時想夜

 照明の落とされた部屋、中で静かに眠っている者を起こさぬよう、足音を忍ばせてそっと入る。
 小さな囲いの中、安らかな寝顔に言いしれぬ愛しさと安堵感を憶える。
 日々こうして眺めているというのに、飽きる事などない、出来ればその姿を四六時中眺めていたいとすら思う。我ながら――――と苦笑する。
 守護聖の中で、最も怠惰で無気力、何事にも興味を示さない者、と誰からも思われていた自分。聖地に居た頃の皆が今の自分を見たらさぞ驚く事だろう。
 ふと隣の部屋から、こちらに向かう軽やかな足音が聞こえて来た。もう一人の愛しい者の。
「クラヴィス、いいかしら」
「ああ かまわぬ」
 こうして、共に過ごすようになってもう幾年か、やっとそう呼んでくれるようになったかと、心の中で微笑する。部屋の中の小さな主に、そっとお休みと告げて後ろ手に扉を閉め、自分を見上げている金色の天使の背中に手を回した。
「向こうで聞こう」
「ううん、ここで」
 何時もの妻らしからぬ返答を些か訝かしげに思いながらも、妻の願いを遮る理由もない。
「なんだ?」
「あなたから預かっていた、水晶を包んでいたこの布なんだけれど……」
「繕えぬほど酷いのか?」
 長年愛用して来たその布を、繕って欲しいと昨夜渡したのだが、修繕する事も難しい程になっていたのだろうかと思った。
「そうではなくて、合わせた布の内側にメッセージがあったの、あなた宛の……」
「私宛のメッセージ?」
「良くは分からないけれど、多分そうだと思うの。だから、これを……」
 そう言って、差し出された今は古ぼけてはいるけれど、質の良い品であったであろうそれを受け取る。
「後で、お前の都合の良い時間に、何か温かい物を頼む」
「ええ」
 アンジェリークからその布を受け取ると、クラヴィスは寝室へと向かった。


 窓際のテーブルに布を置いて、ランプの明かりを灯す。窓から零れ入る月の明かりを邪魔する事なく、ほうっと程良い明るさが手元を照らす。
「私へのメッセージ……」
 椅子に腰掛け、合わされた布の内側を見てみると、確かに文字らしきものが見えた。よくよく見ると刺繍で文字が書かれている。
「母の……」



 幼い頃に聖地に召された自分は人との縁(えにし)が薄かった。聖地に上がるまでの記憶もあまり残ってはいない、その中でも憶えている僅かな人数。
 最も憶えているのは母――――、生まれてから僅か数年で離れなければならなかった。
 あまり愛された記憶はない、昼間は大抵馬車の中、夜になると母は町で占いをするか、時々踊りも見せ、明け方パンと僅かな食べ物を持って帰って来る。そして朝が来るとまた違う町へ移動する。旅から旅をして暮らす一座の親子。父親の事など終ぞ知り得なかった。そんな自分達には、常に死の影が付きまとった。情など移さぬ方が利口な生き方。
 今ならば自分にも判る。
 その母が、私が聖地に召される日、大事な商売道具の水晶を持たせてくれた。母が大切にしていた、この濃い蒼の布に包んで。
 教育など受ける機会の無かった生活に、字の読み書きが出来たのかどうか、今となっては知る術もないが、これは紛れも無く母が私に残したものだ。




 愛しいクラヴィス

 遠く、時の輪の接する所で再び相まみえましょう




 愛されていない訳では無かったのだ――――。

 聖地を辞して齢を重ね、人の親となった、今この時知る事になるとは、何と因果な事か……。
 それでもこの胸が熱くなるのは、自分が人として在る事の証し。
 出来れば母に自分の心を伝えたい、だがそれも叶わぬ夢。
 聖地の一日は人の世の一年にも匹敵する、自分は守護聖として一体どれ程の時を聖地で過ごしたのかも分からぬ、母の命などとうに……。
 とうに命ついえているというのに、まるで此処に母がいるかのような、包み込むような温かさを肌身に感じる。
 母の愛とは、親の愛とは、こんなにも――――。
 けして良い思い出ばかりでは無かった、母と過ごした日々。けれども自分をこの世に送り出してくれたかけがえのない人。
 貴女がいなければ、私は哀しい別れに心を捨てる事も無かった。そして、愛する者を手に入れる事も無かった。
 この生の喜びも哀しみも、貴女から贈られたもの。

 コンコンコン

 控えめなノックの音。
 直ぐにドアを開けて迎え入れる。
「ちょっと早かったかしら」
「いや、丁度良い頃合いだ、それは?」
 テーブルに置かれたトレイのそれは、いつものカップでは無く、持ち手の無い器に入っている、中身の色も随分と薄い。
「ルヴァ様から頂いた、お勧めの緑茶です」
 クラヴィスはそれに見覚えがあった。聖地に居た頃「美味しいですよ〜、クラヴィスも如何です?」と勧められて、飲んでみればその渋みに驚いたのを。最も表情になど出ないので、自分がそう思っていた事などルヴァは知る由もないだろうが。
「あ、大丈夫よ。ジュリアス様から頂いた上等のケーキも持って来たから」
 未だに“様付け”が抜けきらないアンジェリークに苦笑する。女王であった彼女の臣下でもあった者に様付けとは、何とも彼女らしいと言えばらしいのだが。
「お前は余程、女王候補時代が好きだったのだな」
「あ……また。はぁ〜」
「まぁ かまわぬ、私の事をクラヴィスとだけ呼んでくれれば」
 大きく溜息をついて俯いたアンジェリークがあまりに可愛らしく、顎を掬って口付けをした。
「…んん」


「お、お茶が冷めるでしょう! 折角ルヴァ様からお祝いに頂いたのに! それにジュリアス様からも」
「かまわぬではないか、それらはどう見ても私への贈り物と言うよりは、お前の為の品のような気がするが?」
 相変わらず、睦み事には未だ初々しい反応をする愛しい者をからかうように言った。
「あら? そう言われれば……」
「それよりお前からの贈り物を楽しみにしていたのだが」
「あ、とごめんなさい、ちょっと〜」
 そう言って、思い切り視線を逸らす様につい顔が綻ぶ。アンジェリークが自分の誕生日を忘れる筈はない、だから何か渡せない理由があるのだろうと思う。まあそれは後の楽しみとするとして――。
「私は、贈り物など無くても良いのだ、こうして…」
 言い終える前に、アンジェリークの身体を引き寄せ再び口付けをする、今度はさっきと違い深く。そのままベッドへ…と思った時隣室から、心許ない声が聞こえた。その声に深い溜息が出る。幾ら愛しい者の声だとはいえ、こうもこちらの空気などおかまいなしだと流石に……。
「クラヴィス? あの子の所へ…」
 アンジェリークを捉えたまま離さないクラヴィスに、離して欲しいと告げる。
「私も一緒に行こう」




「夢を見ていたみたい」
 幼子は、再びすやすやと穏やかな寝息を立てている。
 漆黒の髪と今は閉じられている翡翠色の瞳に白磁の肌。将来はアンジェリークのように愛らしく美しくなるのだろう。その時の事が楽しみでもあり、少し淋しくもある。
「本当にあなたに良く似ているわ」
「そうか? 私にはお前に似ているように思えるが?」
「いいえ、面立ちはあなたよ」
 アンジェリークがそう言うからには、そうなのだろう。
 私に似ているという吾子、母もまた自分に似ていたのだろうか……。




―― 遠く、時の輪の接する所で相まみえましょう ――




 今宵この時、母にこの上ない感謝を。
 そして、どれだけの星霜を経ようとも、必ずや――――。


11月11日、クラヴィスの誕生日に合わせて。
6年振りのクラリモ。orz
もう、長年連れ添った夫婦のような感じがするよこれ……。アンジェリーク(リモージュ)が女王の座を退位して、その間ず〜っとクラヴィスは待っていて、二人で聖地を去った後結婚しました、みたいな。
クラヴィス31歳位、アンジェ23歳位かな〜
(2007.11.11)

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