春焦がれ

 花梨が、晦日近くの京のまちへ外出したのは、五行の気を高めるためだけでは無かった。
「神子殿、控えておりますので、お出かけになられるのら、お声をお掛け下さい」
 そう云って、日々努めを怠らない人とこうして共に過ごすのもあとわずか。そう思うとつい「お願いします」と云っていた。
「神子様、決戦の時も間近ですので、どうかご無理をなさらずに」
 出がけ間際の紫姫の優しい言葉に、感謝の返事をした時も、その人は静かに低頭して、まるで自分は石ででもあるかのように後方に控えていた。
 その人には分からないように、心の中で溜息をつく。
 こんな鬱々とした気分では、折角の決心が台無しだ! 残された日々を存分に楽しもうと決めたではないか。
「行きましょう、頼忠さん」
 明るい声で振り返れば、その人は漸く顔を上げてこちらを見てくれた。



「もう、怨霊の姿は見当たりませんね」
「全て神子殿が封印されましたので、これで京の気の流れも直に正されましょう」
 敢えて、決戦を控えたこの時にそう云ったのは、この人の優しさなのだろう。
 武骨ではあるけれど優しい人、その優しさが自分の思っていたものと違うと気が付いたのは、いつの事だっただろう。こうして二人で、京のまちを歩いている時も、けして横を並んでは歩こうとしない。最初の頃は、隣を歩いて下さい、と何度か云った事もあったけれど、それが叶えられる事はなかった。理由は至って簡単だった。京には、自分の住んでいた世界には廃れてしまった『身分』というものが存在する。自分から見れば、取るに足らない事だけど、この地に住まう人は違う。勝真やイサトのように軽く垣根を越えてしまう者もいたが、どちらかと言えば彼らの方が珍しい人種で、大抵の者は堅実にしきたりを守っている。
 その中でも、頼忠は最たる者だった。
 武士である彼は、『主』に仕え、主に命を捧げる事こそが、自分にとって最も尊い事だと云う。
 その頼忠にとっての主が、ずっと探し求めていた主が、わたしだと云ってくれた時、とても嬉しかった。その嬉しさの中に別の感情も混じっていたと気が付いたのは、少し後になってからの事だったけど……。
 ふと見上げるとどんよりと曇った空からは、直に雪が降ってくるのだろうという事が見て取れた。
 まるで、今の自分の心を映したような空の色。最後の決戦で見事打ち勝てれば、自分の世界へ還れる。それをずっと望んできたのに、今は――――。
「神子殿、如何なされましたか? 具合がお悪いのでしたら、四条の館にお戻りになられた方が……」
 流石は八葉というべきか、それとも優れた従者というべきか、ともかく頼忠は花梨の僅かな変化も見逃さない人物だという事は良く分かる言葉だった。全ての事に於いて聡い訳ではないのが、喜ぶべき所か悲しむべき所かは分からないが……。
「具合は悪くないんですけど、少しお休みしていいですか?」
 既知の怨霊を全て封印してしまった今、戦うという事もないので、さほど疲れるといった事もない。ただ、身体は重いと感じていたが、それは精神的なものだ。
「承知致しました。そこの小路を入った所に、馴染みの古い寺がございます。そこで休ませて頂きましょう」
「はい、お願いします」
 そう云うと頼忠は、花梨の前を案内して歩いた。さして時間もかからにず小さな寺ついた。簡素な門をくぐり中に入ると、鄙びた寺には不釣り合いな程の、大きな木がそびえ立っていた。
『桜の木……だよね』
 今は冬で花も咲いていないが、その木肌は花梨も良く知っているものだった。
「寺の者に、白湯を貰って参ります。神子殿はここでお待ち下さい」
「あ、はい……」
 花梨が返事をすると、直ぐに頼忠は寺の奥へと向かって行った。
 花梨はその後ろ姿をただ眺めた。直に見ることは出来なくなるだろう、武士らしく逞しく力強い背中を、着衣の下痛々しい創が残る背中を。ふと、その創を見る事となった北山での出来事が頭に浮かびかけた時、頼忠が椀を持って帰ってきた。
「神子殿、これを。身体が温まります」
「ありがとう、いただきます」
 頼忠さんも半分、と云おうかと思ったが、思い止まった。彼は受け取りはしない、主従の絶対的な関係を崩すのを拒むかのように。それよりも、頼忠の気遣いに素直に感謝しようと花梨は思った。
「温まります、ありがとう頼忠さん」
 そう云って笑うと、殆ど表情を露わにする事のない顔が、僅かに綻んだような気がした。花梨はその滅多に見ることの出来ない、笑顔が大好きだった。もっと笑ってくれるといいのにな〜と思う。とても魅力的な笑顔をしているのに、勿体ない。いつだかそう云うと、戸惑ったような貌をされた。その時、立場上だけではなく、感情を表現する事自体が苦手なんだと思った。
 思い出すと、つい笑みがこぼれてしまう。京に来て、半年も経っていないというのに、懐かしくすらある。最初、独り見知らぬ世界に来て、心細かった、怖かった。神子としてある事を懇願され、神子を守り助ける存在だと云われた八葉達には、なかなか信頼されなかった。それでも此処から逃げ出さずにいられたのは……。
 ふいに涙が零れそうになった。

「頼忠さん、弟さん達や従弟さん達と別れられたのは春だと云われましたよね…。桜の季節だったと。その桜はどんな桜だったんですか?」
 花梨は、涙が落ちるのを遮るように、目の前の桜の木を見上げた。自分の育った町の桜とどことなく似ている、毎日通う通学路にある一本の大きな桜の木と。毎年春を告げてくれるその桜。美しく時に妖しく、目を留めずにはいられない薄紅。
 この桜の木は、あの桜の木とよく似ている。
「―――― この桜と、郷里で慣れ親しんだ桜とはよく似ております。それもありこの寺へはよく参ります」
 僅かに間をおき、静かに、だがはっきりとした頼忠の返答の声。その声がゆっくりと柔らかく春風のように花梨の心に沁み入る。この人と共に今見ている桜は、互いの想い出の桜に繋がっている。わたしはこの桜を忘れない、共に過ごした今日を忘れない、この人を忘れないずっと、離れてしまった後も、……ずっと。
「そうですか、何だか、今この桜が満開に咲いている姿が見えます。変ですよね、まだ冬なのに」
 花梨は頼忠の方へ振り向き笑った。
「私にも神子殿と同じように、花の咲く様が見えております」
 いつものように少し低頭し云う様は、本当に頼忠だった。感情を露わにすること無く、唯一意に主に従う者としての言葉。花梨はその事に温かい感情を覚えると共に、心が冷えていくのを感じた。
 この人とは近いうちに別の世界で生きていく事となる。元々、自分はこの世界には異質な存在。京を護り導く事を望まれて呼ばれた存在。役目を終えれば還るのが必定。そう考えれば諦めもつく。今ならこの想いを清浄なる深い水底に沈めてしまう事が出来る。この人が辛い過去を話してくれた、あの北山の泉の底に静かに……。
 あの時、――――あの時、誰にも云わずに来た過去の頸城を打ち明けてくれた事を、好意からではないかと思った。そう願った。背に残る痛々しい創を、その迷いを、自分が癒してあげたい、そんな我儘な想いをいだいた。
 けれどこの人は、あの時も、出会った時も、きっとこれから先も武人だ。唯一人の主に仕え、その意志のままに在り続ける事を誇りとする武人だ。それ以外の想いで自分に接する事はないだろう。主であるわたしは、その有り様を違う方へと勘違いしていた。この人自身の好意もあるのではないかと。

「……頼忠さん」
「は」
 咲き乱れる桜の幻に未だ心を漂わせながら、花梨は愛しい者の名を呼ぶ。相変わらず、誰よりも忠実な従者である頼忠は、花梨を見る事なく頭を垂れたまま返事をする。その様に、まだ希望を捨てきれず微笑を頼忠に向けた顔が、ゆっくりと強張っていくのを花梨は感じた。
「桜は、何時の時代(とき)も、何処ででも、同じようにとても綺麗に咲きますね」
「神子殿の……世界にも同じように咲くのですね、桜は……」
 その時初めて頼忠は顔を上げた。だが花梨の方を見ることは無く、藤色の瞳は、己の心の中に咲く桜を視ていた。

 心臓がどきりとした。
 神子の顔に涙が見えたような気がして。出会ってからこのかた終ぞ見た事のない。他の八葉は見た事があるのかも知れないが、自分はない。だが、泣かない訳ではないのも、知っている。宿直(とのい)で警護に当たったとき、幾度か押し殺したように泣く声を聞いた事がある。いきなり異世界から、生活様式も違えば、誰一人知る者も居ない世界に連れてこられ、神子としての重責と心細さは、自分が郷里の河内から京へ出てきた時のものとは、比べようもないだろう。
 従者にあるまじき思いだと感じながらも、あの時の神子の心情を思うと痛ましくて堪らなかった。朝になれば、常のように、にこやかに笑っている姿に胸が痛くなった。思えばあの頃から、恐れ多くも卑しい想いをいだくようになっていたのだろう。
 それが伏見稲荷で確かな形となり、迷いを断ち切る為に向かった北山では、全く逆の事に……。
 あの時神子に「穢れてなどいない」と云われてどれだけ嬉しかったか。唯一、仕えると誓った主がこの人であった事を、どれだけ身に余る幸せだと思ったか。
 それなのに今の自分は――――。
 共に幻の桜の花を見ている、この時が止まってしまえばいいと思う。京の大事より、神子が大事。神子の願いを叶えたいと思いながらも、京に留まって欲しいと願う。
 餓鬼。
 まさに、自分は飢えた鬼だ。その事を悟られてはいけない、自分は従者であり、神子の八葉なのだから。
 神子と共に眺めた桜を心に刻み、この想い出を糧として、神子の居ない世界で生きていく。例え抜け殻となっても、それが自分のさだめ。
 待っている最後の戦いの地で、神子の為に命を捧げる事が出来たなら、それが至上の幸福。

「神子殿、雪が降ってきそうです。そろそろ館に戻りましょう」
「あ、そうですね」
「椀はそこに置いておいて下さいとの事です」
 云われた通り、椀を簀子縁に置くと、花梨は四条の館へと足を向けた。
 空はいよいよ暗くなり、吐く息はますます白い。
「寒いですね。頼忠さん、手を繋いでいいですか?」
「手をですか? 神子殿、それはお受け致しかねます」
「主としての、お願いです。ダメですか?」
 予想通りの返事に怯むことなく、背の高い頼忠を見上げ、花梨は悪戯っぽく笑って云った。
「承知致しました」
「じゃっ」
 頼忠の気持ちが変わる前に花梨は、さっと手を握った。
「こうすると温かいでしょ?」
「それはそうですが、私のような者が……」
「桜、綺麗に咲くといいですね」
 尚も渋る頼忠の言葉を、花梨は聞こえないとでもいうかのようにぷつりと遮った。
「然様でございますね、きっと春には見事に咲きましょう」
「ですよね!」
 今一度、花梨は笑顔で頼忠を見上げた。珍しく、頼忠も花梨を見て、僅かに口元を緩めた。


―――― 本当は、あなと共に咲き誇る桜を見たかった ――――

―――― 本当は、あなと共に咲き誇る桜を見たかったのです ――――



 ほどなく降り始めた雪は、まだ自分の天下だと云うが如く、景色も心も白く染め上げていった。


何というじれったさ!書いてみて改めて、頼忠さんのじれったさは異常。でもそこが可愛い!
一線超えたら、後は大丈夫というか、結構ガツンと行ってくれそう。というか行ってくれ、でないと花梨ちゃん一人が頑張るのは不憫よ〜。
(2008.04.25)

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