イエライシャン

- 夜来香 -
 ねっとりと身体にまとわりつく熱気。日陰にいてもそれは容赦なくついて回る。
 温度自体はバラムとさほど変わらない筈なのに、この湿度の高さは、異邦人のアーヴァインにとってはかなり不快なものだった。救いなのは雨上がりの一時が過ぎれば、それがかなり和らぐということだ。
 それと。

「アービン、あの店にしよっ」
 アーヴァインが荷物を持っていない方の腕で頬を流れた汗を拭った時、この鬱陶しい熱気を全く意に介する風もなく、彼の少し前を楽しげに歩くセルフィが、とある店を指さしながらくるんと振り返った。その指先が示す方向に視線を走らせると、車道を挟んだ反対側、ごちゃごちゃと立ち並ぶ店群の中に、こじんまりとしたガラス張りの店が見えた。
 店の看板には飲食店を示す文字と店の名が書いてある。店の入り口には、青々と細い葉を繁らせた南の地独特の少し背の低い鉢植えの木が置いてあり、店の天井には心地よさそうな風を送る羽が回転している。
 空腹と熱気に辟易していたアーヴァインには、そこがまるで天国のように見えた。
「オッケー」
 アーヴァインの返事を聞いた時、既にセルフィは歩道との区別も定かではない車道を、縫うように渡り始めていた。アーヴァインも慌ててその後を追う。
 辿り着いた天国のドアをセルフィが開けてくれると、涼しい風と声が出迎えてくれた。店内に足を踏み入れ、素朴で些か誇張的な顔をした木彫りの置物や、サルがまとわりつくような彫刻の柱にうっかりぶつかりそうになりながら、店員の案内に従って席に着く。ごちゃごちゃとしたこの街らしく、各テーブルも狭い店内にひしめき合うように配置されていて、大げさな手振りでもすれば隣の席の人間にぶち当たりそうな程だ。
 注文をし終えて一息ついた所で店内を見回したが、地元の人間と自分達と同じ旅行者が半々と思われる客層の中、そういったことにいちいち気にするような神経質な客はいないのか、みな食事に夢中か、話に夢中かの二極化だった。
 人がたくさんいるのに、誰も異邦人である自分達に干渉しない。かといって置き去りにされているような感覚もない。人の話し声で騒がしいはずなのに、不思議と落ち着く。実に奇妙な空間だった。そしてセルフィは、この雰囲気がいたくお気に入りのようだった。
 確かにこの町は、彼女の好奇心を刺激するもので溢れていた。バラムともトラビアとも、ましてやガルバディアとは全く違う雰囲気の遠い異国の町。
 熱くて、人が多くて、雑多で、素朴で、初めて見るモノばかり、そしてやたらと海が綺麗な色をしていた。休暇で二人この町というか島を訪れてから、セルフィのはしゃぎっぷりからもそれは良く分かった。だからアーヴァインも、とても楽しくて嬉しかった。

「アービン、ありがとね〜。ここに連れてきてくれて」
 向かいの席で、満面の笑顔で、本当に嬉しそうにセルフィからそう言われて、アーヴァインは死んでもイイと思えるくらい幸せだった。

「わ、きたきた!」
 スープを皮切りに、注文した料理が狭いテーブルの上に並べられていく様に、セルフィはますます上機嫌になった。
「花びらが浮いてる?」
 アーヴァインの前に置かれたスープに、セルフィの好奇心いっぱいの視線が注がれた。
「はい、イエライシャンの花びらと蕾が入っています。とても良い香りがして、食欲を促進してくれます。年中暑いこの土地では、ポピュラーです」
 セルフィの疑問に、料理を運んで来てくれた店員はにこやかな笑顔で答えてくれた。他に入っている食材や効能についても詳しく教えてくれが、始終セルフィの方に向けられていた男性店員の笑顔が、営業的なものだと分かっていても、アーヴァインは気に入らなかった。
「どんな味?」
 セルフィは自分の注文したスープに口もつけず、アーヴァインが注文したそのイエライシャンの花びらと蕾の入ったスープの味に興味津々のようだった。その様子に苦笑しながらも、アーヴァインはスプーンですくい一口飲んでみた。
「美味しいよ、エビとキノコの旨みがしっかり出てて、でもさっぱりしていて、美味しいよ」
「ひとくちちょーだい」
 言われる前にアーヴァインは、スープをひとすくいしたスプーンをセルフィに差し出していた。
「ん、ほんとだおいしー」
 それで満足したのか、セルフィはやっと自分のスープに口をつけた。
「うわ辛い、でもこれもおいしー」
 どの料理もセルフィの口に合ったらしく、並べられた物を全部平らげた上、最後にマンゴー入りのシャーベットをアーヴァインにねだって、長い時間をかけた昼食が終わった。


「うわ、すっかり天気になったね〜」
 昼食を摂った店から出ると、さっきまでの熱気は幾分和らぎ、空は元の蒼さを取りもどしていた。たくさんの人が行き交う狭い歩道を二人並んで歩けば、セルフィは目に入る全ての物に興味を示すかのように、瞳をキラキラとさせていた。
「セフィ、ちゃんと周りも見て歩かないと危ないよ」
 それは大袈裟でも何でもなかった。
 最初こそアーヴァインの腕を握って歩いていたが、気を惹くものに出会えば磁石に吸い寄せられるように、セルフィはそこへ向かう。目的以外の物はまるで目に入っていないかのように、何度も人にぶつかりそうになっていた。そしてアーヴァインの忠告は耳を素通りしていたらしく、言った傍からドンッと男にぶつかったかと思うと、セルフィは大きくよろけて車道の方へ転び出そうになった。
「ほら、危ないってば」
 ちゃんとセルフィにくっついて歩いていたアーヴァインは、転がる前にセルフィの腕を掴んで抱き留めた。

 セルフィは突然のことに驚いた。
 人にぶつかって転びそうになったことにではなく、アーヴァインに抱き寄せられて。
 とても良い匂いがしたのだ、アーヴァインから。
 さっきのスープに入っていた花の香りと、男っぽい汗の匂いとが混ざって、見知らぬ土地で出会った、見知らぬ男の人のような。それでいて、思わず手を付いたアーヴァインの胸は、よく知っている感触。そこに感じた薄いシャツ越しの体温は高く、手に伝わった堅い筋肉の質感は、とても危険な感じがした。
「……ごめん、ありがと」
 背筋を走った痺れを悟られないように、細心の注意を払い、セルフィはアーヴァインからそっと離れた。
 その様をどこかよそよそしく感じて、余計なことをしてしまったのだろうかと、アーヴァインは心淋しくなった。
 知り合いだらけのガーデンの中でベタベタするのを、セルフィが嫌がるのは分かる。でも、こんな知り合いなんか誰も居ない異国の地でなら、もっと恋人らしくくっついていても、だ〜れも気にしないのに。それさえもイヤなのだろうかと思うと、恋人としての自信まで無くなるようだ――。
 アーヴァインは、既に自分より数歩先を、何事もなかったかのように歩いているセルフィの後ろ姿に、思いっきり溜息をついた。
 ほんのちょっと前に、その小さな身体を抱きしめた腕は、その感触をまだ憶えているのに……。
「あっ」
 ここでようやく気付いたことがあった。
「どうかした? アービン」
「ごめん、セフィ。ちょっとここで待ってて、さっきのお店に忘れ物した」
「ん、わかった」
 セルフィが返事をした時には、アーヴァインは身を翻して走り出していた。
「はやっ」
 一緒に行けば良かったとセルフィは思ったが、アーヴァインの足は本当に早くて、人混みがすごくて、彼の姿はとっくに見えなくなっていた。アーヴァインがいなくなった途端、妙につまらなくなった。歩く人の邪魔にならないよう道の端っこによけて待っていようと移動した時、嗅いだことのある香りが漂ってきた。
「これって、さっきのスープの……」
 その香りの元を辿るように、鼻をひくひくさせて歩いてみれば、すぐにその場所が見つかった。
 匂いの発生源と思しき所に辿り着くと、袋いっぱいに花びらが詰まったものがいくつも店頭に並んでいた。その横には、黄色がかった細い五枚の花びらを持つ、可憐な花をつけた鉢植えも置いてあり、そこからも同じ香りがした。
 ということは、これがイエライシャンなのだとセルフィは思った。近づいてじ〜っと見ていると、人なつっこそうな若い男の店員が寄ってきて、色々教えてくれた。
 イエライシャンの花は、この地方では普通の食材として、こうやって袋詰めで売られているのだそうだ。温度と湿度の高いこの地では、女性に人気の食材だと店員は教えてくれた。買わないかと聞かれたが、観光客だからと断った。実に商売熱心な者の多いこの町で、この店員も例に漏れず、商売用の笑顔と巧みな話術で、セルフィは手を引かれるようにして、いつの間にか店の中へと案内されていた。他にも、薬膳料理の材料も取り扱っているようで、店の奥の方には、ちょっと正体は知りたくないような黒い干物の入ったビンも並んでいたりした。店員はそれとは別の棚から、ハーブか何かの入ったビンを持ってきて、顔をくっつけるようにして説明を始めた。
「セフィ、お待たせ」
 聞き慣れた声と共に、店員とは反対の方向へぐいんと身体が引っ張られた。
「アービン」
 セルフィはホッとした。
 店員の流れるような話術から、どうやって抜け出そうかと考え始めていた所だったので。
 けれど、見上げたアーヴァインの顔は少し強張っていて、ちょっと戸惑った。
「行こうセフィ」
 そう言って握ってくれた手は優しくて、表情もさっきのは見間違いだったんだと思えるような、いつものアーヴァインだったので、戸惑いはすぐに消えたけれど。




 小さな船から身を乗り出すようにして、そのスピード感を楽しんでいたセルフィは、船から降りてもその顔を曇らせることなく、太陽のような笑顔をアーヴァインにもむけた。
「うっわ〜 すっごーーい!!」
 セルフィは感嘆の声をあげると、そのまま建物の中を一直線に突っ切って、桟橋へと出た。
「アービン、ここから直接海に入れるよ〜」
 短い桟橋の先端でようやく止まると、セルフィはゆっくりと歩いてくるアーヴァインに、ブンブンと手を振った。
「気に入ったかな〜?」
「うん めちゃめちゃ気に入った!」
 海の上に張り出すようにして建てられた小さなコテージ。
 さっきまでのごちゃごちゃとした喧噪がウソのような、リゾートらしい海の色の綺麗な場所に二人は来ていた。
 本島から船で10分程の所にある島に建てられたこのコテージは、周りにほどよく長い葉の木が植えてあり、隣のコテージをあまり気にしないですむ。ちょっとした別荘気分の味わえる宿だった。
 ただ一つ難点なのは、本島に来るまでが時間がかかることだった。そんな旅の疲れを微塵も感じさせないほど上機嫌のセルフィに、アーヴァインはここを選んで良かったと心の底から思った。
「泳ぐ?」
「う〜ん アービンは?」
「昼寝したいかな」
「そう言えば、コテージの中は涼しいね。空調とか入ってないのに」
 コテージの中に戻ると、開け放ったガラスのドアから入ってくる風は、海のそばのせいか本当に気持ちがよかった。空調の設備も整っていたが、今はそれを使う必要はなさそうだ。
 レースのカーテンが風でふわりふわりと揺れる様を見ながら、軒下の木の長椅子で波の音を子守歌にした昼寝は気持ちいいだろうな〜とセルフィも思った。
「じゃ、泳いでくるね」
 それでもセルフィには海の魅力の方が勝っていた。
 バスルームへ荷物を抱えて入ったかと思うと、恐ろしい早さで着替えて、コテージから続く短い桟橋を駆け抜け「キャッホー」と海に飛び込んだ。
 アーヴァインはそれを横目に苦笑しながらも、ちゃっかり渡されていた浮き輪を膨らませると、桟橋の端っこまで歩いた。そこではセルフィがイルカにでもなったかのように、気持ちよさそうに泳いでいた。
 ここの海は本当に綺麗な色をしている。バラムとは違う薄いシーグリーン。砂が白くコテージの近くは水深が浅いようなので、そんな色をしているのだろう。アーヴァインが投げた浮き輪に掴まって嬉しそうに手を振る姿に、少しばかり後ろ髪を引かれつつ、明日は一緒に泳ごうと心に決めて、当初の予定通り彼は、日陰の長椅子で昼寝をすることにした。


 アーヴァインが目を覚ました時には、シーグリーンの海に太陽の色が融けかけていた。
 時間で言えば二時間程度だと思うが、随分眠ってしまったような気もした。それよりも気になったのは、やたらと静かなことだった。聞こえるのは波の音だけ。それ以外の気配が感じられない。セルフィはどうしただろうと思い、まだ寝ぼけている身体を動かして桟橋の端っこまで行ってみたが、既に彼女の姿はなかった。
「そりゃそうだよな……」
 今まで泳ぎっ放しなんてことはいくらセルフィでもないだろう。そう思い直してコテージの中へ入ると、リビングから続く寝室のドアが少し開いていて、ベッドにころんと横たわっている姿が見えた。
「さすがのセフィも泳ぎ疲れたってワケですか」
 近寄ってみれば、幸せそうな顔をしてよ〜く眠っているのが分かった。水着の跡を残して、肩の辺りがほんの少しだけ赤くなっている。日焼け止めは塗らなかったのか。セルフィの肌は赤くなったあと黒くはならず、暫くするとまた元に戻るタイプなので、本人は気にしていないのかも知れないけれど。それでも痛くはないのだろうかと、そっと触れてみたが痛がる様子もなさそうなので、アーヴァインはちょっと安心した。
 ベッドの端に座ってセルフィを眺めていると、段々と彼女に落ちる影が濃くなって来た。ふと顔を上げると、窓の外の太陽はもう殆ど水平線の向こうへ沈みかけていた。再び視線をセルフィに戻したが、まだ起きそうな気配はない。さて起こそうかどうしようか、アーヴァインはセルフィの頬にかかった髪を、指先に絡めて弄んだ。
 そしてぼんやりと思う。
 これってちょっとハネムーンみたいだな〜と。いつか本当にそうなればいいな〜と。
 そろそろ起きてもらおう、そう思ってセルフィの頬を撫でた時、その愛らしい唇から、気分を急降下させる言葉がこぼれ落ちた。
「…………ラグナさま」
 はっきりとそう音になっていたワケではなかった。
 だが、ふわりと蕩けるような表情は、そう確信させるに足るもので、アーヴァインはこめかみにピシッと微かな音がした気がした。こんな所まで来て、ラグナの夢を見るセルフィにも、夢にまで出張ってくるラグナにも腹が立った。いっそこのまま抱いて、そんな夢ブチ壊してやりたい。
 アーヴァインは頬を撫でていた指を、小さな顎に移動させぐいっと引いた。その時、暖かい何かがその手に触れた。見れば自分よりも一回り小さい、すらりとした手が重なっていた。
「アービン」
 続いて聞こえた声にそちらを向けば、ふんわりとした笑顔が自分に向けられていた。ラグナの名を呼んだ時よりも、数段、幸せそうな……。
 アーヴァインはそこから先何も出来なかった。
 ただ、キスはした。
 ―――― 優しく、想いのこもったキスは。








 風が、火照った肌を撫でていく。
 耳に届くのは木の柱に静かに当たる波の音。
 目を開ければ、今にも溢れ落ちてきそうな星の海があった。
 そしてこの香り――――。
 明るい時には気付かなかったが、この長椅子の傍にはイエライシャンの鉢植えが置いてあった。
 夜になって一層強さを増した芳香。
 夜に来たる香り。
 その名の通り、夜になると昼よりももっと強く幽玄な芳香を放つのだという。
 セルフィはその香りに酔っていた。
 というより、その香りを纏った人を思い出して、波音が誘う夢うつつの間を漂っていた。
 こうして目を閉じていると、風が運んできた香りが自分を包んでくれているようで、その人に抱きしめられているようで、とても幸せな気分だった。
 いつまでも、この甘くたゆたうような刻の泡沫に漂っていたい。
 長椅子に横たえた身体が求めるがまま、このまま眠ってしまおうか――。
 なのにそれが突然遮断されてしまった。
 自分と同じ位の温かさが、ずけずけと幸福な空間に割り込んできた。
 その不躾な存在は、イエライシャンの香りをも遮った。
「アービン、じゃま〜。花の匂いがしな〜い」
 セルフィは、今載せられたばかりのアーヴァインの膝の上から、彼に向かって愚痴た。
 僕は花以下ですか……。
 アーヴァインの溜息は、だが、セルフィに届くことなく風に掻き消されてしまった。


「―― セフィ、ここで寝るの?」
 セルフィはひとこと文句を言ったあと、何も言わず、また動くこともしなかった。
 南国とは言え、こんな薄着で、ましてや湯上がりの身体で、屋外で眠るのはけして良くない。
「ん〜 もうちょっとこうしてたい」
 セルフィは、眠たげな、ちょっと甘ったるい声で呟くように言うと、アーヴァインの腕に自分のそれを絡めるように、手を伸ばしてきた。
「そ、わかった」
 薄闇の中、キャミソールから覗く白い肌が淡く浮かび上がる様と、腕に絡み付く体温に、酷く誘惑されながらも、アーヴァインはセルフィの希望を優先させた。
「みんな何してるかな」
 目を閉じたまま、セルフィは懐かしむように話し始めた。
「そうだね〜、何してるだろうね」
「明日、お土産買わなきゃ。キスティスにもリノアにも頼まれてるものがあるんだ〜」
「そうなんだ、何を頼まれたの?」
「なんかね〜 肌にいいお茶があるんだって、ここって」
「それは忘れちゃダメだね」
 アーヴァインは二人がセルフィのお土産を心待ちにしている姿が目に浮かぶようで、セルフィの髪を梳いていた手を止めて思わず笑った。
「ゼルはね〜もう決まってるんだ、はんちょのもリノアに聞いて決定済み〜、でもね〜」
「なに? なんか難しい人でもいるの?」
「サイファーがね〜 難しいんだ。ヘタなもの買って帰ると、イヤな顔されそうで」
 他のヤツならいざ知らず、無条件に猫っかわいがりしているセルフィに対しては、絶対にそんな顔をしないだろうと思いつつも、アーヴァインはそうだね〜と答えておいた。
「ほ〜んとサイファーには何にしよ、ね、アービン何がいいと思う〜」
 それからセルフィは、延々とサイファーへのお土産を何にするかの話を続けた。いつまで続くのか、そろそろ話題を変えたいと、アーヴァインが思い始めた所へ、また嬉しくない言葉が飛び出た。
「ラグナ様にも買って帰ろうかな〜」
 その名に、アーヴァインの中でブチブチッと何かの切れる音がした。
「そんなにラグナさんがいいのなら、エスタに引っ越しちゃえば!?」
 思ってもいないことが、口から転げ出た。しまったとは思ったが、見る間に驚いた顔からムッとした顔になったセルフィに遅かったと思った。
 けれど、正直な感情でもあった。
「なんで怒るの!?」
「他の男の話ばっかりするからだよっ!! 折角の二人だけの旅行なのに、それともセフィは僕より彼らの方が大事なの!?」
 アーヴァインのあまりの剣幕に、セルフィは、ただ、ただ、驚いた。
「そんなことないよ、アービンだって知ってるやん」
 普段の態度からそんなことはちっとも伝わって来ない、とアーヴァインは思った。
 今日だって、食事をした店から元の場所に戻ってみれば、男の店員にホイホイついて行っていた。夕方だって夢でラグナの名前を呟いていた。今は今で散々サイファーの話をしたあと、またラグナの名前を聞かされた。どこをどう取ればそんなことが言えるのか、改めて記憶を辿って更にカチンときた。
 それが理不尽な感情だということに薄々勘づきはしたが、滝のように流れ出した烈情を、アーヴァイン自身にももう止められなかった。
「知らないよ、分からないよ!」
 セルフィはワケが分からなかった。けれど、アーヴァインを酷く怒らせてしまったんだ、ということだけは分かった。
 そして、そのことにとても焦った。
 初めて、自分に対して怒るアーヴァインを見た。
 あまりに突然で、あまりに驚いて、どうしたらいいのか全く検討もつかない。
「じゃあ、どうしたら分かってくれるん?」
 もう泣きそうな気分だった。
 このままアーヴァインに嫌われたらどうしようかと。それ位、怒ったアーヴァインはセルフィにとって衝撃的だった。
 縋る思いで仰ぎ見たアーヴァインは、セルフィから視線を外し、じっと考え込んでいた。
 それがセルフィを更に追い詰める。
 やがてアーヴァインはセルフィに視線を戻すと、すっと彼女を抱き上げた。
「わっ! アービン」
「イヤなの!?」
 いつもの陽気な声ではなく低めの声が、セルフィの心を重く貫く。
「イヤじゃない」
 必死の思いで、セルフィはアーヴァインにしがみついた。



「ッ!」
 少し乱暴にベッドに落とした。驚きの声と瞳がチラと見えたが、彼女がそれと気が付く前に覆い被さった。
「アービ……んっ」
 息もつけないような激しい口づけで、思考を奪いにかかる。
 理性も手放させる為、容赦なく衣服も剥ぎ取る。
 なるべく、早く、自我をなくした方がいい。
 たぶん、今日の彼女は、間違いなく、そう思うことになるから。
「ん、くっ……ん……っ」
 下から聞こえる苦しげな呼吸。
 両腕とも押さえ込んでいるので、苦しさを身を捩ることで訴えようとしている。
 ああ 分かっているよ。
 わざとそうしているんだから。
 いっそこのまま狂ってよ。
 そうしたら、僕は、躊躇いなく、非道な人間になるから。
「ア……ビ…んんっ」
 まだ抵抗しようとするんだ、強情だね。
 そんなのは無駄なことだって、君だってよく知ってるはずなのに。

 ―――― 違うな。

 苦しいのは僕の方だ、君の唇を塞いでいる僕の方。
 理性を既に手放しているのも僕。
 狂っているのも、――僕だ。
 それと、この香り、昼間、口にした……。
 それが、今は、昼間よりずっと濃厚な芳香を放ち、まとわりつくように、絡み付くように、誘いをかけてくる。
 妖しく、甘露の、誘いを。

 蜘蛛の、それより頼りない糸を引いて、ようやく離れた。
 今日の君は本当に強情だ、とうとう観念しなかった。
 白い肩を大きく上下せて、僕を見上げた君の目尻は、もう、濡れている。
 僕を咎めているつもり?
 そんな貌を見てしまうと、もっと非道な人間になりたくなるじゃないか。
 ああ また、花の、芳香が強くなった。
 本当に、今日は――――。

 ぼくは……。

 きみヲ。

 ―――― ニ、シタイ。





 アービン……?
 うごかない。どうして?
 あんなに、苦しくて堪らないほどの、熱い口づけをしてきたのに。
 引き裂くように、服を取り払ってしまったのに。
 なぜ、そこから先へ、進めないの?

 アービン、―――― あたしに触れて。

 躯が熱い。
 さっきより、何も身に着けていない、今の方が、熱い。
 でも、もっと、熱いあなたに、触れられたい。
 今、肌を撫でているのは、ささやかな風だけなんて、哀しすぎる。
 あたしを融かしているのが、イエライシャンの香りだけなんて、淋しすぎる。
 だから――――、せめて。
 この手を自由にさせて。

 そしたら、あたしがあなたに、触れるから。




「……アービン」
 更にしっとりと濡れた瞳で見上げたアーヴァインは、どこか虚ろな眼をしていた。けれど、セルフィの声を聞くと、ゆっくりとした動きで彼女を見つめ返す。
「言って、――どうしたいのか」
 静かな、感情があるのか、ないのか、分からないような声音。
「…え?」
「言ってくれないと、何もしないよ、―――― なにも」
 セルフィの虹彩が大きく揺らいだ。
 アーヴァインの声は、抑揚のない冷たい音なのに、そのずっと奥、熱い何かが一瞬見えた気がする。
 だから、素直に望みを言えば、彼はそれを叶えてくれるだろう。
 いつだってそうしてくれたのだから。
「抱いて……ほしい」
 光量の押さえられた間接照明だけとはいえ、セルフィにとって十分に羞恥を覚える明るさだった。けれど、今そんなことは感情の外だった。
「どんな風に?」
「どんな?」
 セルフィは戸惑った。
 どう言えばいいのか、分からない。
「言って、僕はどうすればいいの?」
 それはセルフィの方が聞きたいことだった。
 考えつづけて、ただ時間が過ぎた。
 それでも、アーヴァインは自分から動こうとはしない。
 セルフィは躯の熱を、何かが奪っていくような感覚を覚えた。
 このままでは、その何かが、アーヴァインをも連れ去ってしまうのではないか ――――。

「言うから、手を離して」
 覚悟を決めた。
 ゆっくりと解放していった手を、今度はセルフィが捉えると、アーヴァインの瞳をじっと見つめて、そっと片方の乳房を包むように置いた。
「触れて、アービンの好きなように」
 その言葉が聞こえてセルフィは、初めて、アーヴァインが自分を視てくれたような気がした。

「…あ…………ぁん、くっ……」
 指先で手の平で、唇で、セルフィが願った通り、アーヴァインは彼女に触れた。
 躯の内側から溶かされていくような愛撫に、セルフィの躯は再び熱を取り戻していく。
 けれども、また切なさに襲われる。
 なぜ――――。
 その答えは、我知らずシーツを滑った脚が教えてくれた。
 他の場所に、もっと触れて欲しいところに、―――― 触れてくれない。
「……アービン」
 セルフィが呼ぶと、アーヴァインはゆっくりと貌を上げた。彼が離れたことで、濡れた胸の頂きが冷たい空気にさらされ、小さく震えた。
「なに?」
 少し伏せられた睫の奥の瞳は、酷く真っ直ぐに自分に向けられ、背中を射竦められたような戦慄が駆け抜け、セルフィは続きの言葉を失った。
「言って、セフィ。どうしたいのか、どうしてほしいのか」
 ようやく、セルフィは理解した、今日のアーヴァインを。
 だから躊躇ってはいられない、恥ずかしくても、きちんと伝えなければ、でないと彼は――――。
 セルフィは身体を起こし、アーヴァインの耳に唇を寄せ、吐息と共にどうしてほしいのかを告げた。

「ああっ……ん、んっ……あ、あ…あ………ダ…」
 セルフィはきつくシーツを握りしめて、言いかけた言葉を呑み込んだ。
 違う、“ダメ”じゃない。
「……ん、くっ…………や…」
 これも違う。
 “イヤ”じゃなくて、本当に言いたいのは“やめないで”。
 セルフィは固く唇を結んで、押し寄せる快感に身を捩った。
 自ら望み、告げたせいか、ほんの少しアーヴァインに触れられるだけで、全身を痺れるような衝撃が走る。
 その証しとして零れ落ちる雫は、自分にも容易く分かるほどだ。
 アーヴァインが、指で、唇で触れる度に耳に届く水音は、羞恥より彼を求める心が勝っているという、何よりの証拠。
 そして、自分に触れている相手がアーヴァインだということが、最も自分を歓喜させる。
 愛しくて堪らない相手だからこそ、こうして翻弄されても、淫らな醜態をさらすことになっても、それは苦ではない。
「――――!」
 アーヴァインは、唇でセルフィの声なき声を受け止めた。



「――アービン…」
「ん?」
 セルフィのぼんやりとした視界に、隣に横たわっているアーヴァインの顔が見えた。セルフィは、少し身体を起こし、その存在を確かめるように手を伸ばして触れた。
 良かった、まだ――。
 確認するとセルフィは、肌に触れた指を素早く下へ移動させ、着衣の上から太腿の辺りを一撫でして、窮屈な所に閉じ込められている昂ぶりを包むように握った。途端、アーヴァインの躯がびくんと震える。
「セフィ」
 さっきとは違う、戸惑ったような声だった。
「まだ、したいことがあるから、ねっ」
 起こしかけた躯をそっと押して、再びアーヴァインを横たわらせると、セルフィはたった2枚しか身に着けていなかった服を一気に引き下ろす。そのラフな着衣は、簡単にアーヴァインの肌から引き離された。
 解放され、堅く屹立している彼自身を、手でそっと包み込む。
「っ…」
 張りつめた茎に指先を這わせ、先端の中心を押し広げるように撫でると、セルフィの指先がしっとりと濡れた。もう片方の手で、再び根元から包み込み、きゅっと握る。
 セルフィが、触れ、新たな動きを見せる度に、アーヴァインの躯は敏感に呼応した。

「セフィ、もういい」
 もうすぐ、とセルフィが思った時、アーヴァインは身体を起こし彼女を強引に止めた。

「アー……んっ」
 セルフィが何かを言う前に、アーヴァインはその唇を塞ぎ、抱きしめるようにして、今度は自分が彼女の肌に指を這わせた。施される愛撫に、柔らかく溶かされた躯を素早く割って、アーヴァインはセルフィの秘所へと潜り込ませる。
「ああっ!」
 いきなり訪れた衝撃に、堪らずセルフィの躯がしなる。
「セフィ、すごく濡れてる」
 引き戻した耳元にアーヴァインが囁けば、セルフィは甘い喘ぎとは反対に、否定するように頭(かぶり)を振った。
 けれど、アーヴァインが潜り込ませた指を蠢かせる度に、セルフィの口から零れる声は、甘やかな艶を帯び、呼気は荒く、彼を受け入れるその場所は、何かを求めるようにひくついた。
「僕が欲しい?」
 ぴたりと動きを止めてアーヴァインは訊いた。
 非道い、とセルフィは思った。
 まだそんなことを訊いてくるのかと、あたしがどんな状態か知っているクセに、非道い、と。
 けれど、このままでは、欲しいものは得られない、悔しいことに――――。

「うん、欲しい……アービンが」
「ありがとう、セフィ」
 愛しさを込めてアーヴァインは、セルフィを一度抱きしめて、キスをした。
「このままでいいね?」
 膝の上、向かい合う形でセルフィを座らせ、触れるように唇に、アーヴァインは吐息混じりに告げた。
「え、待って……」
 この軽く胡座をかいた彼を受け入れる体勢は、、初めてではないけれど、それでも刺激が強すぎるとセルフィは思った。更に、それを言葉で確認されると、尚のこと恥ずかしい。
「じゃないと、僕はあげない」
 セルフィは絶句した。
 どう転んでも、アーヴァインの希望を聞き入れるしかないではないか。

 ―――― イジワル。

 セルフィは、言葉で答えることはせず、小さく息を吐くと、ぎゅっと目を閉じて、アーヴァインを受け入れるために腰を浮かせた。
「ちゃんと僕を見て、セフィ」
「――!」
 羞恥でセルフィの肌が、より熱を帯びた。
 アーヴァインの要求は、あまりに恥ずかしすぎる。けれど、拒否すればどうなるかは、もう考えずとも分かっていた。
 だから、アーヴァインの望み通り、目を開けて、彼を見る。
 視線を絡ませたまま、自分の中に分け入ってくる逞しい彼を、―― 感じた。
 彼が肌に触れ、少し進むごとに、ビクビクと躯が震える。
 アーヴァインを捉えたまま、逸らすことを赦されない視線に、羞恥でますます頬は熱くなる。

 自分を受け入れてくれたその頬を、ひとしずく涙が伝った時、アーヴァインはセルフィに優しいキスをした。
「セフィはとても綺麗だ。セフィだけを、愛してるよ」
 セルフィは、何も答えず、ただアーヴァインの首筋に顔を埋めた。
 こんな時だけど、こんな時だからこそ、幸せだと思った。
 アーヴァインは、ほしい言葉をちゃんとくれる。
 本当は、それに応えない自分が悪いんだ。
 ちゃんと伝えない自分が ――――。

「……あっ……んっ……んっ……」
「だから、僕だけを見ていて、いつも」
 セルフィは、アーヴァインの肩に掴まるようにして、知らないうちに腰がうねっていた。
「ああっ!」
「他の男を見ちゃダメだよ」
 時折突き上げられる強すぎる快感に、思わず背中がのけぞる。
「セフィ――」
「あ……やっ………あ、あっ…」
 熱い、灼けるように熱い。
 この地の昼間の太陽のように、熱い。
 躯を蕩かすように、熱い。
 そして――。
「……ダメっ…アービン…は、動かない…でっ」
「どう、して……?」
 荒ぶる呼吸の間に聞こえる声は、少し掠れ、艶やかで、それだけでセルフィの肌身を何かが撫でていくようだった。
「だっ…て、奥に……あた、る………ああっ!」
「良すぎる、って……コト?」
 セルフィは答えなかった。
 答えられなかった。
 告げるには遅すぎて、もう、きつく目を閉じ、アーヴァインにもたらされる、怒濤のような快楽に抗う力は、既に失せていることに気づけなかった。
「ダメっ………あ、あああぁっ――――」
「くっ」
 同時に果て、力なく倒れこんで来たセルフィを、アーヴァインは柔らかく受け止め、静かにベッドに横たわった。





 しばらく伏せていた顔を横に向けると、花の香りがした。さっきと変わらない濃密な香り。
 ということは、まだ夜なんだ。セルフィは息を吐いて、重い身体をもう一度ベッドに沈めた。
 幾拍もしないうちに、背後の空気が揺らいだ。それと一緒に花とは別の匂いも混じった温かさが、そっと間近に迫ったのが分かった。
 本能的に相手より先に何か言わなきゃと思った。
「――よかった」
 慌てたあまり何もかも省略された言葉は、
「さっきの?」
「ち、ちがっ!」
 激しく誤解を招いてしまった。
「良くなかったの? 僕はサイコーだったのに」
「――――」
 卑怯だ。こんな、耳元で囁くような、言い方。
「セフィは?」
 なのに――。
「…………よ、よかった」
 ぱたんと身体をアーヴァインの方に向かされ、どうしても答えなきゃいけないような気がした。
 アーヴァインがあんまり嬉しそうな顔をするから。
「そうじゃなくて、ここにつれ―――― わっ、アービンッ」
「なに〜?」
「あつい〜」
 そう、熱かった。密着したアーヴァインの肌は熱を帯びている、まだ。
「イヤ?」
「…………」
 どの“イヤ”なのかが分からず、セルフィは答えるのを躊躇った。
「ふう〜ん」
 青紫の瞳は真っ直ぐに、まるで見透かしたようにセルフィを捉えていた。
 そして、笑った。
「熱いのがイヤなの?」
「ん〜 ……まぁ」
 別の意味じゃなくて、安心したような、しなかったような、でもやっぱりセルフィは少しホッとした。
「わかった、じゃ、こうしよう」
「わっ、わわーっ。何すんねん、アービン!」
「泳ぎに行こうと思って、そしたら熱冷めるでしょ」
 アーヴァインはセルフィを抱き上げて、にこにこ笑顔で言った。
「はだっ、はだかやんっっ」
「暗いからだいじょーぶ」
 そういう問題じゃないとセルフィは思った。
「はーなーせー」
「イ〜ヤ〜だ〜よ〜」
 アーヴァインは、往生際の悪いセルフィをものともせず、彼女を抱いて桟橋へと歩いた。
「アービンなんか、きらい〜」
「それ本気?」
「う゛っ……」
 今日のアーヴァインには何を言っても負ける。さっきまで悉く惨敗したセルフィは、小さく降参の息を吐いて、とん、と頭を彼にもたせかけた。
 アーヴァインの胸からは、まだイエライシャンの良い匂いがした。

オリジナルの方で先に書いた、『夜来香』をモチーフにした話ですが、やっぱりアーセルでも書きたくて、やってしまいました。読みたいと仰って頂いた方がいらしたのも、後押しになりました。ありがとうございました。
夜来香の花だけでなく、『スープ』も出てきましたが、これは東南アジアで普通にあるメニューだそうす。
んで、アービンが、Sに足を突っ込んだというか、言いたいことを言い始めたというか……。多分、これからもこの傾向は強くなるような気がします。(^◇^;)
(2009.01.01)

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