外は雨。


 先刻飲み終えた紅茶の残り香が漂う室内。 小型のコンポが低ボリュームで古の映画音楽を奏でている。
 ソファーに仰向けに寝そべって文庫本を読み耽る俺の上にぴたりと重なって、胸に頬を押し付けて目を閉じている色白の貌。 長い黒髪が飾る頭部は、空いている片手を置くいつもの定位置。 上質のシルクにも似た髪の手触りが掌に心地好い。
「今読んでいるのは何?」
 胸元からそっと零れる声は、アルトにも聞こえる優しいメゾソプラノ。
 しっとりと降る雨音に溶けるように耳に入る。
「表紙は読めるだろ」
 答えると、ふっ、と笑った気配がした。
「目を瞑ってるから無理」
 そうかよ、と言う代わりに髪を梳くように撫でる。 愛用している洗髪剤の白檀系の香りが立ち昇って鼻先をくすぐった。
 何か言い返してくるかと思った口はそれきり噤まれ、まるで鼓動を確かめるような仕草で耳を胸に押し当ててまた動かなくなった。
 いつの間にかコンポはメロディを奏でることをやめていて、降りしきる雨に仕切られた空間には、時折ページをめくる音が混じる以外、余計な物音は忍び込むことさえ遠慮しているようだ。
 そうしてどれくらい経ったものか。 上に乗った細い身体が身じろいだと思ったら、溜め息とも取れる大きめの吐息が腕に掛かった。
「眠ってしまいそう……」
 ぼんやりとした声に笑みが漏れたのは、本当に、つい。
「退屈で、か?」
 つい、のついでに尋ねたのも、別に他意があったわけじゃない。
 なのに。
 否定を示して微かに揺れた髪に遅れて届いた返事が、不意を衝く。

「………満たされて」

 途端、それまで目で追っていた筈の文章は意味のない文字列に変わった。 頭の中に構築されていた小説世界が一瞬にして霧散する。
 ふと体から重みが消えた。 突然の喪失感に驚いて目を向けると、軽やかな動作で起き上がった身体がソファーを降りようとしていた。
「どこへ行く?」
 思わず上体を起こして伸ばした手からするりと逃れ。
「どこにも」
 穏やかな笑みで素顔を飾る。 「あたしの居場所はここだもの」
 そう言って、ベランダへと続く窓際へ歩み寄り、レースのカーテン越しに窓外へと目を向けた。



 出逢った当時は本当に扱いづらい女だった。 媚びず、悪びれず、ふてぶてしいまでに己れの理を通す。 『孤高』 だの 『山より高い』 だのと言われていた俺のプライドも、こいつの前ではあってなきが如し。 決して建前を言わない痛いほどストレートな姿勢と良く回る口にやり込められたことは数知れない。
 何度もぶつかった。 馬鹿馬鹿しい口喧嘩も、真面目な議論も、呆れるほど交わした。
 翻弄して、翻弄されて、そうして知った。
 ことごとく反発し合うこの女の感性が、実は俺と良く似たものであること。 女の内にはとても深く柔らかい許容が秘められていること。 そして、俺の琴線を激しく揺さぶる存在であることを。
 楽しかった。 たとえ口論ばかりであっても、同じ空間で同じ時間を過ごしていることが何よりも俺を喜ばせ、満足させた。 女の目が俺を見る。 耳が俺の声を聞く。 同じ物を見て、同じことを感じる。 共に在る ─── それを実現出来る存在がどれほど必要だったか、どんなに大切なのか、この女が教えた。
 ─── あれから何年もを経て。
 俺にとって唯一無二だった女は、かつて想像した以上のいい女となり、かつてのように俺と共に在る。



 雨に煙る景色を眺めやる横顔は薄く笑みを孕んで。
 すんなりと佇む背中を抱き締めると、緩く凭れるように身を寄せて来た。
「静かね……」
 肩に顔をうずめる。 髪の香りが鼻腔を埋め尽くす。
 それを胸いっぱいに吸い込みながら腕に力を込め。
「そうだな……」
 囁いて、ほっそりした首筋に唇を落とす。
 微かに震える躯。
 薄紅を引いたような唇から零れた吐息が空気に溶けた。


 外は雨。
 静寂を遮ることなく酷く緩やかに流れる時間。
 求めてやまない者を腕に閉じ込め。
 満たされて。
 満ち足りる。



 なんて贅沢な休日。

 

 

 

 

 


管理人の師匠に熱烈ラブコールをして、やっと掲載許可の下りた三編の内の一遍。
時間の流れが目に見えるようです。