ワルキューレ狂想曲
前編
バキバキと木の枝の折れる音がする。まるで骨の砕ける音のようだ。
太い枝を小枝でもへし折るかのようにして近づいてくる相手に、セルフィは身構えた。
「気を抜くなお嬢。コイツ、尋常じゃねえ」
「うん、わかってる」
隣で聞こえた落ち着いた声が、突然現われた恐怖を少し和らげてくれる。
敵は一頭、こちらは二人。だが、けして運が良いとは言えない。相手は手負いのベヒーモス。ただでさえ手強い相手なのに、手負いのせいで更に気が荒くなっているのが、背中のたてがみの立ち具合からも見て取れる。
セルフィは、こく、と唾を飲んだ。
サイファーがハイペリオンを握り直す気配がする。
相手は十歩ほどの間合いで止まり、それ以上近づいては来ない。こちらの様子を窺っているのか。軽く跳躍すれば、喉元に食らいつくことの出来る距離。一瞬で決まるであろう命の勝敗。下手は打てない。
荒々しく吐き出される息が耳元でするかのように聞こえる。狂気じみた視線を投げて寄越す顔を音もなく滴り落ちる血。それは自分の手にぷつと浮かんだ汗のようにセルフィには思えた。
対峙したまま動かない状態がどれ位続いたのか。手の平に滲んでくる汗で棍が滑りそうだ。セルフィがそう思い始めた時、近くでくぅんと頼りない幼獣の鳴き声がした。
『いまっ!』
セルフィは地を蹴った。敵も突進している。読み通り。頭部へ向かって渾身の力で棍を振り下ろす。ゴキッと鈍い音。それを聞いたのとほぼ同時に着地。すぐさま振り向く。ビュと風を切る音と銃声。迸る血飛沫。よろめく巨体。
ベヒーモスはそのまま若い苗木を道連れにして倒れた。
「あっけなかったな」
「あたしもサイファーも急所ハズしてないもん」
セルフィがそう言うとサイファーは当然だというような顔をして、ハイペリオンを振った。飛んだ血で近くの葉が揺れる。
「そっちはどうだ?」
「残念ながら間に合わなかったみたい」
「そうか……」
か弱い獣の声が聞こえた辺りでしゃがんでいるセルフィの所にサイファーも向かう。
セルフィのしゃがんでいる前には、セントラシカの親子が折り重なるようにして倒れていた。
「助けられなくてごめんね」
セルフィは母鹿の開いたままの瞼を伏せ、子鹿のお腹の辺りをそっと撫でた。まだ生きているかのように温かい。子供独特の斑点が残る華奢な身体。目を閉じていても愛くるしい顔が余計に辛さを募らせる。彼らを見つけた時には母鹿は既に息絶えていた。母鹿の横で怯え、訴えるように自分を見たいたいけな瞳に「この子だけは」と思ったが、助けられなかった。せめてもの救いは、母親と一緒に眠れること位だろうか。
「――――絶滅危惧種、か。情けねーったら、ねーな」
「サイファー、あたしたちは何でも出来るヒーローじゃないよ。それも情けないけど」
セルフィがサイファーを見上げると、彼は悔しげに二度と起き上がることのないシカの親子をじっと見ていた。
隠そうともしない表情に、サイファーの悔しさがセルフィにも少し分かるような気がした。
本来ならこの貴重な種類のシカの親子は、この保護区で静かに一生を終えるはずだった。モンスターが餌を求めて、入り込んで来さえしなければ。
その原因を作ったのが自分だとサイファーは思っているのだろう。
海底深く沈んでいたルナティックパンドラを引き上げ、それを起動させたことにより引き起こされた『月の涙』。月より襲来したモンスターはセントラ各地に散らばった。荒廃した土地が大部分を占めるセントラは他の大陸よりも動植物が少ない。この保護地区は、勝手に餌を増やしてくれる貴重な餌場だ。
加えてタイミングも悪かった。長くモンスターの脅威に曝されることもなく、人々の関心も薄かったこの施設は、至る所が老朽化している上、バラムガーデンとガルバディアガーデンの衝突による被害も被っていた。
そんな中で急激に増えたモンスターの対策として、まず防護柵の強化を始めた矢先。隙を突くようにしてモンスターが入り込んだのだ。月より飛来したモンスターは、SeeDクラスのプロでなければ無理な相手だ。
月の涙以降、モンスターの凶暴化と増殖に伴い、セントラではこうした対モンスターの依頼が増えていた。
その贖罪などと言えばサイファーは嫌な顔をするのかも知れないが、そういった理由で彼自身の頼みを汲んでの今回のサイファーの参加だった。
「あ、スコール。この地区は今終了したよ。担当地区内にはセンサーに反応するものはないみたいだけど、そっちのセンサーはどう?」
セルフィはスコールに報告の連絡を入れた。
『こっちのセンサーでも反応はない。帰還してくれ。二人ともケガはないか?』
二人のやり取りを聞きながらサイファーは車へ戻るぞと、セルフィに手で合図をしていた。
「うん、大丈夫だよ、サイファーもあたしもケガなし。じゃ戻りまーす」
少し離れた所に停めてあるジープに向かいながらセルフィは通信を続けた。
『近くでアーヴァインが小うるさいが、話すか?』
「え、アービン? いいよ替わらなくて、すぐ帰るもん」
「ヘタレ野郎は待たせとけ。なんならセルフィは俺がガーデンまで連れて帰ってやる、そう言っとけ」
ジープに乗り込もうとしていた足を止め、不敵な笑みを浮かべながら、サイファーはわざと大声を出した。通信機の向こうから「ひどいよ〜」と情けない声が聞こえたが、セルフィは聞こえない振りをしてジープに向かった。
「さ、帰るぞセルフィ」
サイファーは既に運転席に座って待っていた。
「あ、待って〜。――ん?」
セルフィは背後に何かの気配を感じた。嫌な直感に躊躇わず振り向く。
「セルフィ!!」
背中越しのサイファーに酷く慌てた声。だがそんなものに気を取られている暇などなかった。セルフィの目の前にはさっき倒したはずのベヒーモスがゆらりと立ち上がっていた。
「うぐっ!」
身体に鋭い痛みが走ると同時、セルフィは横に跳ばされる。
「セルフィッ!」
仮死状態だったとは思えぬ早さで巨体の後ろで死角になっていた尾が打ち振られ、それに打たれたのだ。そうセルフィが気づいた時には、今度は何かに拘束されていた。そして流れる景色。
追いかけてくるジープが見えたが、こっちは木々の生い茂った中に入ってしまったようだ。自分でどうにかしようにも、胸から腹の辺りを咥えられていて、セルフィはどうすることも出来なかった。ただ夕闇が迫る中、牙が肉にめり込む痛みと冷たい風の音に意識を奪われないようにするのが精一杯だった。
「すまないアーヴァイン」
高ランクのSeeDがモンスターに連れ去られたという滅多にない事態に出くわし騒然となっている中、その騒ぎから外れ一人じっと考え込んでいたアーヴァインの所に来てサイファーは開口一番そう言った。
「僕じゃなくてセフィに言ってよ」
自分でも驚くほど冷たい声だとアーヴァインは思った。サイファーもそう感じたのか表情が僅かに強張る。自分にもサイファーにそんな顔をさせることが出来るのかと、自嘲にも似た感情が湧き上がる。
セルフィの元気な声を聞いたのは、ほんの十数分前だ。
今頃ガーデンへの帰還準備をしているはずだった。
それが傷を負い、挙げ句の果てにモンスターに連れ去られた!? なんだそれは。てっきりいつものサイファーの嫌がらせだと思った。なのに、わざわざ自分を探してきたらしいコイツは、殊勝な顔で謝罪の言葉なんか言いやがる。
信じられるか、サイファーの言うことなんか。早くいつものように、「引っかかりやがった」と嘲笑えよ。そうしたら質の悪すぎる冗談だと殴ってやるのに。
「アーヴァインここにいたの。セルフィ捜索の準備が出来たわ。サイファー……あなたも」
キスティスがきびきびとした動きで二人の所にやって来た。アーヴァインはその声に不意に我に返った。このタイミングでキスティスが来なければ、別の憤りもサイファーのせいにして、彼を殴りたい衝動に駆られていたことに気がつく。
「ひとりで行くよ」
「ダメよ、危険だわ。誰かと組んで――」
「行かせてやれよ」
サイファーに分かった風な口をきかれたのが気に入らなかったが、アーヴァインは何も言わなかった。
「わかったわ、止めてもムダみたいね」
アーヴァインとサイファーの間に漂うピリリとした空気を瞬時に読み取ったのか、一瞬表情を曇らせはしたがキスティスの返答は早かった。
「これから夜だからいつも以上に気をつけて。1時間毎に報告を入れること。念のためオーラとアルテマのジャンクションを忘れないで。それから、……もし見つからなくても、明朝6時には必ず一旦帰還して」
「了解」
キスティスの悲痛な表情と、貴重な魔法の所持を許可されたことが、未だどこかで信じ切れていなかったことを現実だと知らしめられた。
「無理はしちゃだめよ。ちゃんと指示を守ってね」
「わかってるよ。徹甲弾とオーラがあれば敵なしさ」
念を押してくるキスティスにアーヴァインは薄く笑った。
「セフィは僕が必ず見つけるから。じゃ、テキトーにバイク乗ってくよー」
眉間に傷と皺を刻んだまま突っ立っている大男の胸をコツンと拳で小突き、キスティスに軽く言うとアーヴァインは身を翻した。
『――まただ。情けない』
バイクを駆りながら、アーヴァインは自分に悪態を衝く。
対等でありたい。傍で守りたい。そう願ってSeeDになった。なったはずだったのに、少し前そのSeeDであることが足枷になったことがあった。そして今もまた自分の無力さを突き付けられた。強引にでもサイファーと担当を替わればよかった。セルフィが嫌がっても迎えに行けばよかった。サイファーがもっと気をつけてくれていれば、そうすれば、こんなことには――――。後悔ばかりが胸の中を去来する。
『ああ、くそ! またネガティブ思考』
大体サイファーに八つ当たりなんか最低だ。サイファーが一番悔しい思いをしているのくらい、解る。真っ直ぐに自分を見て躊躇うことなく謝罪したあの潔さが何よりの証拠だ。方向は違えどセルフィを大事に思う者同士として、器の大きさの違いを感じずにはいられない。想いの強さで負けているとは思わないが、そんなもの何の自慢にもならない。有言実行してこそだ。それを事も無げにやってのけるサイファーを尊敬すると同時に嫉妬する。
だから、せめて――――。
「セフィは絶対僕が見つける!」
何一つ明かりのない闇の支配する荒野に挑むように、アーヴァインはアクセルを握る手に力を込めた。
「う〜、イタイ……血、だらだら〜」
セルフィは暗闇の中、軋む腕をやっと動かし腹の辺りに触れた。
ベヒーモスに咥えられたまま走り続ける中、考えるより身体を動かすことを試みた。それが運良くなのだろう、拳が鼻にヒットしたらしく、ベヒーモスは突然口を開きセルフィを落とした。
だが、これは運悪くなのだろう。その牙からは逃れることは出来たが、地面に落ちるとは思えないほど長い時間落下した。
「土の上やったんは運がよかったんかな」
セルフィはもう片方の手で地面と短い草を一握り掴んでいた。
これが硬い岩石だったら死んでいただろうと思う。ベヒーモスから逃れられ、こうして生きていられるのは幸いだ。
「うえ〜、穴開いてるよ〜」
とは言え、とても楽観視は出来なかった。
戦闘用のユニフォームは血らしきものでぐっしょりと濡れ、指を移動させてみるとぼっこりとした自分の知らないくぼみがあった。詳細は知りたくないような大きさだ。確かめようにも、身体に力が入らず起きあがることは出来ない。痛む手足を僅かに動かすことが出来る程度だ。
「なんか……魔法」
今の自分に出来そうなものといえばそれしか思いつかなかった。
「ええ〜、ボロボロはずれてるよ」
所持していたはずの魔法は、落ちた時の衝撃のせいかほとんど無くなってしまったようだ。
「G.F.は無事か〜。でもG.F.だけじゃあね〜」
G.F.をジャンクションしなければ魔法は使用出来ないが、G.F.だけジャンクションされていても肝心の魔法がないのでは意味を成さない。
セルフィは身体だけではなく、気力までも急速に萎えていくのを感じた。このまま死んでしまうのだろうか、漠然とそんなことを思った時、残った気力が意識の底に沈んだ。
『セフィ』
聞き覚えのある声と、頬に冷たい何かが当たって意識が覚醒した。
「…………まだ生きてる……わ、つめたっ」
頬にまたピチョンと何かが落ちてきた。
「水かな……」
セルフィは顔をちょっと動かして口の中に誘導した。
「あ、水だ、ラッキー」
相変わらず身体は痛むが、この状況でのこれは、正に天の恵みのように思えた。しばし頬を濡らす雫で口の中を潤すと、周りの状況が次第に見えてきた。
雫は上から垂れ下がった細長い植物の根っこらしきものから落ちてくる。更にその上方に自分が落下した穴があり、その周りに緑と中心に青空が見えた。
「てことは、あれから夜が明けたってことか」
穴から見える空は青くゆっくりと雲が流れている。あの明るさは昼間の明るさだ。正確な時間を知りたくて顔の前に腕を持ってくる。そこにあった腕時計は、液晶パネルにひびが入っていて真っ黒だった。
「通信機は、と」
徐々に自分の取るべき行動を思い出す。
「あちゃ〜、派手に咬んでくれちゃって。てコトは発信機もダメか〜」
残念ながら通信機も発信機もベヒーモスに咥えられたと同時に破壊されていたらしかった。
「となると、自力でここから出るか、救助を待つかしかあらへんな〜」
取り敢えず身体を動かしてみた。
「いたたたたた……まだ動けへん」
手足は動くが、身体を捻ろうとするだけで腹部の傷が酷く疼き、とても歩くことは出来ない。そうするともう救助を待つしかない。
「ここ、どこらへんやろ」
頭を動かして辺りを探る。頭上の穴から差し込む光りで周囲の様子は大体わかった。身体の下には短い草がある。壁はほとんど岩のようだ。寝ている頭の方から微かに風が流れこんで来るのと、小さく波の音が聞こえた。
それらから、ここが海岸の近くで、上の穴だけでなく横の方にも外へ通じている箇所があるらしいことがわかった。ただ、それを伝える術がない。
「狼煙でもあげるかなあ」
そう思い更に辺りを見回したが、火を熾せそうなものは何もなかった。セルフィは再び静かに身体を横たえた。腹部の血は止まっているようだが、どれくらいの量が流れたのかよくわからない。傷は思っていたより酷くはなさそうだが、それも浅い知識での判断だ。
後自分に出来ることは、体力を温存するためにじっと動かず、救助を待つことだ。捜索はされているはずだから。ただひたすら待つのみ。
セルフィは静かに目を閉じた。
さっきは小さいと思った波の音が、はっきりと聞こえてくる。波の音はゆりかごのように心地いい。懐かしく優しい思い出に繋がっているから。次々と楽しかった子供の頃の情景が頭の中に浮かんでくる。本当に楽しかった、毎日毎日みんな一緒にいられて――――。
それがある所でピタッと静止する。
「…………アービン、会いたいよ」
懐かしい情景は切ない情景へと変貌した。一旦引き出された情景は止まることを知らず、走馬燈のように脳裏を駆け巡る。その顔を思い出せば思い出すほど、思い浮かぶ情景が増えれば増えるほど、切なさも増してゆく。会いたくて堪らない。最も安心出来るあの腕の中(ばしょ)に還りたい。
「アービン、あたしを見つけて」