あさつゆ
柊は嘆息した。
「姫、どうか泣き止んでください」
柊は腕の中でずっと泣きじゃくっている千尋を、優しく抱き留めたまま立ち尽くしていた。
「…姫……我が君? 私はここにいます、どうか……姫…」
柊が優しく声を掛けても、千尋は彼の服を握りしめ胸に顔を埋めたまま動かなかった。柊は諦めたように、掴まれていない方の手で千尋の髪をそっと撫でた。
余程急いで来たのだろう、髪は長く垂らしたまま結い上げることもしていない。彼女の素直な髪は、結い上げるのが勿体ないほど、たおやかな柳の枝のように風に揺られる。だが今は、しっとりと湿り気を帯びていた。髪がこんなになるまで、彼女は朝靄の中を走って来たのだろう、自分に逢いに。
柊は千尋に申し訳ないと思った。だが、それ以上に自分に向けられる真っ直ぐな愛情が心地よく、もっと困らせてみたいとも思った。
「麻薬のようですね、あなたは……」
柊は愛しい少女の髪に口づけた。その時ぐらと腕の中の少女が崩れかけた。慌てて抱き留める。何事かと、顔を覗き込んでみれば――――。
安堵とも溜息ともつかぬ息が溢れた。
「まったく…あなたには驚かされることばかりです」
一度千尋の呼吸が規則正しい事を確認すると、柊は器用に抱き上げ、室の隅の自分の褥へと彼女を横たえた。僅か数瞬前までは自分の胸で泣きじゃくっていたというのに、今は身体を動かしてもピクリとも反応しない程深い眠りに落ちている。
余程安心したのか、余程疲れているのか……。
後者の度合いが大きいのだろうと柊は思った。
千尋が中つ国の王に立ってから一月(ひとつき)。
元は豊葦原の生まれとは言え、何も知らぬまま多感な時期を異世界で過ごし、あげく無理矢理再び中つ国に引き戻された。
そして、そのきっかけを作ったのは誰でもないこの自分。その後、彼女がどんなに苛烈な道を歩んだかは、詳細は知らないが、というより記憶には全くないが、自分は良く識っている。どんな道を辿るか識っていて、尚、彼女を迎えに行った。全てが終われば、彼女は祝福された王となる。ただその為だけに、自分は生かされている。アカシャの示す未来を甘んじて受け入れるつもりだった。
なのに彼女は、黄泉比良坂を独り走り抜けた。愚かな取るに足らぬ一人の下僕のために……。
「私のことなど捨て置き、そのまま王になられれば、このような苦労はなさらずとも済んだものを……」
柊は、褥の端に腰を降ろし、涙の跡を拭うように、そっと指の背で千尋の頬を撫でた。
生粋の王族とは言え、次期王は一ノ姫と決まっていて、二ノ姫の彼女は幼い頃、その髪と瞳の色から異形と臣下からも疎まれていた。一ノ姫無き今、王となるのは彼女をおいて他にはいない。覚悟をして豊葦原に帰還したのは他ならぬ彼女自身。だが、慣れぬ事の連続で、彼女の心と身体への負担は如何ばかりか、想像に難くない。
時を戻らず、皆に認められた後祝福された王となっていれば、彼女は今のような苦労をする事は無かった。咎人も同然の自分を傍に置こうとしなければ、今すぐにでも祝福された王となれるだろう。
なのに彼女は、それを頑なに拒む。あの狭井君に楯突いてまで……。
身に余る果報。
自分自身が痛いほど感じている。
忍人などは、「お前が消えれば万事解決だ。その手助けならしてやってもいい」などと言う。同門の友とは思えぬ辛辣な物言いに、半ば呆れ半ば感謝しつつ、いつものように曖昧にかわした。
誰に言われずとも承知している。
それをしないのは――――私の欲深さ故だ。
絶対に手に入らないと諦めていたものが、相手の方からこの手に堕ちてきた所為だ。
「手放すには、あなたは余りに甘美過ぎる」
薄く開かれた唇から溢れた吐息が、誘うように柊の指を撫でた。
今も、いや以前から欲は深くなるばかり。
あなたが心ゆくまで休めるように、此処で見守りたいと思いながらも、その瞳に映る自分を見たくて、あなたを抱き起こしたくなる。
それどころか、もっと非道い事も思っている。
自分を焦がれるあなたの涙。
胸を締め付ける痛みと、それを遙かに凌ぐ甘露。
あなたは知らない、私がそんな事を思っているなど。その涙が、どれ程男を駆り立てるかも……。
そして、その先――――。
「ひい…らぎ……」
「姫、私はここに」
探るように動いた指を、優しく握った。
その声に安心したかのように、瞳の蒼が見える前、柔らかい笑みが溢れる。
その後、蒼の瞳が自分を捉えた時、どれ程の幸福が待ち受けているのか、思うだけでも心が震える。
だが、しどけなく横たわっていても、その笑みの神々しさに、自分の邪念など一瞬にして露と消えた。
巫(かんなぎ)の力とはこれ程までのものなのかと、改めて思う。
「柊、約束したのに……」
「どの約束でございましょう」
僅かに残っていた邪念がそう告げた。
次に訪れる、困惑と戸惑いの表情(かお)が魅たくて。
「忘れたの? 黙ってどこにも行かないって」
「忘れてなどおりませんよ、我が君」
「じゃあ、どうして黙って行ったの?」
今回ばかりは、自分の思惑とは違っていた。柳眉に刻まれた悲しみが見たかった訳ではない。
「確かに急に出掛けなければならなくなりましたが、伝言は残しました。届きませんでしたか?」
返事は訊かずとも、柳眉の悲しみと、更に、引き結ばれた唇で、容易に知れた。
伝言を託された者がうっかり忘れたのではなく、“伝えなかった”のだろう。
「そうでしたか、申し訳ありません。私が伝え忘れたのでしょう」
だが、柊はわざわざそんな理由を千尋に告げる事はしなかった。
ただでさえ自分の事で心労の多い千尋に、言える筈などなかった。むしろ感謝すべきだ。でなければ、千尋はこんな風に自分に飛び込んでくる事は無かっただろう。
「それより姫。もう少しお休み下さい。此処なら無粋な者はやって来ません故」
千尋の疲労が気がかりなのも、このまま暫く共に居たいのも、どちらも正直な今の願いだった。また自分の私室が、千尋にとって心置きなく休める場所であろうという事も、確かだった。
避けようのない用件のある者以外、柊の私室へやって来るような物好きはいない。師君である岩長姫、或いは、同門の友人の風早でもない限り。わざわざ、橿原宮の重臣の機嫌を損ねるような真似をする者など――――。
「……柊」
千尋は上体を起こし、柊の瞳を覗き込んだ。
「柊が忘れたんじゃなくて、わたしに伝えられなかったんだよね……ごめんね。わたしが至らない王なせいで」
柊は僅かにたじろいだ。
どこまでこの姫は、私を――――。
柊は自分でも気が付かないうちに、千尋を抱き締めていた。
「我が君、それは誤解にございます。本当に私が伝え忘れたのです。私はこれでも、重用されているのですよ。此度も、私でなければ務まらぬと、師君の立っての願いで出向きました」
柊が、中つ国にとって必要な人間であるのは事実だった。でなければ、いくら千尋の、王の願いでも、国にとって益とならぬ人間を置いておくほど、政の世界は甘くない。
視る事は出来なくなっても、星の一族として引き継いだ知識と術は、大いに役立つ。軍師として優れているのも、周知の事実だった。また、常世の国の内情を、柊程詳しく知っている者も、今の中つ国にはいない。
「――――でも」
千尋は、柊の温かさを確かめるように、顔を胸に押し当てて呟くように言った。
「私の言うことは、信じられませんか?」
「そんなことない! 柊がいなければ、こんなに早く常世との話し合いの席を設ける事は出来なかった」
声を荒げて、千尋は柊の顔を見上げた。
「嬉しい事を言って下さいますね。我が君が私を信頼していて下さる限り、私は身命を賭してこの国にお仕えいたします」
「……国に? わたしじゃなくて、国の為?」
王とも思えぬ発言に、柊は苦笑した。
だが、王である前に、今の千尋は一人の少女だ。愛らしくも、愛おしい。たった一人、自分が心から欲する少女。
遠い昔、未来を識る力の所為で、周囲から奇異の目で見られていた自分に笑いかけてくれた、ただ一人の……。
あの日から、この少女の為だけに在りたいと想い続けて来た。
「では命じて下さい。あなただけの私でいろと」
隻の眼で真っ直ぐに蒼の双眸を見つめると、驚いたように少し見開かれ、頬は桃の花が開くように淡く染まっていった。
そして一度瞳を伏せ、躊躇いがちながらも、形の良いふっくらとした唇が動いた。
「わたしだけの柊がいい」
「承知致しました、……千尋」
「…! 卑怯だよ、柊、名前で呼ぶなんて!」
桃の花のようだった頬は、椿のように真っ赤になり、白い指は柊の服を強く握っていた。
「いけませんでしたか? いつか我が君が名前で呼んで欲しいと仰られたのを思い出して実行したのですが」
しれっと言ってのける様が、千尋は愛しくも憎らしかった。
「真名は軽々しく言うものじゃないって、柊が言ったんじゃない」
嬉しいのを通り越して恥ずかしくなったのを、千尋はそんな言葉でごまかした。
「今は良いのですよ。此処には我が君と私しかおりません。ですが、我が君が厭われるのでしたら、もう二度とお呼び致しません」
唖然とした表情で、自分を見つめてくる顔もまた、愛しくて堪らないと柊は思った。
千尋の色んな表情が見たい。
自分にだけ許してくれるのだと自惚れたい。
蜘蛛の巣に掛かった蝶のように、絡め取られていくのは自分だとしても。
「嘘をつきました。我が君、その名を呼ばせて頂ける名誉を、どうか私から奪わないで下さい」
柊の最も好きな、蕾が綻ぶような微笑みが、彼の心を柔らかく包んだ。
策を労したつもりが、易々と堕ちていたのは柊。そんなイメージで。
柊は独占欲がハンパなさそうです。
(2008.09.01)
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