僕はイライラしていた。空気の蒸し暑さにも、ワガママな女の子にも。
「アーヴァイン、どこにいるのっ!?」
自分を捜す声は明らかに怒っている。
僕は見つからないように身を縮めた。そのまま息を殺してじっとしていると、悪態を突きながら声が遠ざかって行くのが分かった。
女の子はキライじゃない。
けど、しつこくてワガママな女の子はキライだ。どうして「好きって言って!」とか何度も強要してくるのか。そんなもの強要されなくても、好きならいくらでも自分から言うつもりなのに。
…………。
ああ、そうか。“好き”じゃないんだ。付き合うのをOKしたのは僕なのに。
バカだな僕は。
そして、どうしようもない虚無感に襲われた。
とても虚しい。
なぜこんな気持ちになるのか。その原因が何なのか、知りたい。探っていると脳裏にもやのようなものが現われ、何かの形に変わっていくのが分かった。けれどぼんやりとした輪郭のままで、きちんとした形にはならずに消えてしまった。
それが更にもどかしさを煽り、僕を苛立たせた。
「……帰ろ」
僕はおもむろに息を吐いて、丸めていた背中を反らすように伸ばす。
「あ――」
「あっ!!」
去ったと思った相手はすぐ近くにいて、運の悪いことにばっちり見つかった。
「待ってよ!」
僕は走った。後ろめたさを振り切るように、思いっきり走った。
それでも追いかけてくる足音がすぐ近くで聞こえる気がした。
最初に見えた脇の路地に勢いまかせに駆け込む。
『こっち――――』
路地の真ん中辺りまで来たとき、逃げている相手とは別の少女の声がした。
どこかで聞いたことのあるような。
ハッと見回すと一軒の店が視界に飛び込んできた。
「マネキン?」
クラシカルなドレスを着て椅子に座った少女のマネキンが、ショーウィンドウに飾ってあった。
「ええっ!?」
そのマネキンが閉じていた目を開けて微笑んだのだ、僕を見て。僕はひどく驚いた。見間違いかとぎゅっと目を瞑って、もう一度マネキンを見る。
「見間違い…か」
少女のマネキンはちゃんと目を閉じていた。
「けど、なんか――――」
妙に惹きつけられて、僕はウィンドウのガラスに頭をくっつけるようにして、その少女のマネキンをまじまじと見た。
「もしかして人形?」
近くで見るとマネキンというには、細部の作りがとても細やかで丁寧な感じがした。大きさは十才くらいの人間程度。磁器のようになめらかそうな白い肌、頬はうっすらと紅が差していて、唇のみずみずしい質感はまるで生きているようだ。
そして――――、さっき一瞬見えた翠玉のような瞳の色が、忘れられない。
「……似てる」
記憶のもやの中から人形とよく似た女の子の姿が浮かび上がってきた。
髪の長さこそ違うけれど、その子と何もかもがよく似ている。
まるでその子の成長した姿を映したような。
もう一度目を開けてくれないだろうか。そう思ったとき、走ってくる足音に我に返った。僕は咄嗟に店のドアを開けて中に滑り込んだ。
『うっわ、なんだここ』
まるで見たことのない異国風の物で飾られた店内に僕は戸惑った。立ち籠める香の匂い。不快でこそないが、外とは異空間のように濃厚だ。
『どれもこれも高そ〜』
店内に置いてある調度を見ただけですぐに分かる。場違いの店に入ってしまった。そう思い僕は、店の人間に見つからないうちにここを出ようと踵を返す。
「いらっしゃいませ」
だが、僕が全く気づかない間に、極近く柔和な笑顔の線の細い男が立っていた。
「あ、僕は――」
「今日は暑うございますね。お茶を一杯いかがですか?」
他の店員は見当たらないところを見ると店主なのだろうか。立て襟の異国風のゆったりとした長衣を来た男は僕を完全に客だと思ったらしく、店の奥に誘った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれた茶器に注がれたお茶のいい香りが鼻腔に上がってくる。
お茶を提供してもらってありがたいとは思ったが、出されたお茶を見て僕はがっかりした。今日は暑いと言ったのは男の方なのに、カップからふわりと立ち昇る湯気が、お茶は熱いと物語っている。男の気が利かないのか、敢てそうしているのか。笑みをたたえたままポットを持っている男をちらっと見たが、その真意はガキの僕にはさっぱり読み取れない。
「いただきます」
仕方なく口をつける。
「あれ、おいしい」
確かに熱くはあったけれど、それを差し引いても味の方が勝っていて、僕は自然と二口目を飲んでいた。
「すこしは落ち着かれましたか?」
男はそんなことを訊いてきた。
「?」
訊かれた意味は分かったが、訊かれた理由が分からない。それに男は笑っているのに、なぜか表情が読めない。
掴みどころのない奇妙な男だ。
「間違っていたら申し訳ありません。お客様は何かから逃げていらっしゃるか、何かを探しておいでではないかとお見受けいたしましたもので」
柔らかな物腰とは裏腹な、鋭い指摘に虚を突かれた。
そしてそんなに切羽詰まった顔をしていたのかと思うと同時、すこしの間の安息を約束された気がして安心感も憶えた。
男の指摘通り逃げ出したいもの、がある。思わず逃げ出してしまったデートの相手よりももっと大きな。
果てしなく繰り返されるガーデンでの日々。
自分で考え、決断してガルバディアガーデンに入ったけれど、一年経った今でも馴染んでいるとは言い難い。教科も実技訓練も慣れはしたけれど、自分の居場所として正しかったのかは全く分からない。
そんなことを時折、フッと思うのだ。我に返る、とでも言うのか。
そして、大事なものからどんどん遠ざかっているような、そんな淋しさと不安に駆られる。
次々と新しい知識を詰め込み、新しい技術を身に着ける。そうして瞬く間に新しい記憶が増えていくと、とても大切な何かが遠くなっていく気がしてくる。
忘れたくない、忘れられない記憶が、自分の知らない間に消えていくような不安。
逃げ出したいのは、不甲斐ない自分と現実。
忘れたくないのは、幼かった頃の記憶――――のような気がする。
それと、忘れたくても忘れていなかった、心の片隅で薄いヴェールに包まれたような大切な女の子。
「おかわりをいかがですか?」
僕はその言葉に、我に返る。
手元を見ればいつの間にかカップのお茶を飲み干していた。
「いえ、もう。……あの、ここは何の店ですか?」
不甲斐ない現実から逃げるように指向を切り替える。
「プランツドールをお取り扱いしております」
「プランツドール? 人形ですか?」
僕はようやくショーウィンドウに飾られていたものの正体を知った。
家具か調度品の店かと思ったけれど、人形の店だったのか。
「ご存じありませんか?」
「すみません、僕はこの辺りの住人ではないので」
「さようでございますか」
デリングシティは広い。僕の育った家はここから数キロ離れた旧市街のそのまた端っこにある、昔からの職人が多く住む地区だった。もちろん人形作りの職人もいたが、その人形とここにあるものとは、全く質も用途も異なる。
ここにある人形は、一体どうやって作るのかも想像がつかないほどの繊細さと、生きているかのような美しさを持っている。
「人形を、すこし見せてもらってもいいですか?」
ショーウィンドウのあの人形のことを思い出し、もう一度見たくなった。
「ええ、構いませんよ。どうぞ」
客にはなってあげられそうにない僕を疎う風でもなく男は、どうぞと案内してくれた。
人形は、やはりあの子によく似ていた。
触ると柔らかそうな頬はあの頃とすこしも変わらない感じがしたけれど、面立ちは自分と同じ時を経たかのように大人びていた。話かけると、今にも目を開けて輝く瞳で笑ってくれそうな――――。
「目を開けたりしませんよね」
あの子と同じ翠玉の瞳をもしかしたらもう一度。
突拍子もない質問だと思ったが、訊かずにはいられなかった。
「ええ、開けますよ。プランツドールは生きておりますから」
「は!? 生きてるんですか、この人形!!」
僕の質問なんかより、はるかにぶっ飛んだ答えが返ってきた。
最初からすこしも変わらない男の笑顔に、ひょっとしたらからかわれているか、本気で騙されているんじゃないかと思った。
「はい、プランツドールは生きております。丁度、ミルクの時間ですので、ご覧になりますか?」
僕はあっけに取られ、声も出さず頷いた。
人形が動くなんて怪奇現象だと思ったけれど、好奇心の方が先に立った。
「うわ〜、本当に動いてる」
店の中にあった人形に男がミルクの入ったカップを渡すと、人形は自らカップを持ってこくこくと飲んだ。それは別に怖いものでもなんでもなく、可愛らしい少女がミルクを飲んでいるというだけのものだった。
「どんな人が買うんですか?」
店内に飾ってある人形を順番に廻る男の後ろをついて歩きながら僕は、ふっと浮かんだ疑問をそのまま口にした。
同じ顔の人形は一つとしてなく、どの人形も美しく愛らしい。人形の個性に合わせて優美だったり可憐だったりする衣装や装飾品を身に着けている。それだけならただの人形、だけれど、この人形はあろうことか生きている。そんな人形を欲しがる人とは、どんな人間なのか。純粋に知りたくなった。
「そうですね。様々なお客様がいらっしゃいますよ。企業を経営していらっしゃらる方、または奥様やご令嬢。由緒正しきお家柄の方――――」
そこまで聞いて、僕はなるほどなと思った。そういう階級の人間でないと手に入れられないというわけか。そう思えば、この一体一体の繊細さと豪華さに、生きていたりする奇妙さも納得だ。この人形は上流階級相手の商品なワケだ。そうすると、相当に値も張るのだろう。
自分には手の届かないモノ。
そうか、やっぱりそうなのだ。“あの子”には、もう手が届かない――――。
僕は一度ショーウィンドウの方を軽く見遣って、男に分からないように息を吐いた。
「他にごく普通のサラリーマンの男性や、女性もおいでですよ」
「え!?」
男の意外な言葉に僕はまたも驚く。
「プランツドールはお客様を選ぶのです」
男は僕に向かって改めてにっこりと笑った。
商品の方が客を選ぶというのか、それはまた奇っ怪な話だ。
「『相性』というものがあるのです。お客様とプランツの相性が合えば、プランツは目を開け、微笑み、あるいは抱きついたりもします。そうなると、もう他のお客様には目もくれなくなります」
愉快な思い出でもあったのか、男は珍しくクスッと声に出して笑った。
「そう、なんですか」
僕はちょっと引きつるような笑顔になってしまった。
さっき店内を廻ったとき、僕の前でどの人形も目を開けることはなかった。ショーウィンドウのあの人形も。それはラッキーだったんだと思う。ガーデンに入学したばかりのガキに、こんな高そうな人形なんて買えるはずがない。人形に抱きつかれでもしたら、僕はどうしたらいいか分からない。
だから、よかったのだ。
あの人形が目を開けなくて……。
「お客様、ショーウィンドウのプランツをお気に召されたのではありませんか?」
「はい? ……いいえ」
僕は慌てた。気になりはしたが、気に入ったというのは違う気がする。それに、気に入ったと言えば、あの人形を買わなければならなくなったりするのではないだろうか。そんなことが胸中過ぎり、僕は思わず否定していた。
「そうですか。先程、ミルクを飲み終えたカップを受け取ったとき、プランツがかすかに笑ったので、お客様を気に入ったのではと思ったのですが」
「でも、目は開けませんでしたよね」
「ええ、そうですね。私の見間違いでしたのでございましょうね」
「あっ、僕はもうそろそろ行きます。お茶をごちそうさまでした」
もう店を出た方がいい。僕はそれだけ言うと、急ぎ足で入り口のドアへと向かった。
「お客様。嫌な時は逃げてもいいのです。探しものは、諦めなければいつか必ず見つかります。ただ、そのチャンスを逃さないようにお気をつけください」
「あ、ありがとうございます」
「では、またのご来店をお待ちしております」
最後まで柔らかな笑顔で見送ってくれた男に軽く会釈をして、僕は店を後にした。
「そうだ」
もうこの店に来ることはないだろうが、最後に一目だけあの人形を見ておこう。そう思って僕は身体を反転させた。
「あ…れ?」
だが、人形の店は影も形も見当たらない。店を出てからたった数歩の距離だ、見失うはずなどない。ごしごしと目を擦っては店を確認するのを何度か繰り返したが、あの人形も店も最初からそうであったかのように、どこにも存在していなかった。その代わりに、逃げていた相手を見つけた。相手はまだこっちに気がついていない。今のうちに逃げよう。そう思ったが、ふいに足が止まった。
逃げてもいい。人形の店の男はそう言った。だが、彼女を本気で好きになることはない、と自分の中で答えが出ている。それなのに逃げ続けるのは、男らしくない。
僕は、彼女のいる方へと意を決して歩き出した。
※-※-※
日々に忙殺され、山ほど新しい記憶を塗り重ね、千以上の月日が流れた後、僕は一人デリングシティを歩いていた。
相変わらずこの都市(まち)は、煌びやかでにぎやかだ。それが最近ますますヒートアップしている。近く大きなパレードがあるせいだろう。それで街全体が浮き足立っているのだ。
魔女のパレード。
仮装パレードか何かと勘違いしそうなそれは、紛れもなく正真正銘の魔女がパレードを行うらしい。魔女なんて見たこともない、聞いたのさえ教科書の中だ。そんなものが実在するとは思っていなかった。古くからの伝承ではあるが、僕にとっては単にそういう過去の歴史があったという位置づけだった。
それに魔女などどうでもいいことだ。自分の日々の生活に関わるような存在ではない。
それよりも、ここ一週間ほど射撃訓練に行くたびに見かける学園長とガルバディア軍の将校らしい男の存在の方が遙かに気になる。軍服こそ着ていないが、あの身のこなしは軍人のそれだ。それと眼。よく見かける下級の兵士とは全く違う、それがずっと気になっている。
すこし前に軍絡みの実戦に出たが、それの関係なのか。また出動要請なのだとしても、今は受ける気にはなれない。先の実戦へ一緒に出動していた大事な先輩を失ったばかりで、その動揺が尾を引いているのが自分でも分かる。それに、まだ軍人でもない学生の自分に、そうホイホイと出動の依頼があるとも思えないが。
ガーデンに入ってから数年、積極的に学園生活を送ることはしていないながらも、信頼出来る先輩達や友人に僅かながら出会った。だが、出会いがあれば別れがある。幼い頃突き付けられた現実が、再び繰り返された。
そんな出来事やうわべだけの人間関係を上手くやり過ごすのもいい加減嫌気が差して、一人ガーデンの外へ出て時間を潰すことが多くなっていた。
今日デリングシティに来たのは、たまたま乗った列車の行き先がそうだったから。
なのに今の気分とは裏腹にこの街はバカみたいに盛り上がっていて、どこかもっと静かな所へ行きたい。そう思いながら、僕は大通りを避けて脇の路地へと進路を変えた。
『こんなとこにこんな路地あったかな。う〜ん、でもなんか見覚えのある場所だな』
以前迷い込んだ幻の路地と店の存在など、僕はとっくに忘れていた。というより忘れることにしていたのだと思う。
もう二度と逢えないものを、一人憶えているのは淋しい。
「行ってみるか」
目的がある訳ではなく、どうせブラブラと時間を潰すだけなのだからと、目の前にある路地をそのまま進む。
「…え!? あの店…」
その店の佇まいを見て瞬時に思い出した。あの人形の店のことを。ここからでもショーウィンドウには変わらず人形が飾られているのが分かる。そう思うと僕は、急ぎ足で店へと向かっていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
ゆっくりとドアを押して入ると、あの男の姿があった。
相変わらず人当たりの良い笑顔をたたえて立っている。
「お茶をいかがですか?」
「……はい、いただきます」
男は既にポットを手にしており、僕は被っていたテンガロンハットを脱ぐと、いつもそうであったかのように店の奥へと足を向けた。
「お久しぶりでございますね」
「はい、忙しくて」
角の立たない当たり障りのない返事。いつの間にか、これくらいの処世術は使えるようになっていた。
「そうでございましたか」
ただ笑顔を崩さない男にそれが通じているかどうかは怪しかったが。
「本日はどのようなご用件でございましょうか」
「え、…あ、……あの人形をまた見せてもらえないかな……と思って。気に入ったので……」
前回とは違い、この店の客としての対応をされて僕は焦り、思わずそんなことを口走ってしまった。
「ショーウィンドウにいたプランツでございますか?」
そんな僕の状態など構わず男は会話を続ける。
「……はい、そうです。出来れば、ほしいな〜と思って」
自分でもなぜこんなことを言っているのか分からなかった。
だが男は、商品を購入したいという言葉を聞いてもっと破顔させるかと思ったのに、逆に崩すことのなかった笑顔を崩していた。
一方僕は、そんな他人の些細な変化などより、自分の訳の分からない変化の方が大問題だった。
ただ口を滑らせてしまったとはいえ、今は本気で欲しいという気持ちがあるのは確かだ。
それはどうしてかと考える。
と、前にこの店を出る際にこの男に言われた「探しものは、諦めなければいつか必ず見つかります」という言葉を思い出した。潜在的にその言葉を覚えていた自分は、探しているものはあの人形ではないかと直感したのだ。
だからチャンスを逃してはいけない。
「一足遅うございました」
咄嗟に決心したこととはいえ、期待で高鳴っていた心臓が、思わぬ返答にキリと痛んだ。
「売れてしまったんですか?」
僕は、人形が自分以外に対しても商品だということを失念していた。
「ええ、お客様が前にお越しになられた直後、よい方に巡り会いまして――――」
「そうですか」
ああ、やっぱりか。そうではないかと、心のどこかで感じていた。あの子もあの人形も、僕とはそういう運命なのではないかと。
「そしてつい昨日、オーナーの方がここに帰りたがっているようだと、こちらに連れて来られていたのですが――――」
「え、返ってきてたんですか?」
ならば見ることくらいは出来るのではないか。それなのに一足遅かったとはどういうことなのか。僕は男の曇ったままの顔をじっと見つめた。
「枯れてしまいました」
「枯れた?」
「ああ、申し訳ありません。あのプランツは天寿を全うしたという意味です」
「死んだ、ということですか?」
「人で言えばそういうことになりますね」
一足違い。そういうことか……。
酷く打ちひしがれた気分だ。この店に入るまで思い出しもしなかったのに。まるであの子と別れた時のように胸が痛い。
「お客様にお見せしたいものがございます。少々お待ちください」
「…………」
再びあの子を失ったような喪失感に囚われ返事をするのも億劫で、僕は軽く頷くことしか出来なかった。
大して間を置かず、重厚なカーテンの奥から手に小さな布袋を持ち、男が戻って来る。
「これを」
男が小さな袋から何かを取り出すと、手から零れた粒がいくつかテーブルに落ちた。
「宝石ですか?」
蒼い真珠のような粒のうち一つがコロコロと僕の前まで転がってくる。
「『天国の涙』でございます。慈しみと深い愛情を持って育てられたプランツが零した涙、とでも申しましょうか」
「あの人形のですか?」
「さようにございます」
「そうですか」
僕はホッとした。少なくともあの人形は、買われた先で幸せに暮らしたのだ。それはあの人形にとって幸せだったのだ、間違いなく。ひょっとしたら、自分に買われるよりも……。
「昨日の丁度この時刻でした、プランツがふっと窓の外、空を仰ぐようにして微笑み、涙をポロポロとこぼしたのです」
「まるで空の色のような蒼ですね」
「そうでございますね。前にお客様がお越しになられた時と同じ色だと存じ上げます」
男はその粒をコロンと僕の手のひらに載せた。
翠色の瞳をした少女が零した蒼色の涙。どこか淋しげな色ではあるが、とても美しい輝きを放っている。そして見ていると、何とも言えない感情が込み上げてきた。
「あ、お返しします」
長くじっと見つめていることに気がつき、慌てて男の手に戻そうとした。
「お持ち頂いてもかまいませんよ。恐らくプランツもそう望んでいると思いますので」
「いえ、僕とは縁がなかったプランツですから、これは受け取れません」
すこしの躊躇いはあったものの、僕はきっぱりとそう言うと、男の手に小さな粒を戻した。
「そうでございますか」
わざわざこれを見せてくれ残念そうな顔をしている男に申し訳ない気もしたが、受け取るのはなぜかもっと気が引けた。
「それじゃ、僕はこれで」
あの人形も既に存在していない上、他の人形に興味のない客はさっさと退散した方がいいと僕は席を立つ。
「お客様。お客様はあのプランツとの縁(えにし)は、おありではございませんでしたが、お客様の縁は必ずそうあるべき方と繋がっていると私は思っております。今はその時ではなかったのでございましょう」
前にも帰り際にそんな言葉をかけられた。抽象的なようでいて意味深にも思える。そして不思議と心に温かく沁み入ってくる言葉だった。
「大事なのは諦めないこと、ですか?」
「さようにございます」
男は柔和な笑顔を浮かべると「またのご来店をお待ちしております」と軽くお辞儀をして僕を見送ってくれた。
店の外はここに来る前と同じ、パレードの準備に追われ雑多で華やかで慌ただしい。
ただ一つ違うのは、ここしばらくの間鬱屈としていた気持ちが、すこしばかり晴れたことだ。今日の空のように。
「あ…もしかして」
僕は大通りを目指す足を止めて振り返った。
「やっぱりか…」
予想通り、あの店の姿はまた消えていた。幻想か、はたまた迷宮を彷徨っていたのか。それは自分にも分からない。
再び巡り逢えるのか。それとももう一生逢えないのか。今考えても始まらない、分かるのはそれだけだ。
僕はテンガロンハットを被り、微かに硝煙の臭いのする手にグッと力を込めて握ると、目の前に広がる鬱蒼とした現実へと歩き出した。