滴る真紅

 大勢の人が今も集い、踊り喋ることに興じているであろう場所と、この部屋が同じ屋敷内にあるとは思えない位殺風景な部屋だった。ただ一つ、ずらりと並べられたドレスの数々が、この部屋を幾らか華やかに見せていた。

「どういったドレスがお好みですか?」
 この部屋へ来ることになった原因を作った男は、そんなことも忘れてしまったかのように楽しげに、両手にドレスを抱えてこちらにやって来た。そしてあたしが返答する前に「どっちも違う」と言って、さっさとドレスの海の中へまた戻ってしまった。
『あたしが選ぶんじゃないの?』
 あれでもないこれでもないと、すっかり当人よりドレス選びに夢中になっている男の姿に苦笑した。
『変わらないんだね、アービンは――――いつでも、どんな時でも』


―― セフィにはこっちの方が似合うと思うよ ――
 嬉しそうに、にこにこ笑顔で薦めてくる。そっちを選ぶともっと嬉しそうに笑うから、あたしはいつもアーヴァインのオススメの方を選んだ。悔しいことに、アーヴァインが選んだ方が似合うのが常だったし、それって嬉しい反面、ちょっとへこんだりもしたんだよ? 自分にはセンスがないのかな〜って、知ってた?
 でも、それよりもアーヴァインの笑顔の方が大事だったんだ。大好きだったんだよね、暖かな春の日差しのような笑顔。とても好きだった。少し癖のある柔らかな髪も、野に咲く菫の様な色の瞳も、形のよい唇も、みんなみんな。
 ――――大好きだった。ずっと傍に居たかった。ずっと傍に居られると思ってた。


「神に愛されすぎると、早くに御許に召されるんだよ。これは幸せなことだよ」
 あなたは柔らかな笑顔で、あたしにそう言ったよね。でも瞳の奥が揺らいでいたのを、あたしは知ってる。
 そう言うとあたしが安心すると思った? 安らかに眠れると思った?
 最期まで、あなたは残酷過ぎるほどに優しかった。
 我が身を切り刻むような痛みに耐えながら、心で血の涙を流しながら笑う。そんなあなただから、傍にいさせてって願ったんだよ?
 独りで果てない闇を彷徨うよりは、二人の方が何倍もまし。あたしはあなたを残して逝ってしまうより、どんな闇でもあなたと一緒に居たかった。あなたの痛みを少しでも和らげてあげたかった。
 なのに――――。
 吐き出される血に染まる頬をずっと拭いながら、あなたは微笑んでた。心の奥、他の言葉は全部呑み込んで。
「大丈夫だから、僕がついてるから」
 大丈夫じゃないのは自分の方なのに。そんなことも分からなかったんだよね、あなたは。
 最後に触れたあなたの頬は、酷く冷たかった。どっちが死人なんだか分からない位に。思わずあたしは笑っちゃったよ。
 それがあたしのこの世での最後の記憶……。


 あれからもずっと見てたんだよ、アーヴァインのこと。此処から遠く離れた場所で、ずっと……。何百回、何千回と呼ばれても、あたしは動かなかった、動けなかった。
 独りにしちゃいけない人を、一人にしてしまった。だからあたしはあなたを見ていなきゃいけなかった。ぼろぼろに壊れていくあなたに手を差し伸べることが出来なくても、どんな辛くても、二度と触れることが出来なくても、とこしえに見続けることがあたしに出来るたった一つのことだったから。
 どれ位見続けていたかなんてもう全然分からない。地上と天上(うえ)とでは時間の流れすら違うのかも知れなかった。そんなことはあたしにとって、どうでも良かったけど。あたしの願いはただひとつだったから。


「こっちのが好きかな〜」
 あたしは、おもむろに目に付いた真紅のドレスを手に取った。色こそ鮮やかだったけれど、襟ぐりが深いのと大きくふくらんだ袖以外は至ってシンプルだった。案の定そのドレスを見たアーヴァインが渋い顔をする。
「セフィには似合わないよ」
 あまりにも自然だったので、そのまま流してしまいかけた。その呼び名がまた聞けるとは思いもしなかった。
 もう忘れてしまっただろうと思っていた。忘れて当然、それ位隔たれた年月は長かった。
「あ、これは失礼を致しました。うっかりあなたによく似た知人を思い出して、間違えてしまいました」
 きっと目を丸くしているでろうあたしに、あなたは本当に申し訳なさそうに言う。
 胸がチクリと痛い。
 それが、憶えていてくれた事に対する痛みなのか、それともあたしを別人だと思っている事に対しての痛みなのかは分からないけれど。いや、多分両方に、――かな。

「あなたにはこちらの方がお似合いだと思いますよ」
 にこやかな笑顔で差し出された一着は、清楚な白。さっきの真紅のドレスと変わらない位シンプルだけれど、色のせいか若々しい可愛らしいデザインだった。胸元は少し広めで、控えめなパフスリーブ、スカートは特に装飾は無かったけれど、光沢のあるシルクで作られた大輪の白薔薇が、締まったウエストの左端に付いていて幅広のリボンが長く垂れていた。
「あ、可愛い」
 思わず声に出してしまう位、あたしも気に入った。やっぱりアーヴァインには敵わない。
「気に入って頂けましたか?」
「はい、とっても」
 笑って答えると、懐かしい嬉しそうな笑顔が見えた。ずっとこの笑顔が見たかった。この笑顔に逢いたかった。
 ――――大好きな人。
「……ええっと、アクセサリーはどれにしようかな」
 うっかり色々口走ってしまいそうになって、あたしは慌てて視線の矛先を変えた。
 用意されていたのはドレスだけかと思ったが、アクセサリーも用意されていた。ちょっとというかあまりの眩しさに目がチカチカしそうなものもある。それらをざっと眺め、ぱっと惹きつけられたものを手に取った。
「これはどうかな?」
 確かな審美眼の持ち主にお伺いを立ててみる。
「あなたにもドレスにもよくお似合いだと思います」
 その言葉に嬉しくなった。
 三連パールのチョーカー。中心には乳白色の、光の当たり具合によっては淡い蒼色も浮かぶ宝石が付いていた。
「着替えが終わるまで部屋の外でお待ちしていますね」
 そう言ってお辞儀をするとアーヴァインは部屋の外へと出て行った。

「さて、どうしようか」
 ドレスを脱ぎながら、あたしは思案した。多分猶予はそんなにない。しくじると今度こそ永遠に逢えなくなる。それだけは絶対嫌だ。大体緻密な作戦を練るのは得意な方ではない上に時間もないとなると。
「当たって砕けろってことになるよね……」
 アーヴァインが選んでくれた白のドレスに袖を通しながら、ちょっとだけ溜息をついた。明かりのせいか、仄かにクリームがかった白、ウエストの白薔薇は純白。大きめのスクウェアカットは、首筋のラインを美しく見せてくれるはず。着終わった後鏡の前に立ち、自分の姿を眺めた。
「大丈夫、変な所はない」
 鏡に近づいて、もう一度自分の姿を確かめるように指を伸ばすと、鏡の中の自分と指先が触れ合った。
 ――冷たい。
 思わず手を引っ込めた。ひょっとして身体も……。あたしは不安になって、首筋に指で触れた。
 温かい――――。
 確かに自分は今生きている。
 頬をつねってもちゃんと痛い。
 肌だってよく見れば、少し上気して皮膚の下の血の色が伺える。
 心臓もドキドキ言っている、かなり……。
 多分このドキドキには、別の意味もあるんだろうけど。

「では、行くとしますか」
 一度深呼吸をして背筋を伸ばし、あたしは向こう側でアーヴァインが待つ扉を開けた。
「おまたせ」
「早いですね」
 首だけ出して声を掛けると、柔らかでどこか艶やかな笑顔が振り向いた。
 ちょっとそれは反則! 心臓がびっくりするでしょ! その笑顔の破壊力のすごさちょっと忘れてたよ。
「似合ってますか?」
 ポカンとした顔を変に思われる前に口を開いた。
「はいとても、僕の目は確かだったようです」
 小さくお辞儀をしてスカートを摘んでみせたあたしに、アーヴァインは笑顔を崩すことなくそう言ってくれた。
 良かった。
 尤も、この人は大抵のものは褒めてしまうという、困った癖もあるけれど。この際それは置いておくとして――。
「チョーカーはまだのようですね。僕に付けさせていただけますか?」
「あ、お願いします」
 脇のテーブルからチョーカーを手に取ったのが見えて、あたしはくるりとアーヴァインに背を向けた。留め易いようにとうなじの髪を手で避けて待つ。程なく、揺らいだ空気に乗って、手の温かさと無機物の冷たさを感じた。そして冷たいチョーカーと温かい指が首筋に触れる。
 なんだろう、熱い。触れた指が熱い。
 ひょっとしたら自分の身体の熱さなのかも知れない。でも、そんなことより、そっと肌に触れる指の行方を、全身のありとあらゆる感覚が追う。自分の意志とは関係なく。遠い記憶の底から拾い上げた、それと同じ感覚。あの指も、今触れている指も寸分違わず同じ。瞬時に脳裏に浮かんだ記憶が、強く自分を誘(いざな)う。こうして触れた指がこの後どんな軌跡を辿ったか、どんな言葉を囁いたか、昨日のことのように鮮明に憶えている。今すぐあの瞬間(とき)に戻りたい。誰にも邪魔されないうちに、この人を抱き締めたい。狂おしいほどの衝動に揺り動かされるのを、あたしは必死で押し留めた。

「終わりました」
 永い苦痛はあっけなく終わった。
「さっきの返事を聞いても宜しいですか?」
「返事?」
 訊かれていた内容も、訊かれていたらしいことも、あたしはすっかり忘れていた。
「ダンスに誘ったお返事です」
 そんなことお構いなしに、アーヴァインはにこにこと笑っている。あたしが忘れていることに、この人は多分気が付いていない。ごく希に見える、そういう天然なトコも大好きだよ。
「喜んで」
 笑顔と共に手を差し出すと、あなたは優雅に導いてくれる。うん、こんな所も変わらない。
「もう一つ、お願い事をして宜しいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「この部屋の外には小さな庭があるようです、そこで、というのは如何ですか?」
 その言葉に示された方を見れば、ガラスのドアからそのまま庭に出られるようになっていた。アーヴァインが言ったようにこじんまりとした庭、小さな噴水のある。そして庭を囲むように咲く花々。まるで秘密の花園のようだ。そんな所で二人きりの舞踏会とは、これからどうしたものかと考え倦ねていたあたしには願ってもないチャンスだった。
「いいですよ」
 滑るようにあたし達は庭へ降りた。




 夢の中。
 本当にふわふわと夢の中を漂っているような気がした。
 今まで居た部屋から届く光は寡く、場所によっては全く明かりの届かない所もある。ホールで奏でられている曲を、邪魔はしないとでも言うように風が細やかに運んでくる。それとは反対に花々は濃密な香りを漂わせ、思考を酷く鈍らせていた。その所為かどうかは分からないけれど、いつのまにか向かい合い、しっかりと腰に手を添えられステップを踏んでいた。はたしてこれを踊っていると言ってもいいのかどうかはちょっと疑問。決まったステップを踏む訳ではなく、流れてくるゆっくりとした曲に合わせ適当に足を動かしているという方が正しい。
 だからなのか、どこか現実離れしているこの浮遊感は。今触れているアーヴァインの手も躯も確かな質感を感じる。でも、この手を離してしまったら消えてしまうのではないか。これは本当に夢で次の瞬間には、また遠く離れた所からアーヴァインを見ているだけの自分に戻るのではないか。くるりとターンして光の届かない陰に入る度に、そんな不安に襲われた。
「お疲れですか?」
 不安はアーヴァインの腕を強く握るという形で顕れてしまったようだ。気遣わしげに向けられた顔には深い影が落ち、愁いを帯びて見えた。
「いえ、ちょっと転びそうになっただけです」
 そうは言ったものの、もう踊る雰囲気でも無くなったような気がする。風が運んでくる音楽も、この場所にはそぐわない曲調に変わってしまった。
 さて、これから会話をどう続けたら――――。
 あたしがそんな事を考えている時に、腰に添えられていたアーヴァインの手が少し離れた。
「――あっ、手大丈夫ですか? まだ手当してませんでしたよね、中に戻って手当をしましょう」
 自分でもその閃きを絶妙だと思った。
「……いえっ、大丈夫ですよ。もう血も止まりましたし」
 言葉の中に混じる僅かな動揺が、あたしにはよく分かった。
「ダメですよ、ちゃんと手当をしないと。小さな傷を侮ると後で大変な病気になってしまうこともあるんですから」
 素早く我が身の方へ引き寄せようとした左手を、あたしは許さず乱暴に掴んで自分の方に引き戻した。
「ねっ」
 手を握ったままアーヴァインを見上げて微笑むと、酷く戸惑っているようだった。思考が鈍っているのか、まだ手を握らせてくれている。あたしはすかさず固く閉じられてしまわないうちに指を開く。
「あれ? 傷が見当たりません。この指でしたよね?」
 再び見上げると、今度は瞳がぐらと揺れた。
「こっちの手でしたっけ?」
 アーヴァインが動く前に、右手の指も全部丁寧に確認した。
「やっぱりない……」
 その言葉に握った指がピクリと動いた。代わりに少し引き結ばれた口は動こうとはしなかった。
「そんなに小さな傷じゃなかった筈なのに……」
 追い打ちをかけるように言う。すると離して欲しいというような動きをみせたけれど、あたしは離さなかった。
 そして、核心を衝く。
「ヴァンパイアみたい」

「残念ながら、ヴァンパイアは架空の生き物です。確かに今夜はヴァンパイアの名を騙るのにふさわしい夜ですが、僕はただちょっと変わった体質なだけですよ」
 流れるように紡がれた言葉には、今までの動揺は掻き消え、そして常と変わらない柔和な笑顔がそこにはあった。
 やっぱり、あなたには笑顔が一番よく似合う。
 でも――、ごめんね、アービン。その笑顔は本物じゃないから。
 あたしはちくちくとした痛みを無視して、それこそ一世一代の、たった一度しかない勝負に打って出た。
「あたしは、会ったことあるんですよ、ヴァンパイアに」
「え!? まさか」
「本当ですよ。信じられませんか?」
「ええ、信じられません。お伽噺の中のことでしょう?」
「でもあたしは会ったことがあるんです。その人は十字架も銀の弾も平気でした。日の光も直接浴びなければ大丈夫だと言ってました。ただ聖水は注意しなければいけないと言ってました」
「それは話を“聞いた”だけしょう? ならば証明にはならない」
 アーヴァインは、真実を衝かれてもさっきのように狼狽える様子を見せることはなかった。それどころか全身で否定するような瞳で見てくる。何故、ここに来て自分の存在を否定するような眼をするのか。まるで自分自身を忌み嫌っているような……。
 あたしは、そこで酷く胸を打たれた。そうだ彼は自分の存在を忌み嫌っていた。口には出さずとも、それはひしひしと感じられた。だから、あたしの願いを頑なに拒んだのだ。
 それなのに、アーヴァインに自分が何者かを知らしめ、人とは違うのだと鞭打っているのは自分。今大好きな人の心に容赦なく杭を打ち込んでいるのは、―――― 誰でもないこのあたし。
 それでもここで引き下がる訳にはいかなかった。
 ここで諦めれば後には、何も残らない。
 灰さえも――――だから。


「あたしの命は長くないの」
「いま、なんて……?」
 あたしは更に杭を打ち込む。
 ああ、胸が痛い、心臓をえぐり出されるようだ。なんて悲痛な貌をするのだろう、この人は。
 ――――あの時のように。
 けれど、あたしの言葉は事実。あたし自身にも時間がない。
「もうダメなの……」
「不治の…病?」
 今にも泣きそうな瞳を、あたしは何も言わずただ黙って見つめた。その表情から何を思っているのか手に取るように分かる。遙か昔の記憶を辿り、そして重ね合わせているんだよね?
 ごめんね、アービン。辛い思いをさせて。一番思い出したくない記憶を思い出させて。
 本当に不治の病に冒されたように心臓が痛い、痛くて、痛くて、涙が溢れてくる。
「だから……お願い、あた…しをあなた……の眷属にし…て……」
 これが最後の楔――――だから、アービン。
「………………」
 逸らした瞳が、鎮痛な横顔が、段々と涙でぼやけてくる。
 ごめんね、アービン。そんな顔、そんな悲しそうな顔させちゃって。
 あたしワガママだよね。ホントあたしの我儘なんだ、これって。傍にいたい、ただそれだけであたしは、あなたをこんな風に苦しめてる。


 救いたい? 誰を? あたしが? 救う? どうやって? あたしにそれが出来るの!? 相手が本当に望んでるの!?


 ばかだなあ……どうしようもないばかだ、あたしって。
 こんな我儘を突き通して。
 救われたいのはあたしの方じゃない――――。


 バカだ、本当に。



 もう無理だ。
 これ以上苦しませることは出来ない――――。
 散々こんなに苦しめておいて虫の良い話だけど、あなたは、あなたの時間を生きて……。
 生きていれば必ず光に出会えるから、ね?



 こうして、もう一度あなたに触れられて嬉しかった。
 あたしは消えてもこの想いはきっと消えない。
 だから、もう行くね。
 もし――――もしも、遠く遠く、ずっと遠く、時の環の接する所でもう一度会えたら、挨拶だけはしてね。

 あたしは、流れる涙をぐいぐいと拭いて笑顔を作り、アーヴァインの貌を見上げた。
 最後はちゃんと笑ってさよならしなきゃ、と。
「アーヴァインごめんね、いまのみんなう…そ……――――あっ」
 何事かを意識した時には、強い力で腰を引き寄せられ、首の付け根に鈍い痛みが走っていた。
「赦して」
 肌に触れたまま懺悔のような声が聞こえた。
 離れた貌は――――微笑んではいるけれど、とても切なげで、とても辛そうで……。
「あなたはこの後、苦しみながら一度人としての生を終える、その後新しく生まれ変わります。少々苦しみに耐えていただかねばなりませんが、大丈夫僕が手を握っています」
 胸元のブローチを外して指に傷を付け、ぷつと浮かんだ血をあたしの口にふくませた後、あなたはそう言った。
 握られた手は、本当に温かい。そしてあなたの声は、限りなく優しい。


―― 本当にごめんね、アービン。赦しを乞わなきゃいけないのは ――


 あたしはアーヴァインの手をぎゅっと握り返した。
 ああ 心臓が一際ドクンと脈打つ。
「……くっ」
 小さな呻き声が聞こえた後は、直視出来ないような光景だった。躯の内側から襲い来る、焼けた刃を押し当てられるような痛み。その刃で、心臓を突き刺しえぐり出され、肉を千々に削ぎ斬り刻まれるような――――。
 あたしは絶対に離すまいと強く手を握った。
 怒濤の如く押し寄せる苦痛に、必死に耐えているアーヴァインの手を。のたうちまわらずにはいられない苦しみを、あたしは見ているだけしか出来ない。

 だから――――せめて――――この手だけは――――。















 小さな噴水は、その音も控えめで細やかだった。
 どこかで一度だけ小夜啼き鳥が啼いた。
 それ以外は何の音もしない。
 とても静かだ、―――― とても。
 まるで遠い昔からそうであったように。何事もなかったかのように。刻はきざまれる、けして停まることなく、今も――――。
 そのことは自分を見ればよく分かる。膝の上に乗せたアーヴァインの貌を見れば。
 白のドレスは汚れあちこち破れている。アーヴァインの服も同様に汚れ、袖口の裂けたレースが酷くもの悲しく、どこと言わず掻きむしった指先には血が滲んで紅い。
 見れば自分の手も傷だらけだった。けれど、つと肌を流れる真紅を見ても、痛みなど感じない。
 今あるのは深い後悔の念と、押し潰されそうな不安、そして止まらない躯の震え。
 こうしてずっと待っているのにアーヴァインの瞳は開かない。
 細く流れていた音楽は随分前から聞こえなくなっていた。空は相変わらず昏い。僅かに届く光に照らされた貌はあたしより尚白く血の色は見えない。触れた頬は冷たく命の鼓動を感じることが出来ない。


 あたしは大好きな人を自らの手で――――。


 涙の代わりに真珠の粒が溢れ落ちた。パラパラとはらはらと。アーヴァインの上に踊るように降り、一瞬光る。
 綺麗だ。
 こんな時でさえ美しいものは美しいのだと思った。
 醜いのは自分。
 分がある賭けなのかどうかも分からなかった。手から溢れ落ちる砂を掴むような賭け。時間と共にどんどん砂は溢れ落ち、最後に手の平に残るのかさえも分からない。それでもあたしは少しも迷わなかった。ただ、逢いたくて、逢いたくて、もう一度触れたかった。失敗すれば永遠に失うのだとしても――――。

 なのに今その時を目の前にして、あたしは後悔だらけ。今頃になって後悔しても、もう遅いのに。あなたは永遠に還って来ないのに。

「ごめんね、アービン」
 謝って赦されることなんかじゃないけれど、あたしは言わずにはいられなかった。抱き締めずにはいられなかった。跡形もなく消え去ってしまうその時まで――――せめて。そして神の胸ぐらを引っ掴んで、嘘つきと思いっきり悪態を衝いてやる!


「アービン、ごめんね、アービン。ホントにごめん、アービン…………アービン…」



 世界が蒼に包まれ始めた。もうじき夜が明ける、一日の始まりはあたしたちの終わり。



「……アービン…」
 最後に口にしたい言葉はこの名だけ。聞きたいのは…………。

「セ…フィ……?」

「………………アービン……? アービン!!」

 またアーヴァインの顔がぼやけて見えなくなってしまった。でも顔は見えなくても、触れられた頬はちゃんと温かさを感じ取ることが出来た。
「本当に…………セフィ?」
「うん」
 真珠ではない涙があなたの頬を濡らす。
「ごめんね、黙ってて」
 ぼろぼろと涙を零すあたしを見て、あなたはただ黙って微かに笑った後、まだ痛むのかぎこちなく身体を起こした。
 どうしていつもそうなんだろう。好きなだけ泣かせてくれる。「ここで泣きなよ」と言って、優しく抱き締めてくれる。丁度、今みたいに――――。
 やだなあ、全然涙が止まらない。ちゃんと笑顔でアーヴァインを見たいのに。色々話さなきゃいけないことがあるのに。でも、ずっと焦がれていたのはこの腕。ずっとずっと触れたかったのはこの温かさ。
 あたしはもう一度確かめたくてぎゅうと抱き締め返した
「つッ…」
 頭上で声がした。どうしたんだろうと顔をあげると、アーヴァインがじっと傷だらけの自分の手を見つめていた。
「傷が治らない……」
「そうだよ、もうすぐには治らないよ。だからちゃんと手当しなきゃダメだよ、死んじゃうといけないから」
「死ぬ? 僕が?」
 意味が分からないというように、ゆっくりと視線が移動してきた。
「人間だもん、いつかは死ぬよ? アービン、だって人だもん」
「僕はちが…」
「わないよ、だって舐めたでしょ?」
 あたしは、自分の首筋を指さした。自分では見えないけれど、アーヴァインにはしっかりと見える筈だ。流れた血の跡が。
「――――そんなの」
「信じられなくないでしょ。血を舐めてヴァンパイアになるのなら、逆のことが起こっても不思議はないんじゃない? ほら」
 あたしはまだ宙に浮いたままのアーヴァインの手を掴んで、目の前に持って行った。戸惑いと困惑の瞳で自分の手をじっと眺めている。だがどれだけ見つめていようとも、常なら消えていく傷は、新たな血を流すことはあれど、どれ一つとして消えることは無かった。
 アーヴァインはゆっくり息を吐くと同時に睫を伏せた。その様は、憔悴しきってやつれたような面持ちをしていてさえ、いやその所為か、とても艶めいて見えて、あたしは、こんな時に――――、ほんっとにこんな時にでもドキドキしてしまう。あたしも全然変わってない。いつだってアーヴァインの傍に居たいのに、傍にいるとドキドキしてしまう。
 だから、つい。
「神さまの粋な計らいってヤツだよ。ありがたく戴いとこうよ」
 と、ちゃかすような態度を取ってしまう。ごめんね、アービンちっとも変わってなくて。
 眼が閉じられているのをいいことに、あたしはじっとアーヴァインの顔を見つめた。けれど整った睫が微かに動いて、その至福の時はもう終わりが来てしまったことが分かった。あたしは直視する自信がなくて横を向いた。
 次はどうしたらいいんだろう。取り敢えず、信じて貰うことは出来たけど……。
「……セフィ」
『っ…!』
 返事をする間も与えず、一人先のことを考え始めていたあたしを、アーヴァインはぐいと現実に引き戻した。というより、あたしがすっ飛ばした行程を、アーヴァインはちゃんと踏んでくれたと言うべきか。
 温かいのを通り越して熱い。柔らかくて、甘くて、熱い。長く施される口づけに、背中を一撫でした指に、意識が陶然となっていく。
 その中でひとつだけ、心の奥からくっきりと浮かび上がってくるものがあった。


 ごめんね、アービン、もうひとつ先に謝っとくね。
 果てない闇の中手に入れた、限りある命と永遠の蜜月、今度は絶対手放さない――――。
 だから、覚悟してね、アービン。


- Ende -


お題「color」より 『滴る真紅』 配布元 : Noir  色参考サイト : WEB色見本
【真紅 色コード : a22041】 文字色 : 薄柿 背景色 : 真紅 テーブル背景色 : 濡羽色 目に痛い配色ですみません。

「果敢ない月白」の後半部分です。セルフィ一人称は難しいです。彼女に好きなように喋らせると、話の雰囲気がガラリと変わるので四苦八苦しました。アービン一人称はいつでもサクサク書けるのになあ。
何はともあれ、この二人はやっぱ幸せでいて欲しいです!
(2008.09.22)

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