果敢ない月白

 死神の鎌のような痩せた月が空に踊る夜、下界では人間が夜毎バカげた饗宴を開く。
 贅を尽くした豪奢な館、高価な石をふんだんに使った床に、遠い異国の香りのする華美な調度、天井には勘違いも甚だしい黄昏れた神々の絵。
 そこに集いこの世の天国とばかりに、呑み、食い、踊り、情欲を貪る。何がそんな面白いのか。上等の衣を纏えども、優雅に微笑んで見せようとも、その心の奥底にある邪心に満ちた本音を隠すことも出来ないような輩ばかり。
 鬱陶しい事この上ない。

 その下衆な人間達のひしめく場所に、こうしてのこのこやって来た自分もご同類か。
 口に合わぬ食べ物でも、腹は満たす事が出来る。出来の悪い葡萄酒でもあおれば、暫しかりそめの情を交わす事も出来る。
 その後に襲い来る吐き気を覚えるような寂寥感さえ気にしなければ、これもまた一興と言えなくもない。

 そろそろ目ざといご婦人が、下卑た笑みの口元を扇で隠し近づいて来る頃合いだ。
 こんな風に。
「ごきげんよう、キニアス侯爵。今宵もおひとり?」
「ごきげんよう、今宵は一段とお美しゅうございますね。月もあなたの美貌の前には恥じ入って、ほらあのように僅かしか姿を見せてはおりません」
 確かどこかの伯爵夫人、だったかな。相変わらず、伯爵令夫人とは思えぬ、安っぽい笑顔を振りまいていらっしゃる。
「僕は、人付き合いが下手なのをご存じでしょう? ですから、いつも独りですよ。夫人に声を掛けて頂けた幸運にこの上なく喜びを感じています」
 微笑と共に、ごてごてと大粒の宝石で飾られた肉付きの良い手に口づければ、この女は勝ち誇ったように笑う。どうしてこうも皆同じなのか。
 堪らなく可笑しい。

 見目が良くて若い男は、自分の装飾品か愛玩動物にしか思っていない、この手の連中を相手に付き合って遊ぶのは始めの頃こそ面白かったが、すぐに飽きた。かと言って、一人でいる事を選べばまた同じような女が寄ってくる。もしくは、没落しているとは言え由緒だけはあるキニアスの名を求めて、自分の娘婿にと成り上がり貴族の男が寄ってくるか。いちいちそいつらの相手をする方が、――余程疲れる。

 今日はこの、些かふくよか過ぎるご婦人と行動を共にする方が得策だ。
「踊りますか?」
「ええ、そうね」
 そつのない優雅な足取りでダンスに興じる者達の輪の中に入り、周りの紳士淑女の中に埋もれる事のないよう細心の注意をはらい夫人をリードして踊る。
 そうすると、夫人の貌は紅潮し、隠そうともしない高慢な笑顔が浮かび上がる。本来笑顔とは、人の心を和ませるものだが、今目の前のそれは嫌悪しか覚えない。ああ、これは笑顔とは言えないか。心からの喜びではないのだから。ただ溜飲が下がっただけでしょうからね、居並ぶ貴き身分のご婦人方に対して。そろそろ夫人の自尊心も高い天井の辺りまで舞い上がった頃だろうと、これだけ優越感を与えてやれば満足するだろうと、ダンスの輪から離れようとすれば、まだだと言うように手を強く握られた。本当に、どこまで強欲なのか、人間とは。

 ―――― 気持ちが悪い。

 この夫人だけではない、このホール全体をねっとりと覆う欲にまみれた空気に、吐き気がする。
 昼なお暗く、闇の眷属の住まう我が館の方が、余程清浄な空気に満ちている。

 そして、酷く喉が渇いた。
 この喉の渇きだけは、どれだけ飲み食いをしても癒える事はない。
 名高い美姫の、或いは街角の娼婦の新鮮な紅で誤魔化してみても、渇きは酷くなる一方。
 誰かの血を啜る度にまざまざと思い知らされる。

 ―― この渇きを癒せるのは……一人だけ ――

 余計な事まで思い出してしまった。ますます気分が悪くなる。今宵の戯れはここで終わりとしよう。
「名残は惜しいのですが、今宵は……」
 憐憫の情を浮かべた瞳で夫人を見つめ、別れの言葉を言いかけた時、丸い肩越しにふとこの場に異質な白い物が視界に入った。
 なんだアレは……。
 白いドレスを着た女の後ろ姿。別に異風な出で立ちをしている訳でもないのに、酷く心がざわつく。もう幾星霜かも分からない程永く、誰かに心が動いた事などないというのに、何かが心を揺らしている。じっと目を凝らして見つめれば何故心が揺れたのか、―――― 解った。
 ああ、そうかあの色だ。
 その女のドレスは白だと思ったが、ほんの僅かに青味が入っている。これだけの距離からでは、人間の目には白としか思えないだろうが、自分の眼にはその地紋の柄さえも見える。
 この場であんな色のドレスを着る女がいたとは、まるで自分だけには邪な欲望などないとでも主張しているような。一体どんな身の程知らずな女なのか。
 酷く興味が湧く。

―― 久し振りに狩ってみるか ――

 いきなり黙りこくった自分に怪訝な貌を向ける夫人を適当な言葉であしらい、背後で引き留める媚びた声を無視して、足早に白いドレスの女の所へと足を向けた。その前に脇のテーブルからワインの入ったグラスを二つ取る。あの背恰好ならば年若い娘だろう。口あたりの良い甘い酒と、耳触りの良い言葉を暫く聞かせれば堕とすのも容易い事だろう。
 久方振りの自発的な行動に些か興奮を覚えながら女に声を掛けた。
 さて、どんな貌が拝めるのやら。美しい女なら一晩愉しむのも悪くない。


 ゆっくりと振り向いた貌に、我を失った。
 何故――――?
 凍りついた思考と身体を再び揺り動かしたのは、その女の声だった。
「ワインが溢れますよ」
「あ、これは失礼を致しました」
 屈託のない笑顔で見上げてくる女に向かって優しい笑みを作った。
「僕はアーヴァイン・キニアス侯爵と申します。宜しければ是非ご一緒にと思ったのですが、花の方がお好みでしたでしょうか」
「はじめまして、お噂はかねがね存じてます。噂通りの美形さんですね。あ、ワインありがとうございます、頂きます。でも花も好きですよ〜」
 また驚いた。屈託のない笑顔も、人なつっこい口調も、自分の知っている“彼女”と同じ。
 貌も、何もかも、纏っているのもあの日と同じ月白のドレス。


 夢のような時間だった。
 他の誰でもない僕のもの。僕だけの手を取り、僕だけを見つめている。
 くるりとターンをすると、ごく薄い衣(きぬ)の下露わになる白い背中。僕だけのものだった。
 僕だけの――――君。僕だけの月白。
 その月白をするりと剥がしたのも、僕。


―― あたしも、……同じ眷属にして…… ――


 そう懇願してきた彼女。
 だが、どうしても出来なかった。その先に待つのは、幸福なんかではない。果てのない永遠の旅、どんなに望もうと、どんな傷つけようと終わる事のない。そんな苦痛の中に彼女を連れてくる事は出来なかった。どれだけ涙が頬を濡らしても、その望みだけは叶えてやる事は出来なかった。
 そして彼女は消えた。
 二度と逢える事はない。ここにいるのは、他人。同じ貌をしていても、“彼女”ではない。クソ意地の悪い神が気まぐれに、僕を弄んでいるだけだろう。
 それならば乗ってやろうじゃないか。その思惑通りに哀れな男を演じてやろう。高き御位より見ているがいい、哀れな一族を創りたもうし神よ。
「僕と踊って頂けませんか?」
「え? うーん……」
「どなたかパートナーとご一緒ですか? それとも、厳しいお母様でも付き添われていらっしゃるとか?」
「あたし、ダンスはあまり上手くないんですよね。足を踏んじゃうかも知れないですよ〜?」
 時に僕の事を酷く慌てふためかせた無邪気な笑顔と、警戒心の薄い人なつっこい声音。
 こんな所まで似せるのか――。
 昏い怒りを覚えると共に、どうしようもない恋慕にも引き摺られる。
 恋焦がれていたのだ。永い時の河を一人漂いながらも忘れる事は無かった。想いを抱いたまま、けして大海へは辿り着かない河を永久(とわ)にたゆたう。それが自分の運命だと思っていた。
 そして今もそうだと思っている。
 ならば―――― ひととき、あえかな幸いを望むくらいは許されるだろう。神に慈悲があるのなら。


 カシャン、とガラスの砕ける音がした。続けて目の前の娘の、小さく驚く声も聞こえた。
「すみません、ワインがドレスにかかってしまいました」
 見れば月白のドレスに無粋な紅い染みが出来ていた。故意ではない出来事に、娘の心に染みをつけてしまったような罪悪感に囚われる。
「貴女の足を傷つけてしまわないよう片付けますから、動かないでください」
 暫し我を忘れていた事を隠すようにしゃがみこむと、割れたグラスの欠片を拾い集めた。余程動揺していたのか、またも失態をおかす。
「血が出てる」
 娘にも見えてしまったらしく、彼女まで座り込んだ。
「いけません…」
 ぽたりと血の流れる指を温かい手が握ったかと思うと、娘はおもむろに自分の方に引き寄せようとした。
 まさか――。
 僕は慌てて指を娘の手から引きはがし、彼女がそうする前に傷口を舐めた。

 娘は知らないだろう、それがどれ程危険な行為か。
 己が種族にとって、吸血がどれほど恍惚とした感覚をもたらすか。

「あ、ごめんなさい。つい、いつものクセで舐めようとしちゃいました」
 恥ずかしげもなくそんな事を言う娘は、自分のドレスが汚れた事などまるで忘れているかのようだった。普通の娘なら、他人の事を気にするより、ドレスが汚れた事に困惑するか怒るかするものだろうに、この娘は……。
「あちらの部屋へ行きましょう。替えのドレスを用意させます」
 グラスの割れる音を聞いてこちらにやって来た使用人に、集めた欠片を渡し頼み事をすると、今度は僕が娘の手を取った。
「え?! あ、いいですよ〜。これ位の染みならかくせ―――― ないですね。って笑わないで下さいよっ」
 やはり、ドレスの事など大して気にもしていなかったのか。思わず苦笑が漏れていた。
『本当にセフィに良く似ている』
「遠慮はいりません。さあ、こちらへ」
 娘の腰に手を添え歩くように促す。娘は照れたように一度僕を見上げ、大人しく従ってくれた。ホールの扉をくぐり、すこし明かりの抑えられた回廊を歩くと、今までの喧噪が嘘のように衣擦れの音と、互いの靴音だけが響いた。
「忘れてました」
 唐突に娘は静寂を破った。
「何をですか?」
 予想外の突飛な行動に、いつの間にか僕は楽しみを覚えていた。
「自己紹介してませんでした。あたしはセルフィ・ティルミットと申します。ティルミット子爵の姪です」
「そうでしたか」
 やっぱりかとその名前にたじろいだが、立ち止まりちょこんとお辞儀をする姿がまた愛らしく、自分にだけ向けられたのが嬉しくて自然と笑顔になっていた。もし、この娘が望むなら、今度は同族にしてしまおうか。“彼女”とは違うと思いながらも、この娘に惹きつけられていく自分がいるのを自覚せずにはいられなかった。

『最も愚かで強欲なのは、この僕だな――――』

 やがて歩く先、一室の前で佇む使用人の姿が見えた。その手が、こちらですと動く。
「いいのですか? 僕はあなたを騙して狼藉を働こうとしているのかもしれませんよ?」
 部屋の扉を開ける前、あまりにも無防備に付いてくる娘に少々意地悪をしてみたくなった。
「そうなんですか? じゃ、このまま帰ります」
 特に驚いた風もなく淡々とそう答えた娘にこちらが面食らった。
「失礼な事を申し上げてしまいました、お許しください。あなたをこのままお帰ししたとあっては、キニアスの名前を汚す事になってしまいます。そして侯爵の名にかけて、あなたを粗末な扱いなど致しません。どうか信じて頂けますよう」
 恭しく礼を取ると、クスクスという笑い声が聞こえた。
「はい、信じてますよ、キニアス侯爵」
 顔を上げるとにこにこ笑顔と共に白い手が差し出されていた。
 まったく“君”には敵わない。
「光栄に存じます、ミス・ティルミット」
「セルフィでいいですよ〜」


 狩るつもりが、きっと狩られたのは自分の方。
 差し出された手を取り、彼女に分からぬよう自嘲して、僕は溜息と共に扉を後ろ手にそっと閉めた。

お題「color」より 『果敢ない月白』 配布元 : Noir  色参考サイト : WEB色見本
【月白(げっぱく) 色コード : eaf4fc】文字色とテーブル枠色に使用 背景色 : 濡羽色 テーブル背景色 : 蝋色(ろういろ)

退廃的なアーヴァインが書きたくなりまして、突っ走ってしまいました。ハロウィンも近いし、ヴァンパイアな設定で。狼男はあっちで、もう十分に狼なので、ヴァンパイアで。(苦) ど、どうでしょうか。ドキドキドキ
物足りないラストなのは、続きは別で書ければいいな〜と思って……る、からでございます。
作中でアーヴァインが回想している『月白のドレス』は「いくつ季節を過ぎてもここに…」の9話でセルフィが着ているドレスの事です。
(2008.09.14)

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