連香後編
ふと肌寒さを感じて目が覚めた。
暦は春に移り行こうとしていたが、まだ朝夕は寒い。ましてや、夜着も着ずに眠ったとあれば掛布の中は暖かくとも、外気に晒された肩が冷たいのも道理。部屋の中にも暖を取る物は何も無い。侍女も誰も今朝は訪れていない。だから朝の早い時間なのだろうと翠慧は思った。寝台の中は暖かい、侍女が訪れるまでもう少しこのままでいよう。 だが ――――。 きっとこれ以上暖かくはならないだろう。どちらかと言うと、寒いと感じているのは心の方だ。目覚めた時に在ると思っていた存在が無くて、急に寝台の中が冷たく感じられた。夢ではなかったのは、肌を見れば分かる。けれど――――。我儘だと分かっていても、祉龍の腕の中で目覚めたかった。腕の中は叶わずとも、傍らで目覚めたかった。 「ははは なんて自分勝手な……」 翠慧は力なく自嘲した。昨日の今頃は、此処を去る算段をしていたのに。あれから一日も過ぎてはいないのに、今は全く逆の事を望んでいる。 余りの変わり身の早さに、ただ苦笑するしかなかった。 「せめて身支度位はきちんとしとこ」 翠慧はまだ少し重く覚めきらぬ身体で伸びをし、寝台から降りた。 部屋着に着替え、冷たい水で顔を洗って漸く身体も朝だと認識したようだ。髪を結い、簪を一つ挿した反対の手で窓を開けると、風に乗って梅の香りが漂ってきた。 「いい匂い」 清浄なる朝にふさわしい、爽やかさを含んだ香り。そう言えば、祉龍の纏う匂いにもどこかこんな清々しさを含んでいるような気がする。 「翠慧、入ってもいいですか?」 噂をすれば、梅花の君の声がした。 「はい」 その声に自然頬が緩むのを禁じ得ず、また返事をする声も弾んでいた。 カタと扉の擦れる音がして祉龍が姿を現す。余り目にする機会のなかった姿に翠慧は息を呑んだ。 ゆったりとした長衣を帯で留めた部屋着に、髪も長く垂らし上辺を少し結んだ出で立ち。普段の鎧姿の精悍さとは全く異なり、それが祉龍の本質なのか、穏やかな笑みで佇む姿は、絵巻物から抜け出た貴人そのままのような印象を受けた。 それは翠慧にとって珍しいものでもなんでもなく、どちらかと言えば極見慣れた装いであった。義父の柳県令はいつもそのような恰好をしていたし、男の普段着としては極ありふれたものだ。それでもつい息を呑んでしまったのは、それが祉龍だからに他ならない。 「ああ、梅の良い香りがしますね」 翠慧が祉龍の佳容に当てられている間に、祉龍は翠慧の直ぐ傍に立ち、窓の外にある梅の木を一度見ていた。そして顔だけをこちらに向ける。朝の光の中で揺らいだ髪は性格を表わすかのように真っ直ぐで艶やかだ。 「ご気分が宜しければ、一緒に朝餉を如何ですか? ご希望の玉子づくしですよ」 「たまごづくし、ですか?」 少し背を屈めて覗き込んできた顔も、眉目秀麗という言葉が実にふさわしかった。女である自分が恥ずかしくなる位に。これで今まで独り身だったというのが、本当に不思議だと翠慧は思った。武人だからだろうか。文官でもあったなら、とっくに――――。 だが、それと玉子とどんな関係があるのか。翠慧は少し現実に戻った所で聞いた言葉に首を傾げた。 「朝餉は玉子が良いと、昨夜貴女が言われましたから」 にこにことした笑顔で言う祉龍に、翠慧の脳裏を昨夜の出来事が駆け巡った。その大部分は今思い出すには耐え難い程恥ずかしい、余計な部分を避けまくって、祉龍が言ったくだりを何とか思い出した。というのは正確ではない、思い出す事が出来たのは祉龍の言葉だけで、夢現の狭間にいた自分が、した筈の返答は憶えていない。だが、しっかり自分の好物を言っていたらしい事は、祉龍の言葉で良く分かった。 我ながら……なんてちゃっかりしているんだろう。この図太さがあれば、何処でも生きて行かれそうだとも思った。 『うわ、ほんとに玉子づくし』 卓子の上に並べられた朝餉を見てみれば、玉子入りの粥、玉子の焼きもの、小さなゆで卵と青菜の和え物といった具合に……。これを祉龍は用意させたのかと思うと、嬉しいのと同時、祉龍の生真面目さを改めて感じた。ちょっとやり過ぎのような気がしないではないが。ま、いいかと深く考えず、目の前の美味しそうな朝餉にも、祉龍にも勧められ翠慧は向かいの椅子に腰掛けた。だが、次の日からも毎日玉子づくしの朝餉が出てきて、祉龍の生真面目さに少しばかり頭を抱える事となるのを翠慧はまだ知らなかった。 『おいし……』 どの菜も美味しそうに次々と口に運ぶ翠慧を見て、祉龍は目を細めた。 朝は余り食が進まない女人が多いと聞くが、目の前の女性にそれは当てはまらないようだ。その意外性もまた祉龍の興味を惹いた。そして翠慧の食が進むのは、きっと好物が並んでいるからだろう、やはり好みを聞いて良かったと祉龍は思った。一方、翠慧が朝から精力的に食べるのは幼い頃からの習慣だった。一日の始めにしっかりと食べておかないと、畑仕事を手伝う時など体力がもたないからだ。 これから先朝餉に玉子が並ぶようになるのは、こういった理由に因るものだったが、互いの思惑はずっと後まで誤解されたまま時を過ごす事となる。 「これからお話をしたい事があるのですが、宜しいですか?」 朝餉の食器が下がり、代わりに湯と茶器を運んで来た侍女から、自ら盆を受け取ると侍女を下がらせ祉龍はそう切り出した。 「はいなんなりと。あ、私がお入れします」 祉龍の手から茶器を受け取ると、翠慧は茶を淹れながら答えた。 翠慧の白い手が、茶を入れた小さな器を静かに祉龍の前に置く。器を持ち上げ茶を一口飲むと、祉龍はゆっくりと器を再び卓子の上に置いた。それと一緒に視線も茶碗に落とされたままで、一向に口を開く気配は無かった。 だがそんな祉龍の様子に気付く事なく、翠慧は自分の分の茶を淹れると、それを存分に楽しんだ。淹れ立ての茶は良い香りがする。朝餉は美味しく、程良く腹を満たし、そして心も満たされていた。窓際のこの場所からは、また庭の良い景色も見える。 梅の木から離れた所には桃と桜も見て取れた。春が深くなるのがこれから楽しみだ。この庭には他にも菖蒲や牡丹も加えて春と夏の花が楽しめる。別の庭には秋と冬の草花があったような気がする。男の独り身の住まいにしては、なかなかの華やかさだ。自分としては、もう少し実のなる木があれば言うことなしだな〜と翠慧は一人考えを巡らせた。 「祉龍様、夏には桃が食べられますね。梅の実はお酒と梅干しとどちらがお好みですか?」 翠慧は今から実の使い道についてあれこれ考えた。 「梅の実がなり、桃が食べ頃となる時分にも、貴女は私の傍にいてくださるという事ですか?」 実の事ばかり考えて、そんな切り返しをされるとは思ってもいなかったので、翠慧は少しばかり驚いた。 「そう言えば、先程仰られたのは何のお話ですか?」 翠慧は話を元に戻したつもりだった。 「貴女が桃の実のなる頃も、ずっとその先も私の傍にいてくださるのかお訊きしたかったのです」 翠慧は恥ずかしくて話題を逸らしたつもりだったが、逆に核心を衝いてしまっていた。 何と答えたものかと、暫し考え倦ねた。いや、考える必要はないのだ。昨夜、祉龍を主と決めたのだから、素直に是と答えれば良い。 分かってはいる、分かってはいるのだが、こういった遣り取りには殆ど免疫がなく、どうにも気恥ずかしさが先に立っていけない。加えて、まさか、こんな正面を切って訊かれるとは思っていなかった。こういった事は、例えば、昨夜のような寝台の中とか、二人梅の咲く庭をそぞろ歩きながらとか、それなりの雰囲気を作ってからの方が良いのではなかろうかと思う。経験の少ない自分でも、そう思う。そして、女の端くれの自分にもそういったものに憧れる気持ちは勿論あった。 今からでも、梅の咲く庭へ誘おうか。そうすれば、白梅の花の下で求婚されたと、なかなかに良い思い出となる筈だ。今のままでは、茶を啜りながらという、長年連れ添った老夫婦のそれに近い。 「あの、庭にでま……」 「私は、貴女を妻に迎えたいと思っているのです。返事を聞かせていただけませんか?」 翠慧の言葉は一歩及ばず、雰囲気などち〜っともおかまいなしの祉龍に先を越されてしまった。 祉龍の言葉は本当に嬉しいが、じーちゃんばーちゃんの思い出決定かと思うと、翠慧はがっくりと項垂れた。 この人は生真面目に加えて天然ぼけかも知れない。うん木瓜の花は可愛いんだけどね、と訳の分からない例えが翠慧の心をよぎる位に。 「だめ、ですか?」 少し不安げな声が聞こえた。 その声にはっとなり項垂れた顔を上げれば、真摯に見詰める祉龍の瞳とかち合った。 「いいえ、祉龍様が望んでくださるのなら私に異存はありません」 慌ててそう答えた。 もう雰囲気がどうのこうのと言っている場合ではない。こういう一直線な所が祉龍が祉龍たる所以なのだと、翠慧も薄々気が付いていた。そしてその祉龍に付いていくと決めたのは他ならぬ自分。我儘をこねくり回しているのは筋違いだ。 「嫌なら嫌とはっきり言ってください。今ならまだ諦めもつきますから」 それでもまだ祉龍には伝わっていなかったようだ。雰囲気がどうのこうのと、自分がうだうだ考えている間を、躊躇っているのだと受け取ったのだろう。また祉龍を誤解させてしまった自分を小突きたいと翠慧は思った。 「祉龍様のお傍にいさせてください。これは心からの願いです。お返事に時間がかかったのは余計な事を考えていたせいです。迷っていた訳ではありません」 「そうですか、良かった」 そう言うと祉龍は椅子の背もたれに、身体を預けふぅと息を吐いた。その姿を見て、翠慧は本当に悪い事をしたと思った。だが、弾かれたように祉龍の視線がこちらに戻ってきた。 「余計な事とは?」 どうしてそんな所には気が付くのか。鋭いのか鈍いのか、翠慧には祉龍という人物が分からなくなってきた。 「大した事ではありません。一緒に梅の花を見ながらお散歩したいな〜と思っただけですから」 これ以上誤解されては敵わないと、翠慧は思い切り笑顔を作った。 「それでしたら今からでも…………あっ、今の話はそこですれば良かったですね。一刻も早く返事が聞きたくてつい……、やはり私は武骨者ですね」 祉龍も気付いたのか、申し訳なさそうに笑った。翠慧はその困ったような顔もまた嫌いではなかった。 「祉龍様、今から行きましょう、梅を見に」 立ち上がり笑顔と共に手を差し出せば、祉龍もにこりと笑ってくれた。 二人して扉の方へと踏み出した時、部屋の外から家人の声がした。 「殿に城より書状が届いております」 「入れ」 一礼をして年若い家人が入って来た。手に持っていた書翰を掲げるようにして祉龍に差し出す。祉龍がそれを受け取ると、一礼をし家人は下がって行った。翠慧も続いて部屋を下がる為扉へと向かった。 「あ、内容は分かっていますから、ここにいてください」 祉龍の言葉に翠慧は再び窓際の卓子の所まで戻り、二杯目の茶を注いだ。 「城からの書状にはなんと書かれていたかお聞きしても宜しいですか?」 祉龍の前に器を置きながら、読み終えたらしく書状を畳んだので問いかけてみた。 「将軍となり暫し経つ故、そろそろ妻を娶ってはどうかと。また良い者がおらぬなら、殿自ら世話して頂けるとも書いてございます」 その内容に翠慧は驚いた。という事は自分がこの邸を辞していれば、祉龍は直ぐにでも別の女人を娶る事になる所だったのか。誰より主君を敬い、忠義に厚い祉龍ならば、この申し出を断わりはしないだろう。それ所か平伏して有り難く承るのではないか。もう少し刻がずれていれば、祉龍の傍らに在るのは自分ではなかった。そう思うと翠慧は、今この刻の数奇なる巡り合わせに心から感謝した。 でも ――――。 ふと何かが翠慧の心に引っ掛かった。 今一度祉龍の言った言葉を反芻する。 さっき祉龍は何と言った? ―― 内容は分かっている ―― そう言わなかったか。事前にこの書状が届くのを知っていたと? それはどういう事か。 翠慧は、凄まじい早さで考えを巡らせた。 つまり、それはこうとも取れる。先程の自分の返事のだめ押しにも使える。また断った場合でも、覆す材料にも成り得る。主君からの言葉と言われれば、翠慧はそう簡単に断る事は出来なかったかも知れない。 まさか ―― と、昨夜あった事を翠慧は思った。 「祉龍様、もしや殿とこのようなお話をされていらしたのですか?」 「ああ、ええ幾度か話題になった事があります」 祉龍は嬉しそうに、にこにこと笑っていた。翠慧には、今だけはその邪気の無さを素直に受け取る事は出来なかった。 「最近の事ですか?」 「そうですね」 「もしや、あのご高名な軍師様もご同席でいらしたとか……」 「ええ、傍においででしたよ」 翠慧はもう確信した。 祉龍自身の策か、軍師の策かは分からないが、これは間違いなく祉龍の一手であったのだろうと。 ここまで来ると、肩の傷近くに付けられた徴も、その一手ではなかったのかと思えてくる。令芳に知られてしまってから直ぐ、家中にも知れ渡ってしまった。自分を見る侍女達の目の微妙な変化。動向を注視されている様相が強くなり、この邸を辞するのがかなり難しくなったのも事実だ。 「祉龍様、あの ――」 「なんでしょうか」 言いかけてはみたものの、相変わらず邪気のないにこにこ笑顔の祉龍に、翠慧は言い淀み、結局その先は呑み込んでしまった。 今更祉龍に謀ったのかと聞いた所で何になろうか。既に自分は傍にいたいと告げた。それは嘘偽りのない本心だ。自分が願った事だ。謀ったのだとしても、ここまでして想われ、ここまでして手に入れたかったのかと思えば、それは女として喜ぶべき事ではないか。 若干の不安など、直ぐに消え去ってしまう筈だ。翠慧は息をすいと吸い込み、今一度自分の意志を固めた。 「梅を見に行きませんか?」 翠慧が祉龍の色んな面を知るのはもっと先の事。そして自分の眼が節穴では無かったという事を知るのも――。
祉龍さんと翠慧さんのお話2話目です。
ただひたすら二人だけの会話で一万字を越すとは思いもしませんでした。その癖、祉龍さん視点が余り描けず、無念です。希望は冒険活劇なのに、内容はバリバリネオロマンスですがな。(別にいいのか、オリジナルだし) 作風も不安定で、模索しているのがありありと出ていますね。この話今後どうなっていくのか、まだまだ私にも分かりません。続くのかも……。もしお目にかかったらチラッと覗いて頂ければ幸いです。 (2008.10.05) ← Fanfiction Menu |