夜来香 ― イエライシャン ―
「ご武運をお祈りしております」
「貴女からそう言われると心強いです。留守を頼みます」 あの人は、馬上から私に優しく笑ってそう告げると、側近の兵数人を引き連れこの邸を後にした。 朝靄の先、あの人の姿が見えなくなるまで、私はじっと佇み見送った。心とは裏腹の行動に軽い嫌悪を覚えながらも、あの人から目を逸らす事は出来なかった。 「お身体が冷えてしまいます、早く中へお入りになって下さい」 何時までも動かぬ私に、侍女が声を掛けてきた。その言葉に仕方がないと、私は邸の中へと歩き出す。背後で門の閉じる音が重く響いた。私のあるべき場所はあの門の外。そう思うのに、足は全く別の方向へと動いていた。 浮かぬ心と足取りで与えられた部屋へ戻ると、隅の寝台が目に入った。さっきまで使われていた事を示すように、寝具が乱れている。他の者の眼に触れてしまったら、と羞恥とも嫌悪ともつかぬ感情に囚われ、私は視界から消し去るように、寝台の四隅にある薄衣を括り付けている紐を乱暴に振り解き、隠した。 そして窓際の椅子にどさりと座り、卓子に顔を伏せた。 何故、こんな事になってしまったのか。 何故、私は此処にいるのか。 日に日に、暗い霧が胸の中を覆っていく。 もう一人の自分が私を急かす「早く」と。 なのに私は此処から動けない、肩に受けた傷ももう殆ど癒えているというのに……。 使命を果たす事も出来ない程溺れてしまった今、自分に出来る事は敬愛する義父の為、此処を去る事だけだというのに……。 のろりと顔を上げれば変則的な模様の格子の窓が目に入る。僅かに開かれた窓から風に乗って入ってきた、開花し始めの爽やかな梅の香りが、今は酷く鼻を突く。 季節がひとつ移りゆこうとしていた。 「失礼致します。傷の手当をしに参りました」 扉の向こうから、耳に馴染んだ控えめな女性の声が聞こえた。 「どうぞ」 そう答えると、声と同じように楚々とした立ち居振る舞いの、自分とそう年の変わらない女性が入って来た。 「翠慧さま、ご気分がすぐれないのですか? お顔の色が……」 私は、僅かにたじろいだ。 揶揄にも自慢にもする程、踏まれてもまた起きあがる雑草並の、前向き思考の持ち主の筈なのに、馴染みのない者に感情を露わにする方ではないのに。たまに感情のままに突っ走ってしまう事があるのは、戒めなければならないと思っているが。 令芳という名の、日々身の回りの世話をしてくれるこの女性は、いつの間にか私の些細な変化に気が付くようになってしまった。気をつけなければと思っていたのに。此処に来てからというもの、決心はすぐに砕け、思考は悪い方へ向いてばかり。上手く演じられている事と言えば、敬愛する義父(ちち)に恥ずかしい思いをさせたくない一身で磨き上げた、言葉遣いと立ち居振る舞いだけ。そして、戒めるべき、激情に流されて行動した結果が、今此処にいるコレ。もう情けなくて溜息も出ない。 「そんな事ありません、いつも通りです。少し身体が冷えた位です。でも、もう温まりました」 憶えた技術を駆使して優雅な笑みを作ってそう言うと、令芳はホッとしたように、持ってきた手箱を卓子に置いた。 「後ろをお向き下さい」 令芳の言葉に私は素直に後ろを向く。腰の紐を緩め、彼女が作業し易いように胸元を寛げた。 「失礼致します」 令芳の温かな指が遠慮がちに私の服を肩の下まで下げた。 「もう、すっかり癒えたようです。今日は薬も必要ないかと思うのですが、如何致しましょう」 穏やかな声に私は安堵を覚えた。令芳は最初の頃この傷を見てよく泣いた。「玉のような柔肌に、なんとおいたわしい事でしょう」と、よよと涙を流した。自分ではあまりよく見えないし、傷を負った事を悲観してはいない。顔ならば、さすがに落ち込むだろうが。この傷の所為で、たださえ少ないであろう嫁のもらい手は減ると思う。が、ぶっちゃけ嫁に行く気はない。どうせ嫁に貰うなら、令芳のように、楚々としていて可愛らしくて、慎ましやかで、良く気が付く娘を絶賛オススメする。私は義父の為に生きられればそれでいい、それが自分の幸福だ。そう思ってきた。今までずっと。此処に来るまでは。 「令芳の思う通りにして下さい」 「承知致しました……あ…」 服を元の位置に戻しかけた所で令芳の動きが止まり、何か言いかけた言葉はそのまま途切れた。 「傷に何かあったのですか?」 「いえ……そういう…訳では……」 令芳にしては珍しく言葉に詰まっている。その様子に何事かと不安になった。癒えていた筈の傷が悪化でもしたのだろうか。それならそれで、まだしばらく此処に……。 うわっ 何てバカな事を、ほんっと我ながら呆れてしまう。 「何か、気になる事があるのなら、はっきり言って下さいね」 背後ですうと息を吐く気配がした後、令芳はゆっくりと口を開いた。 「では――、わたくしには幸事なのでございます」 それを聞いて、私は取り敢えずホッと胸を撫で下ろした。 それならば、もうこの邸を出て行っても、誰も変には思わないだろう。傷の癒えた渡り鳥が、春になれば旅立つのはごく当たり前のこと。敬愛する義父の下へ帰るは、この上なく嬉しい。本当に嬉しい。けれど、胸の奥でチリリと何かが焼けるような音がする。それを諫めるように、私は心臓の上で手をぎゅっと握った。 「失礼ながら、翠慧さまは殿の寵愛を賜られたとお見受け致しました」 「いま何て――――?」 私は愕然とした。何故そんな事が令芳に判ってしまったのか。 寝台は誰の目にも触れていない筈。 あの人は、誰にも会わなかったと言っていた。 なのに、何故――――。 「申し訳ありません、出過ぎた事を申しました」 余程私の声は狼狽していたのか、令芳は低頭していた。 「いいえ、私の方こそ声を荒げたりして、驚かせてごめんなさい。でも、何故そんな事を思ったんですか?」 私は、出来るだけ心を落ち着かせ、冷静な顔を作った。 「傷の横の方に、その……緋色の御徴がいくつか……」 何故そんな簡単な事に気が付かなかったのか。私は恥ずかしさの余り握った拳を更に強く握った。 「お気を悪くなさらないで下さいませ。わたくしは嬉しいのでございます」 軽く混乱をきたしている私には、令芳の言っている事がさーっぱり理解出来ない。 一体、何が嬉しいというのか、他人の……そ、そんな事が。 「わたくしは憂えていたのです。殿は、常々『武人に女人は不要』と仰っておいででした。ですが、この度将軍におなりになられたのに、滉家の血筋が絶えてしまうのは、あまりにお寂しいことです。ですから――――ですから、翠慧さまが奥方になられたら、こんなに喜ばしい事はございません」 知らなかった。 あの人が独り身だったなんて。年齢的にも身分的にも、妻がいない方が不自然だ。類い希なる勇猛振りで多くの武勲を上げ、忠義にも厚く主君の覚えもめでたい。容姿も身の丈八尺余り、きりりとした面持ちの、美丈夫という表現が実にふさわしい。持ち込まれる縁談や、自ら近づく女人も少なからずいた筈だ。私は当然のように、妾の一人や二人は居るのだと思っていた。 だから、昨夜のあれは、ただの情けだと――――。 「このような事を申して、お気を悪くされたのでしたら、本当に申し訳ございません」 石像のように動かず、喋る事もしない私に、令芳は気分を害したと思ったようだ。 そうではない、とこの口が告げようとするのを、私は必死に押し止めた。 私にはそんな資格などない。県令の娘ではあるけれど、養女だ。生まれて育ったのは下級の武家。ましてやつい先日まで、義父の為にと私はあの人の命を狙っていた。 この地へ向かう道中、運悪く盗賊と出くわし、昔取った杵柄でなんとか三人は伸してやったものの、腕は鈍っていないと心の中で高笑いしていた所を、隠れていた残りの一人に斬りつけられて傷を負った。盗賊と格闘してぼろっぼろの姿で道に倒れ、走り去る盗賊を眼(まなこ)に焼き付け、いつか必ず復讐をと拳に誓っている私を見つけたのはあの人。年頃の娘にあるまじき醜態に、いっそ気を失いたいと思ったが、あの人はその場で軽く手当をしてくれた上、どこの馬の骨とも知れない女に礼儀正しく名を名乗り「我が邸で養生を」と申し出てくれた。 またとない好機、殺す機会を窺う為にこの邸に入り込んだというのに。あの人の人柄に触れるにつれ、私は自分の使命を忘れていった。 戦に於いては勇猛果敢、けれど敵味方を問わず義を重んじる。実に清廉な人柄で、配下の兵からも家人や領地の民からも慕われていた。 このような、優れた人物を私憤で殺めても良いものなのかと――――。 ――そう、私憤だったのだ。 乱世の今、戦なんてそこかしこである。敵将だからと言って悪人という訳ではない。ただ生きる為に、主君の為に、民の為に、武人は戦う。戦えない民の代わりに戦うのだ。私もそう思っていたし、生家の父に何度もそう教えられた。 なのに近しい人の理不尽な死に直面して、行き場のない憤りと悲しみは、全て敵の将であるあの人に向いてしまった。 この身は、心は、なんて愚かで卑しいのだろう。 「それは、私ではなく祉龍様が決められる事だと思います」 冷えていく心とは裏腹に、私の貌は柔らかく笑みを刻んだ。 「では、もし殿が望まれたら、お受けして頂けるのですね?」 令芳の邪心の欠片も見当たらない笑顔に、私は袖で口元を隠し曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。 ※-※-※
細い新月が浮かんだ宵は昏く、自分にふさわしい出立の日だと思った。 あの人が、出陣してから十日余り。ようやく今日、この邸を辞する事にした。あれから十日余りも、私はこの邸にいたのかと思うと苦笑するしかなかった。ぐずりぐずりと理由をつけては自分をごまかしてきた。だが、もうすぐあの人は帰って来るだろう。家人達の動きにそんなような気配がする。もう引き延してはいられない。邸の者が寝静まるこの時刻なら、抜け出す事は容易だ。ここしばらくの暮らしで、どこを通って行けば誰にも会わず表に出られるか、目を瞑っていても苦労はしない程度には憶えた。 「黙って出ていく非礼を、どうかお許し下さい」 一度小さく息を吐くと、僅かばかりの荷物を持ち、私は扉の方へと歩き出した。 扉に手を掛けた時、その向こうに人の足音がした。足音はどうやらこちらへ向かっているようだ。夜中だというのに早足で歩いて来るのが分かる。窓越しにその人物が持っている手灯籠の灯が大きく揺れながら移動しているのが見えた。 「翠慧さま、急ぎの用向きにて、失礼致します」 令芳とは違う侍女の声だった。 私は慌てて上着を脱ぎ、足音で目が覚めた風を装って侍女を迎え入れた。 入って来た侍女は二人。先に入って来た侍女は文箱を抱え、後から入って来た侍女は、両手で抱える程の大きな木箱を持っていた。 「殿より、翠慧さま宛の文が届きましてございます」 「私に? こんな刻限にですか?」 「直ぐにお渡しするようにと仰せつかっております」 その言葉を、私はにわかには信じ難かった。あの人から文など貰った事はない。ましてや戦に出ているこの時に、文など。けれど、自分に向かって差し出されている文箱を、そのままにしておく訳にも行かず、私は文箱を受け取った。 「これはどちらにお置き致しましょう」 文の事ばかりが気になって、木箱を抱えた侍女の事をすっかり忘れていた。 「それも私に?」 「然様にございます」 重そうにこそしていないが、女が持つには些か大きい。私は、すぐ近くの卓子の上へと促した。 「こんな夜中に、文なんて……」 それだけで、この文は重要なものだと察しがつく。 私は二人の侍女が下がった後、小さな灯の下、じっと文箱を見つめ考え倦ねた。開けるべきかどうか。否、このまま開けずに出立するべきだ。 漆黒の上品な光沢、蓋の隅に浮かび上がるように、花をかたどった細工がしてあるその文箱は、素人目にも、高貴なる者のみが触れるのを許されるものだという事が分かる。自分が触れて良いものではない。 これを開けてはいけないと心では抵抗しつつも、指はするりと紐を解き、中からそっと書簡を取り出していた。 一体何が書いてあるのか。もしや自分の目的が露見してしまったのか。それならばそれで、あの人の帰りを待ち、潔く死を賜ろう。 書簡を手に取った時には、そんな風に決意は変化していた。 だがそこには、思っていたのとは全く違う文章が書かれていた。 ―― この文が届く頃には、邸に戻る事が出来ましょう。一緒にお送りした花は“夜来香”と言います。南の地で咲く可憐な花です。先日の貴女と同じような良い香りがしたので、貴女のお心の慰めになればとお送り致します ―― 「夜来香(イエライシャン)?」 その名前に何かとても惹かれた。自分のような匂いがする花とは、一体どんなものなのだろう。 私は急いで木箱を開けた。 「これが夜来香……」 木箱にあったのは、蕾と、いくつか開花した花を付けたたおやかな一蔓。 根元の方には湿った布が巻き付けられていた。 蓋を開けたばかりの所為か、甘い香りが鼻腔を襲った。だが次第に強い香りは薄れ、部屋の中を仄かに良い香りが漂った。 少し甘みを含んだ香り。 「私、こんな良い匂いじゃないと思うけど……」 けれど、純粋に嬉しかった。 花も清楚で可憐だ。五つの細い花弁を持つそれ。色は淡い黄色で芯の辺りは葉のような黄緑色を帯びている。 その花を見つめている貌が、綻んでいるのが自分でも分かった。 いつまでも眺めていたい。あの人が贈ってくれた花。ただそれだけで、身体の隅々まで暖かい何かが沁み渡っていくようだ。 どれだけ夜来香を眺めていたのか、それに囚われていたのか。 私は、再びこちらに向かう足音がしていた事に、全く気が付きもしなかった。 「祉龍さま!」 やや乱暴に開けられた扉の所には、あの人が立っていた。 「ただいま、戻りました」 そう言って笑った貌は、少年のようだと思った。そして、自分の眼が捉えた記憶があるのはそこまでだった。 「良かった、間に合って」 その言葉にはじかれたように我に返った時には、何か温かいものに包まれていた。それがあの人の腕の中だという事に気が付くまで、随分長い時が流れたような気がした。そしてもう一つ気付いた事があった。戦帰りのわりには着物が汚れていない、汗や血の匂いもしない。ああ、城に寄って帰られたのか。そんな事をぼんやりと考え、この人の胸の温かさに、腕の中の心地よさに、このまま何もかもかなぐり捨ててしまいたくなった。 「お離し下さいませ」 自分に言い聞かせるように、強い力であの人の胸を押した。弱い女の力に逆らう事も無く、腕はほどなく緩められた。 「無礼を致しました。貴女がまだ起きておいでだと聞いて、飛んで来てしまいました」 非礼を詫びるように一歩下がり再び見えた貌は、申し訳なさと、戸惑いと、笑顔とが入り混じった複雑なものだった。その表情に、胸の奥がまたチリリとした。 「いえ、私こそ申し訳ございません。驚いただけですので、どうかお気になさらないで下さい」 「そうですか、良かった。厭われたのではないかと思いました」 将軍とは思えぬ喜々とした笑顔に、私の胸は更に痛んだ。 す、と息を吸い込み恭しく礼をとって、私は遅くなってしまった挨拶をした。 「祉龍様のご無事のお戻り、何よりにございます。また、文と花を賜りまして、私のような者には、勿体ないお心遣いにございます」 「夜来香(イエライシャン)は気に入って頂けましたか?」 「まことに、小さき可憐な花と芳しい香りの、得難き花かと存知ます」 「気に入って頂けたという事ですか?」 「御意にございます」 少し低頭してそう言うと、溜息のような息を吐く気配がした。 「そのような堅苦しい物言いは、よしませんか? 貴女は大切な……客人です。そのように謙る必要はありません」 私は優しい思い遣りを嬉しく思う同時に、酷い罪悪感に囚われた。そして、垣間見えた言葉の僅かな間が気になった。 「祉龍様の思し召しとあらば、今後はそのように」 「…………」 何か言いたげなあの人の言葉を待ったが、夜来香の香りだけが、物音一つしない静かな部屋の中を流れるばかりだった。その沈黙に耐えかねた私は、口を開く。 「戦にてお疲れでございましょう。早くお部屋にお戻りになり、お休み下さいませ」 でなければ、貴方を目の前にしていては、私の決心はますます鈍る。 「―――― ここで休ませて貰ってはいけませんか?」 柔らかな、いつもより少し低めの声は聞こえたが、何を言ったのか理解する事を頭は拒否していた。 「いけませんか? 翠慧…」 名を呼ばれたのは分かった。それが合図だったかのように、思考は再び動き出した。けれど――――。 「いえ、ご自分のお部屋にておやす……」 「私がお嫌いですか?」 遮るように重なった言葉は、私にとって最も聞きたくない言葉だった。是とも否とも、今の自分は答えられない。 「私が嫌いなら、はっきり言って下さい、翠慧。あの夜は、戯れだったと。私を憐れんだだけだと」 「祉龍様……」 貴方程残酷な人を私は知らない。気持ちを正直に言えば、貴方を傷つけないで済む。でも、そうしてしまえば私は、私を許せなくなる。大恩ある義父を裏切る事になる。 「いつまでも黙っておられるなら、是と判断します。宜しいですね」 この人らしからぬ強引な言葉に驚き貌を上げたら、自分を見る沈痛な眼差しがそこにあった。 そんな貌をさせたい訳ではない。 「祉龍様は本当の私をご存じありません。私は、貴方様にふさわくありません。ですから、ご容赦願います」 これ以上は駄目なのだと。 「何故ふさわしくないと、言われるのですか? 理由を教えて下さい」 どうして、引き下がってくれないのだろう。普段は、こんな風に相手を追いつめるような事を言う人ではないのに。 「それは申せません。お許し下さい」 「では、代わりに私が言いましょう。貴女は本当は、かなりそそっかしくて、急ぐと扉が開く前におでこを扉にぶつけていたり、他に誰も居なければ落ちた菓子もふぅふぅと息を吹いてそのまま食べてしまうような人だからですか? それとも私の命を望んでおいでだったからですか?」 一体この人はどこでそんな自分を見たのか、激しく問いつめてみたい。そして恥ずかしくて堪らない。それよりももっと大事な事まで知られていたのかと思うと、心臓を針で刺されたような痛みを感じた。流石は音に聞こえた滉将軍か。 「ご存じでいらしたのなら、もうこれ以上申し上げる事はございません。遺恨を残さぬよう、ここでお手討ち願います」 それ以外に、もう私に許された言葉はなかった。そして安堵した。これで、ずっとこの人を騙していた後ろめたさから解放される。時に呼吸すらままならない程の息苦しさから解放される。 この人の手に掛かって死ねるなら、それは私にとっての幸福だ。 私は跪き静かに目を閉じて、その時が訪れるを待った。 揺らいだ空気と衣擦れの音で、貴方が膝をついたのが分かる。今貴方の瞳に映っている私はどんな貌をしているのだろう、ちゃんと穏やかな微笑みをたたえる事が出来ているだろうか。この人の気持ちを煩わせないよう、ちゃんと……。 私の顎に触れた指は思っていたよりも冷たい。 次に私の肌に触れる剣はもっと冷たいだろう。 「…っ」 何をするのか、この人はっ! 私を殺すどころか接吻けなど――。 嬲るつもりなのだろうか、その後で……。いや、そんな事をするような人ではない。それでも、これを享受は出来ない。 私は身体を動かし必死に逃れようとしたけれど、歴戦の雄であるこの人には到底敵うものではなかった。 時間の感覚などとうに無くなった頃、ようやく離れたこの人の、控えめな声がした。 「詫びは言いません。私の話を聞いて貰うには、こうするしかありませんでしたから。私を敵と憎んでおいでですか? 私の事が許せませんか?」 そんな事あろう筈もない。 「いいえ、今はただ私の愚かしさを恥じ入るばかりです」 「そうですか、良かった。では、私の話を少し聞いて下さい」 私に椅子に腰掛けるように促すと、祉龍様も向かいに腰掛け、静かに話し始めた。 「回廊の、低い塀を颯爽と飛び越えられたり、あれは実に見事な裾捌きでした。躓いてこけそうになった時も、手から離れた盆を、くるりと身体を回転して見事受け止められた。その時の嬉しそうなお顔。私は、“本当の貴女”がかなり好きなのです。良家の子女然とした貴女も素敵ですが、童女のようなあどけなさを残された姿もまた可愛らしい」 それは一見褒め言葉のように聞こえますが、祉龍様、ぜんぜんっ褒めてませんよ? 嫁に行くには不利な条件その一を、ズバッと指摘されて私は軽くへこんだ。 ついでにそういう部分が好きだという事は、けっこう変わったお好みですよ? 祉龍様。 もうこの際、さらりと流してしまいますけど。 「柳県令にもお会いしてきました」 流石にその言葉は聞き流せなかった。 「義父に会われたのですか!?」 一体いつですか!? 祉柳様。戦にお出になる時と登城される時以外は、この邸にいらしたのに。 「ええ、貴女の事をとても心配しておいででした。自分の所為で、此処へ来たのではないかと」 私は涙が出そうになった。勝手に飛び出して来た私を、そんな娘は知らぬと言われても仕方のない私を……。 「英明な方ですね、お義父上は。そしてお優しい」 「仰る通り、素晴らしい義父です。私の誇りです」 衣擦れの音がして、俯き涙を堪えている私の視界が更に暗くなった。膝の上に置いている方の手に、大きな手が重なる。そして優しい声がした。 「乱世に於いては、敵将の命を狙うなど珍しくもない事です。どうか気に病まないで下さい。もう忘れて下さい。そして今一度問います。私の事がお嫌いですか?」 ごめんなさい、お義父さま。私は、もう、心を偽る事は出来ません。 「祉龍様のお心のままに」 それだけ言うのが精一杯だった。 「いいのですか、そんな言われ方をすると、私は都合の良い解釈をしますよ」 たった今、自分の主はこの人と決めたのだから、従うのが当然の事。 「お心のままに」 決意を込め貌を上げると、何度も見た事のある優しい瞳と目が合った。 「では、夜来香の香りが消えぬ間に、同じ香りのする貴女を懐(かいな)に抱いて眠りましょう」 言うや否や、あなたは私の足をすくい抱き上げてしまった。驚きはしたものの、それは封じ込めた心の奥で望んでいた事。 薄衣を降ろし閉じられた空間の寝台の中、夜来香の甘い匂いがするのはきっとこの人の方だと私は思った。
夜来香は日本でも読みは“イエライシャン”だそうです。昼も香りますが文字通り夜に最も香りを放つ草木で、真夜中から早朝にかけて幽玄な香りを放つのだそうです。
なんという萌える花! どうしても使いたくて、こんな話が出来上がりました。本来なら長い話なのですが、美味しい所だけをかいつまんだので、分かりにくい話かと思います。(^-^;) 夜来香(イエライシャン)の雰囲気だけでも感じていただけたら本望です。 (2008.09.14) ← Fanfiction Menu |