星 合 い

 夏の夕は長い。
 とは言うものの、中つ国には夜空を照らす無粋は人工灯はない。あちらにいた時はまだ、夜という印象は持たなかったけれど、ここ橿原宮はすっかり夜と言ってよい暗さだった。
 今日は官人達も早めに努めを切り上げた。何か、祭りとか、いや祭りではない。祭りならば、恐らく自分にもその旨必ず知らせがある筈だ。
「何て言ってたっけ…」
 千尋は、まだ慣れず、落ち着くという状態には程遠い政務の疲れで、官人達の話の内容を禄に聞き取れなかった。ただ、声が弾んでいたのは分かった。だから、楽しい事なのだと思う。普段なら、何の事か自分から話の輪の中へ入っていく所だが、今日はそのタイミングを逃していた。
「もう寝ようかな」
 夕餉も湯浴みも終わった。采女も下がった。
 今日は“約束”もない。
 千尋の足は自然と“約束のない相手”が居るであろう、別棟の書庫へと向いていた。だが、書庫の近くまで来たとき灯一つ漏れ見えない様子から、誰もいない事が分かった。
「柊、また天鳥船にいるのかな」


 高千穂峡の遺跡として、永く大地に埋もれていた天鳥船を、この橿原宮へと移動させたのはつい先日の事。
 常世の国を浸食していた禍日神であった黒龍は、人知れず再び永の眠りについた。それにより、常世は徐々に以前の生気を取り戻し、常世の占領地となっていた中つ国の地も、ほぼ返還の約定を交わすところまで漕ぎ着けた。もう天鳥船を必要とする理由は無かったが、天鳥船の磐座に祀られている四神のひとつ朱雀は、やはり正しい形にしておくのが上策との柊の進言もあり、高千穂へと千尋と柊が向かったのは五月の事だった。
 そこで再会した日向の一族、自称海賊の頭領、朱い翼を持つサザキはわたしのことなんかちっとも憶えていなくて、分かっていたこととはいえ淋しかった。一年近く、辛い戦いを共にした仲間だったけれど、柊の命を助けたい、彼を既定伝承(アカシャ)に囚われた運命をから救い出したい。その一心で、わたしは柊と出会った地点まで時を遡ってしまった。
 だから、あの戦いの日々をサザキは知らない。
 不変だった筈のアカシャが示していた未来が変化してしまったから――――。
 それでも、サザキはやっぱりサザキで、からりとした大らかな(というより大雑把な)性格の彼は、黒龍だの自分達の根城は空を飛ぶ船だのの、突飛な話をすんなり受け入れてくれた。そりゃあ、目の前で朱雀が姿を顕わし、遺跡だと思っていたものが空に浮かび上がれば、信じる他ないけど――。
「みんながサザキみたいに、物わかりが良ければいいのに……」
 千尋は、近くの樹に背を預けて大きく溜息をついた。そこではたと気が付いた、自分が天鳥船に向かっていることに。そこに柊がいるとは限らない。
 それでも、橿原宮の私室より、よほど居心地が良く馴染み深い天鳥船へと、そのまま歩を進めた。

 星明かりの下、道すがら頭の中を巡るのは、柊のことばかり。
 本当に自分のやってしまったことは、正しかったのだろうか。時間が経てば経つほど、その疑念は大きくなっていた。
 常世の国とこの中つ国にとっては、間違いなく良事だった。

 けれど柊にとっては――――。

 千尋は、足を止め目の前にそびえ立つ、巨大で所々大きく欠けた半球の天翔る船を見上げた。
 懐かしい入り口をくぐり、高い天井の通路を堅庭へ向かって歩いた。柊が居るであろう、書庫ではなく。
 扉のない大きな入り口を抜けると、真ん中辺りに東屋があり、その向こうには満天の星空があった。
 此処にはたくさんの想い出がある。
 苦しい旅を共にした、大切な仲間達の。
 数多の楽しい想い出も、悲しい想い出も、この天鳥船と共に。
 そして、柊との大切な想い出も……。
 例え記憶を持っているのは自分だけだとしても、身を持って体験してきた事。


 堅庭に足を踏み入れた視線の先、少し離れたこの位置からでも、そこに佇むのが誰かはすぐにわかった。
 虚空を見つめるように顔を上げ、その隻眼はうすく微笑っているようにも、どこか悲痛な色を帯びているようにも見えた。
「柊、ここに……」
 愛しい者の傍に駆け寄りたかったが、足が動かなかった。
「柊は幸せなんだろうか……この豊葦原で……」
 心の奥、ずっと気に掛かっていたのはそれだった。
 予想はしていたが、柊に対する、王都橿原宮の人々の視線も態度も辛辣だった。事情を知らぬ者の態度としては当然なのかも知れないが……。傍目には、中つ国の次期女王と臣下をそそのかし、むざむざ死に追いやった張本人。その上、あろうことか敵国の常世に降ったとなれば、致し方ないのかも知れない。その内側の事情を知るのは、星の一族の末裔であり未来を識る事の出来る柊のみ。同門の友である風早や葛城将軍ですら、預かり知らぬ事。

 それでも自分にとっては、酷くやるせない。
 他に道は無かったのだと、誰彼構わず叫びたくなる。
 アカシャは覆せないと承知の上で、識ってしまった未来に打ちひしがれながらも、柊は一縷の望みを掛け一ノ姫と羽張彦と共に黒龍に立ち向かった。伝承通り、ある意味主でもある次期女王と大切な友を失い、自身も傷つきながらも、それでもまだ柊はアカシャに抗い続け…………続けて、悉く打ち砕かれ、彼の心はアカシャという檻から抜け出る事が出来ず、けして光の届かない常世という深い水底に堕ちた。

 ――――にも関わらず、柊は自分の意志で、再び中つ国に戻ってきた。そこで待ち受けているであろう、自分の運命も顧みず、唯、王となるものの助けとなる為に。

 今の柊は、理解して貰うのに時間が掛かるのは承知の上だ、と言って笑うけど。
 その笑顔が欲しくて、失いたくなくて、哀しい微笑みと共に閉じられた蒼い瞳を心に抱き、真闇の黄泉比良坂を独り走った。
 柊と出会った“あの時間と場所”へ向かって……。


 ふと千尋の心を撫でるように夜風が通り過ぎていった。


 なんて我儘なんだろうと思う。
 でも、好きという気持ちは止められなかった。あまりにも気付くのが遅すぎて、失うと知った時、散り散りに砕けそうなくらい心が痛くて、好きだから痛いんだとわかった。わかった途端、気持ちは激流となり溢れ出て渦を巻き、自分でもどうする事も出来ないまま飲み込まれていた。

―― 柊が好き ――

 あの時、自分を動かしていたのは、たった一つ、それだけ。
 柊の為とかじゃなく、わたしの我儘。

 溜息と共に少し先に居る柊と同じように上を向くと、瞬く穢れのない輝きに見透かされているような気がした。


「我が君、いつまでこちらを見ておいでなのでしょう。我が君の眼差しを独り占め出来るのはこの上なく嬉しいことですが、いつまでも見られているかと思うと恥ずかしさのあまり、一欠片の星屑となってしまいたくなります」
 突然、深く柔らかな声が千尋の心に響いた。見ればゆっくり千尋の方へと、柊は歩を進めていた。
「柊、気が付いてたの!?」
 柊の立っている場所と自分の立っている場所は気配を感じるような距離ではないと、千尋は思っていた。だから不躾にも、じっと柊を見つめていた。けれど、流石と言うべきか、秀でた才を持つ軍師にはとうに気が付かれていたらしい事に、千尋は羞恥を覚えた。
「我が君のことなれば」
 そう言って千尋に向けられた笑みは、誰より貴女の事を識っています、と雄弁に語っていた。
「このように手が冷たく……」
 千尋の傍まで来て手を取り、柊はさっきとは違う悲しげな顔をした。
「どれだけ此処においでだったのですか? 夏とはいえ、夜は冷えます。大切な御身がこのような所に一人お越しにならずとも、私を呼んで下されば、何を置いても馳せ参じますのに」
 いつものように、本心なのかどうか悟らせないような笑みを乗せ言葉を紡ぐ柊を、千尋はじっと見つめた。その奥にある本当の想いを見つける為に。
「柊は、いま幸せ?」
 いくら探ってみても、柊の想いを識ることは出来なかった。だからそんな言葉が、千尋の口からはこぼれていた。
「我が君、何故今そのような事を?」
 その声音には、珍しく柊の動揺が垣間見えた。

 アカシャの事があっても、一ノ姫も羽張彦も黒龍の前に倒れてしまった。あの時柊が止めていれば、運命は変えられたのではないかという者は多かった。事実、アカシャの運命を覆し、柊はこうして生きている。
「私のしたことは、柊を苦しめるだけかも知れない。でも、どうしても柊を失いたくなかった、二度と会えないなんて……どうしても。ごめんね、私のわがままで」
「我が君、何故そのような事を仰るのです。私は、自分の生を諦めていた人間です。ましてや我が君の傍に居られるなど、過ぎた果報まで得て。我が君に深く感謝をする事こそあれど、責めるなど有り得ません。私の望みは今も変わらず唯一つ、我が君の幸せのみです。それを害する者は、例え私自身でも赦す事は出来ません」

 千尋は嬉しさが込み上げてくるのを抑える事が出来なかった。聞きたかったのは、この言葉。その口から、この声で聞きたかった。自分だけの我儘じゃないと、柊に言って欲しかった。
「我が君…………その涙は……」
 その声に見上げた、涙で少し揺らいだ千尋の瞳に映ったのは、さっきのように悲痛な貌をした柊だった。
「私の所為ですね。我が君にこのような哀しい顔をさせてしまうなど、やはり私は……」
「そんな言い方らしくないよ」
 涙に声を詰まらせながらも千尋は叱るように言った。
「……我が君?」
「いつものように流れるような巧言を並べ立ててよ、柊らしく。……自分を赦さないなんて言わないで。もうどこへも行かないでよ、そんなの私が……赦さな…い」
「我が君、軽挙な物言い申し訳ございません」
 柊はそっと千尋を抱き締めた。
「それも違う――」
 柊は心の奥で『敵いませんね』と呟き、小さく深呼吸をした。
「それでは我が君、今宵は男星と女星が一年(ひととせ)に一度の逢瀬の夜、それに倣って我が君をこのまま私の室までお連れしたいのですが、お許し頂けますか?」
「ど、どうして、そう飛躍するのっ!?」
「いけませんでしたか? いつものように申し上げたつもりですが」
 千尋は柊のあまりの変貌振りに、口をパクパクするしかなかった。望んだのは自分、そして今の台詞は実に普段の柊らしかった。本心かどうかも妖しげな甘言そのままに。
 それでも千尋は、今は本心かどうかなんて分からなくていいと思った。
 背中に回された腕の温かさは確かな現実で、触れた唇から柊の想いを感じ取る事が出来たから。


「星合い」七夕の別名をそのままタイトルに。時期は逃してしまったけど、七夕ネタです。
書き始めて気が付いた、柊のED後ってものすごく大変なことに。ふりだしに戻ってしまうので、その事後処理を一体どうしたらいいのか。
その辺きっちり決まっていないので、今後ボロボロッとアラが出てくると思いますが、暖かく見守って頂ければ幸いです。
にしても柊も頼忠さんも、本心を内に秘めてしまうタイプ。プラス、後ろ向き思考。柊の場合未来が見えていたので仕方がないとして……も、前途多難なのは間違いないよ。が、頑張れ千尋ちゃん!
(2008.08.14)

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