも行く所などないよ。君の持っていた氣術の書も全て焼いた。これで君はどこへも行かれない、私の傍にいろ」
何も言わない佳舜に業を煮やしたのか、伯攸の表情が見たこともない冷たさを湛え、視線は今にも射抜きそうなほどの鋭さをもって佳舜を見ていた。
「父さまの形見を伯攸兄さまが……?」
確かに伯攸の氷のような視線が佳舜の胸を今、射た。
何より大切にしていた、唯一の父の形見。それを全部燃した!? にわかには信じることが出来ず、佳舜は伯攸の腕を振り解き、書の仕舞ってある棚に駆け寄り乱暴に扉を開けた。
「――ない」
伯攸の言った通り、棚の中にあるはずの氣術の書は全て失くなっていた。
佳舜は呆然となった。
父から譲り受けた書をどれだけ大切にしていたか。父と自分を繋ぐ唯一のもの。そして、あれだけが、佳舜に残された自由だった。
それを全て奪われてしまった。
まるで我が身を焼かれたように、胸が痛い。
心の殆どが無になっている佳舜は、自分の身に何が起こっているのかしばらく気づかなかった。
『――っ!』
柔らかく生臭い感触が、唇を首筋を這い回っている。何事かと視線を巡らせ、そこに見えたのはどういうことか見慣れた天井の模様だった。
躰の上には重いものがのし掛かっている。
更に氣持ちの悪い感触が着物の合わせから侵入して、飛び上がらんばかりに驚いた。
『いやっ!』
声に出して叫びたいのに、塞がれた唇は呼吸すらままならない。
「やめてっ!」
やっと声を発することが出来た時には、着物の前がはだけられ乳房が冷たい風に曝されていた。
「……い…や……」
両の腕は別の手に拘束され、躰ものし掛かる重みで動かせない。
何故こんなことになっているのか、その理由が見つからず、佳舜の頬を涙が濡らした。脳裏には女のたしなみだと、侍女から見せられた春画の絵が蘇る。正に今、あの絵のようなことが自分の身の上に起ころうとしているのだと悟った。
慕っている相手なら違ったのかも知れないが、今の佳舜は恐怖しか感じなかった。
頬を染めて、知り合いの話だと、赤裸々に語ってくれた侍女から聞いた内容とは激しく異なる。心溶けるような心地よさなど、微塵も感じない。
「伯攸従兄さま、やめて……こんなの……いや」
相変わらず伯攸の唇と舌が佳舜の白い肌を舐め回していた。佳舜はやっとの思いで声を絞り出す。
「大人しくしていれば、乱暴には扱わないよ。私はお前を愛しているのだからね」
伯攸の声音は優しかった。けれど今となっては、佳舜にはもう功を奏さない。このまま伯攸の妻にされてしまう。ただその悔しさのみがが肌身に広がっていく。
こんな風な結末を迎える為に生きてきたのではない。
それなのに、自分の力では男にしては細身の伯攸を突き飛ばすことも敵わない。初めて男と女の差というものを痛感させられ、気力までも萎えていくのが分かった。
抵抗するのは無駄だと理解したのか、必死で逃れようとしていた佳舜から力が抜けて、伯攸は安堵した。ただ佳舜は何も言わず横たわり、伯攸のされるがままになっている。その瞳が何を映していようが、何を思っていようが、伯攸は一向に構わなかった。
伯攸は佳舜の腕を拘束した手を別の場所へと移動させた。着物の裾をめくり上げ、手を差し込み、ゆっくりと撫でながら這い登り、太腿の感触を堪能するように撫でまわす。
得も言われぬ感覚が佳舜を襲った。知識はあっても経験はないのに、躰の奥がうち震える。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
吐き気をもよおすような気持ち悪さが全身を襲う。
「いやあぁぁーーっ!!」
佳舜はあらん限りの声で叫んだ。
「シュエレン!!」
めちゃくちゃに手を打ち振るうシュエレンの腕を掴み、リャンは名前を呼んだ。
「……離して…」
か細い声の後、閉じた瞼から雫が流れる。その苦しげな表情にリャンは、もう暴れることをやめたシュエレンの手を労るように握り直した。
「シュエレン――」
優しく呼びかける。
そうするとシュエレンは数回瞼を瞬かせて、ゆっくりと開いた。焦点の合わぬ瞳が虚空を彷徨ったあと、ゆっくりとリャンの方に移動し、その姿を今度はしっかりと捉えた。
「……リャン?」
「そうだ、気がついたか」
リャンはホッとしたように息を吐いて、もう一度シュエレンの手を握った。
「すまないシュエ、俺のせいでこんなことに」
「何の話? 私どうして寝かされてるの?」
シュエレンにはリャンの言っていることがわからなかった。
自分とリャンは確か、依頼を受けて妖鬼退治に出掛けていたはずだ。それが、どうしてか寝台に寝かされている。
「俺がシュエを守れなかったんだ。妖鬼の策略にはめられシュエが狙われていることに気づくのが遅れて、シュエを庇いきれなかった。すまない」
シュエレンはリャンの話を聞いてようやく思い出した。
そうだった。妖鬼は手強いリャンではなく、シュエレンに攻撃相手を変えたのだ。シュエレンも気づいたが、妖鬼の動きは俊敏で、防御が間に合わなかった。だからリャンが急いで庇ってくれようとしたのだが……。この様子だと、自分は妖鬼の攻撃をまともに喰らってしまったらしい。
「私こそ、すまない。またリャンの足を引っ張った」
自分の技術がもっとあったならば、リャンに庇ってもらう必要もなく、彼を援護することも出来たはずだ。それなのに自分はまだリャンに迷惑をかけてばかりだ。その上――。
「リャンも怪我をしてる」
寝台に腰掛けたリャンの太腿には血の滲んだ布が巻いてあるのが見え、シュエレンは思わず躰を起こした。
「気にするな、かすり傷だ。主もちゃんと守れねぇヘボには、これくらいで済んでむしろ御の字だ」
そう言って笑うリャンの笑顔にシュエレンは痛みを覚えた。
「それより、シュエレン。随分うなされていたが、どこが痛むんだ?」
「別にどこも痛くない」
「そうなのか? 俺の気づかなかった怪我とかあるんじゃないかと思ったんだが。そうか、痛くないなら……シュエレン、どうした、やっぱどっか怪我してるんじゃ」
「どこも痛くないわよ」
「シュエ、ならどうして泣く……」
「私……」
リャンに言われて頬に手を当てると、濡れていた。
あの夢のせいだ。さっきまで見ていた――――。
何もかも捨てて、今こうしている元凶。忘れようとしていたのに、また傷口が開いた。
「シュエレン、何か辛いことがあるんじゃないのか? さっきもうなされながら泣いていたぞ」
「リャン……」
シュエレンはどうしたらいいか戸惑った。
知り合って間もないが、リャンは信頼するに足る相手だと思う。話を聞いてもらえれば、気持ちは軽くなるかもしれない。けれど、自分の身の上に起こった話をするのは躊躇われる。言えばリャンに嫌われてしまうような気がして。
それはとても辛い。軽蔑されるような気がして怖い。
「言いたくないのをムリに聞こうとは思わないが、俺でもいいってのならいくらでも聞くぜ。シュエは俺の主だ。主の心の重りを軽くするのも従者の務めだ」
主と従者。
その言葉がシュエレンの心にトゲのように引っ掛かった。
主と従者としてならば、別におかしくもない……。
「ありがとう、リャン。じゃあ、少しだけ抱きしめて」
「お安いご用だ」
リャンはニカッと笑うと、そっとシュエレンを抱きしめた。
リャンの温もりに触れて、シュエレンは心が解け出していくようだった。伯攸に触れられた時とはまるで違う。
人の体温が安心を与えてくれるものだということを、ようやく思い出した。幼い頃、父が、母が、泣いている自分を抱きしめてくれた時と同じ心地よさ。
人の血は半分しか流れていない相手だと言うのに、家族のような温かさを感じる。これも契りを交わした主従故なのだろうか。
それよりもこんな自分は変な気がする。何故リャンの言った“主従”という言葉に胸が痛み、後ろめたさを感じるのか――――。
シュエレンは自分でも知らないうちにリャンに巻き付けている腕に力を込めた。
「シュエ……? やっぱりどこか痛むんじゃないのか?」
痛い。
リャンの優しい声が胸をちくちくと刺す。
今、わかった。自分はリャンを利用したのだ。伯攸が触れた痕跡を一刻も早く消したいがために。伯攸との関わり合いをすべて断ち切りたいがために。
だからリャンの出した条件を快く受け入れた。お互いの利害関係が一致して良かったとすら思ったのだ。これで気負うことなく契約出来ると。
それなのに今のこの胸の痛みはなんなのか……。
シュエレンは今まで感じたことのない痛みから逃れるために頭をぶんと振った。とその時、血の滲んだ布が目に入った。リャンの太腿に巻かれた布。
「リャン、傷に癒やしの氣を送ろう」
唐突にシュエレンはリャンから離れた。
「大丈夫だ、大したことない」
「でも、またリャンが一人で戦うことになった。私は足を引っ張っただけ。せめてこれくらいはさせて」
「やさしい主殿だな」
リャンはどこかすまなそうな顔をして微笑した。
「リャンに助けられてばかりの、頼りない主の間違いだ」
「だからそのうち強くなるって、そう卑屈になるな」
リャンは優しくシュエレンの髪を撫でた。
「うん、ありがとう。そのためにも氣を使わせて」
「そういうことなら、わかった」
シュエレンは血の付いた布に軽く手をあてがい、氣を集中させ、リャンの怪我が癒えるように念じた。
「傷を見せて」
しばらく氣を送ったのち、シュエレンは確認のためにも怪我してる箇所をちゃんと見たいと思った。
「は!? 脱げってか!?」
「でないと癒えたかどうかわからない」
リャンはあきれたような困ったような顔をしてシュエレンを見た。
「リャン?」
シュエレンはリャンの顔を覗き込むようにして見上げた。
「は〜、まいったな。傷は自分で確かめる。シュエはちっと後ろ向いててくれ」
「!!」
リャンにそう言われて初めてシュエレンはとんでもないことを言ったのだと知った。リャンが怪我を負った場所は、太腿でもかなり上の方だ。そう思うと途端、羞恥が躰を駆け巡る。
言われた通りシュエレンはリャンに背を向けた。背中越しに着物を脱ぐ気配がする。それが妙に生々しく感じられ、シュエレンの動悸が少し速まった。
「大丈夫だ。キレイに癒えてるぜ」
「よかった」
リャンの言葉を聞いてシュエレンは安堵した。少しでもリャンの役に立てて良かった。
けれどまだ何か心の奥に霞が掛かったようにすっきりしないものを感じる――――。
これは一体なんなのだろう……。
「シュエ、もうね…ろ……シュ…」
着物を再び身に着けシュエレンの方を向いたリャンの手を引き寄せ、シュエレンはリャンに口づけていた。
「いや?」
唇を離して問う。
「俺は願ったり叶ったりだが……シュエはいいのか?」
一瞬驚いたような表情はしたものの、リャンはすぐにいつものように不敵に笑った。
「これは助けられた正当なお礼だから、黙って受け取って」
シュエレンはそっとリャンの頬に指をすべらせ微笑んだ。
「シュエレン、お前……」
「??」
リャンは初めて見る艶を帯びたシュエレンの瞳に驚いたが、その先は言葉にしなかった。
「ダメ、リャンはじっとしてて」
「は?」
いつものようにリャンがシュエレンの腰を抱え自分の躰の下に組み敷こうとしたのを、彼女が止めた。
「今日は私から“お礼”をさせて。だからリャンが下」
「は? シュエなに言ってる」
リャンは面食らった。自分たちはただの契約で躰の関係を持っているに過ぎず、シュエレンが望んでいる行為だとは思っていない。ましてや、彼女はその手の商売女でもない。
「イヤなの?」
「そうじゃないが……その、だな」
「じゃあ好きなようにさせて。これは“感謝”だから。でも期待はしないで、初めてだから」
「……あ、ああ、わかった。じゃ、よろしく」
よろしく、と言うのも奇妙だと思ったがリャンはありがたく“感謝”を受け取ることにした。何より、「好きにさせて」と言ったシュエレンの顔は、恥ずかしいのか少し赤みが差していたものの微笑んでもいて、それが作り笑いとは思えず、正直嬉しいとも思ったのだ。
『うわ――これは……』
着衣を全て脱ぎ寝台に横たわったリャンの胸に口づけを始めたかと思うと、もう勃ち上がっているモノを躊躇うこともせずシュエレンは、そっと手で包んだ。
たどたどしくはあるが、胸の頂きを吸う唇にも、リャン自身を包んでいる指にも、彼はすぐに酔わされることとなった。
「…はっ」
舌で転がしていたかと思えば、軽く歯を立てられる胸の頂き。下の方では自分自身を握っている手が緩慢な動きで緩急を繰り返しながら扱いている。躰の中でも特に感度の高い部位に同時に刺激を受けて、リャンは堪らず声を吐いてしまった。
『まさかこんなに上手いとは……』
初めてだと言うシュエレンの言葉をリャンは甘くみていたと少しばかり後悔した。甘くみていた所為か、強い快感を覚える。今や所在なく自分の脇腹を彷徨う、余った方の指先の感触さえ、堪らなく甘美だ。
次第に躰は汗ばみ、未だ唇が弄ぶ胸の突起あたりはシュエレンの唾液と自分の汗で濡れているのだろうと思う。自分自身は溢れた自身の体液でもっと濡れ、シュエレンが指を動かすとぐちゅと卑猥な音までたてる。
「…っ!」
シュエレンが躰を離す気配がした後、またリャン自身を生温かい感触が包んだ。さっきとは違う茎全体をすっぽり包み込むぬるぬるとした感触に、それが何であるかはリャンにもすぐにわかった。
「っぁ…」
ぬるぬるとした生温かさの中、くびれの少し下から先端に向かってついと撫で上げられると、リャンの全身をゾクリとした戦慄が駆け抜けた。尚も先端を口腔内に捕らえたまま、シュエレンは先端を中心に舐め回した。その間茎の下の方は指で刺激を与え続けている。舌先が突端の溝を押し広げようにすると新たな体液が滲み出た。どれくらいそうされていたのかはわからなかったが、シュエレンの動きがいつの間にか、自分が彼女の体内でするような動きになってリャンは慌てた。
「シュエ、それ以上よせ。……出る、ぞ」
リャンは腹に力を入れ躰を起し制止を試みたが、シュエレンはリャンを離さなかった。
「……くっ……シュエ、よ…せ……」
心では必死で抵抗したが、裏腹に正直な躰は彼にも止めることは出来ず、打ち寄せてくる快感に促されるまま上り詰めシュエレンの口腔内に精を放った。
「離せといったら、離せよ、シュエ……」
シュエレンの口の端をたらりと流れた自分の精を指で拭い、リャンは苦笑いをして彼女を腕に抱き込んだ。世間知らずにもほどがある。というより、元々この手の素質があるのか。抱き込んだシュエレンの肌から漂う甘い匂いを吸い込みながらリャンは思った。
「シュエ、どこで覚えたんだよ、こんな技」
「侍女……女たちたちはおしゃべりが好きだ」
「てことは聞いた話なのか?」
「ああ、そうだよ」
聞いただけで、この技術か。そのうちもっと慣れれば――――、そう思うとリャンはブルッと身震いした。
『これは、手放したくなくなるな』
「“お礼”を受け取っておいてなんだが、抱いてもいいか?」
シュエレンは返事をせず、リャンの頬を撫でて微笑んだ。
「…あっ……んっ…」
さっきシュエレンがそうしたように、柔らかな膨らみの頂きを唇と舌で嬲り、花芯を指で縦横無尽にまさぐれば、彼女の躰は時にしなり、時に大きく震えた。そしていつもより感じやすい、とリャンには思った。軽く触れるだけで、躰を何かが走り抜けでもしたのかと言うように、シュエレンの躰が敏感に反応するのだ。声もいつもより甘やかだ。“お礼”をしたことで、シュエレンの女が掻き立てられたんだろう、リャンはそう思ったが。
「リャン……おね…っがい……来て」
二度ほど頂点に導かれた後、まだも自分を貪るリャンをシュエレンは乞うた。
「挿入れるぞ」
「ん……ああ…」
シュエレンの両脚を持ち上げるようにして開きリャンが分け入ると、彼女は溜息のような息を吐いた。そしてゆっくりと目を開けて真上にあるリャンの顔を見た。
『なんで笑うんだ?』
蕾が花開くように微笑んだシュエレンを見てリャンは戸惑った。まるで、その表情(かお)は――――。
「まさか……ない」
「ああっっ!!」
心に浮かびかけた言葉を否定するように、リャンは強く突いた。
腰を動かすたびに、恍惚とした瞳が揺らめき、濡れた唇が切なげな声を零す。時折強く突き上げれば、一層艶を増した顔が躍る。
渦巻くような快楽の中、稀に思い出したようにリャンを見てシュエレンは笑った。
その笑顔は更にリャンを猛らせる。
肌がぶつかり合う音がどんどん遠ざかり、反対に神経はどんどん研ぎ澄まされていく。自分の下でゆらゆらと揺れていた顔が、小さく声を上げて弛緩したのを見て、戸惑いながらようやくリャンも自分を解放した。
「そうか、シュエレンは璋(しょう)家の姫さんか」
夜着を身に着け、リャンの隣に横たわったシュエレンは、さっき見た夢とリャンと契約するに至った経緯を話した。
「璋家の今の当主は叔父よ。私はただのわがままな小娘だ」
「それでも璋家と言やあ、かなりの名門だ。璋家にいりゃ、こんな貧乏旅しなくてすんだだろうに、幸せな人生送れただろうに」
リャンは苦笑しながらシュエレンの頬を指で撫でた。
璋佳舜。この名は記憶にないが、璋という姓はリャンもよく知っていた。都でも十指に入るほどの名門。優秀な文官、武官を多く輩出し、先代の当主は文官でもあり、また優れた氣術使いでもあった。朝廷では先代の帝の信頼も篤く、重要な官職に就いていた。そこの直系の姫ならば、それこそ帝の后にもなれる身分だ。知らなかったとは言え、そんな高貴な身分の女に手を出してしまっていたとは――――。リャンは腹の中で自嘲するしかなかった。
『そうか、“よりによって”璋公紀(こうき)様の娘か……』
リャンは物思うように視線を数瞬遠くへ移した。
先代の璋家当主、璋公紀の死については、表向きは急な病による病死だが、陰では色々と不穏な理由が囁かれているのも聞いたことがある。その父の潔白を信じ真相を明かすため、女一人の身で都を目指したのだと聞くと、シュエレンの妙な言葉遣いや世間ずれした部分に合点がいった。
「私にとっては璋家にいた頃より、自由にどこへでも行かれる今の方が数倍幸せ」
強がりでもなんでもなく本当のことなのだろう、じゃれるようにくっついてきたシュエレンを見てリャンはそう思った。
「俺みたいなロクでもないヤツにとっつかまったのにか?」
「リャンはいい人じゃないか、少なくとも私に無理強いはしない」
「そんなこと言っちまっていいのか? 明日にでも豹変するかも知れないぜ」
そう言うとリャンは深く意を吐いて、シュエレンを抱き寄せた。彼女からは相変わらずよい匂いがする。育ちの良さを顕わすような……。
「なら楽しみにしてる」
相変わらずシュエレンは笑っていた。
「なあ、シュエレン、一つ訊いていいか?」
「なに?」
「年はいくつだ?」
「リャンはいくつなの?」
リャンの腕の中でシュエレンは悪戯っぽく聞き返した。
「二十四だ」
「私は二十五」
「はあ〜? マジかそれ!? 俺はてっきり十七、八だと思ってたぞ。っか〜、年上だったのか……」
女はわからん、とリャンが呟いた横でシュエレンはくすくすと小さく声に出して笑う。
「ん? まさかと思うが、シュエレン、今のウソってことはないよな。正直に言わないと襲うぞ」
「わかった、わかった。言う、言うから。本当は二十だ」
「ほんとか?」
「本当だ。そういう肌してないか?」
「ああ、そっか、そう言われれば、――――ってわかんねーだろ普通」
やはり間違いない、璋公紀の娘だ。隣でくすくす笑い続けるシュエレンを見てリャンは思った。ひょっとしたら間違いではないかと思ったが、出来ればそうであってほしいと思ったが、幻聴でもなんでもなく、シュエレンの顔を見れば歴然とした事実としか思えなかった。
「んっ…」
布を巻き付けた左手首がチリリと痛むのを微かに感じて、リャンはシュエレンがいつまでも笑うのを止めるために接吻けをした。