花冠
そこは僕の知らないニオイがした。
それと繰り返し何かの音がする。僕の手を握ってくれている人を見上げたら、絵本で見た女神様のように微笑んでから、教えてくれた。
「これは潮の香り」
「しお?」
「海の匂いよ。ここは海の近くなの、そして繰り返し聞こえるのは波の音」
「なみのおと……」
「そしてあれが、今日からあなたのお家。他にもあなたのようなお友達がいるのよ。きっと仲良くなれるわ。さ、行きましょう」
新しい僕の家。
その家は大きくて、古くて、壊れた大きな柱もあった。小さな僕が見上げると本当に大きくて迫ってくるようで、それが怖くもあって、胸の奥でドキンと音がした。けれど握られている手は温かくて、優しくて、その手に導かれるまま、僕はその石造りの家の扉の前に立っていた。
家の中から子供の賑やかな声が聞こえたと思った次の瞬間、勢いよく扉が開いて僕はびっくりした。そのせいでさっきまで怖いと思っていた感情は吹っ飛んでしまった。
「まませんせい、おかえりなさ〜い」
それともう一つ、扉を開けたらしい女の子がにこにこ顔で立っていたせいもあった。
「ただいま、セルフィ。お出迎えしてくれたのは嬉しいけれど、ドアはもう少しそっと開けてね。お客様が驚いてしまうわ」
「おきゃくさま?」
女の子はドアの取っ手を握ったまま、うんと上を見上げていた視線をゆっくりと下に移動させて僕を見た。
「こんにちは」
もう一度さっきと同じ笑顔を向けられた。元気な笑顔のよく似合う子だと思った。栗色の髪は元気にくりんくりんと跳ねていて、好奇心いっぱいの翠色の目は宝石のようにキラキラしている。僕は何だかその子に圧倒されて、そのままじっと動けずにいた。
「……こんにちは」
と言えたのは、まませんせいと呼ばれた人の手が、そっと肩に置かれたのが分かったから。
「あたしはセルフィ。おなまえは?」
「ぼくは、アーヴァイン」
「アー、アーヴァ……んっ、アー、バイン?」
「アーヴァインよセルフィ。今日からここで一緒に暮らす、あたらしいお友達よ。仲良くしてくれる?」
「はーい! なかよくする〜」
女の子はにこにこ笑顔のまま、元気な声でそう言ってくれた。僕はそう言ってくれたことがとても嬉しかった。知らない所で知らない人たちと一緒に暮らす。それがどういうことなのか、良くは分からなかったけれど、女の子の言ってくれた言葉で悪いことじゃないんだと思った。
この海の近くの家には、僕くらいの子供がたくさんいた。
その中でも特に目立っていたのは、しょっちゅうケンカをしているサイファーとゼル。
ケンカと言ってもサイファーが一方的に苛めている感じだったけれど、ゼルも負けてなかった。結果的にはゼルが負けてしまうことが多かった。でも、ゼルは負けても泣きながらまたサイファーにつっかかっていた。そして延々ケンカが続く。大抵はママ先生が止めに入って終わりだったけれど、ママ先生がいない時はいつもキスティスが二人を叱る。
キスティスは小さなママ先生のようだった。
ガキ大将だったサイファーさえも、キスティスの口には敵わない。キスティスの言うことはいつも正しいと思う。でも、それが時々えばっているようにも見えた。
後、大人しいのにどうしてか目立っていたのはスコール。
殆ど誰とも遊ばない。誘われても、遊ばない。笑っている顔もあんまり見たことがない。唯一、楽しそうにしていたのは、僕らより年上のエルおねえちゃんと一緒の時くらいだった。大人しいのかと思っていたけど、一度だけサイファーと大ゲンカをした時には、大きな声で叫んだりしていてびっくりした。
そしてセルフィ。
セルフィはいつもじっとしていなかった。今近くにいたと思って、話しかけようとして振り向いたらいなくて、なぜか外から声が聞こえたり。そんなことしょっちゅうだった。男の子みたいに元気で、高い所にも平気で昇る。ある時、危ないから行ってはいけませんと言いつけられていた、切り立った岩場に昇っていたことがあって、ママ先生にこっぴどく叱られたことがあった。それからは昇っていないと思う、たぶん。セルフィのことだから分からないけど。
僕は崖の上に昇ったりするような勇気なんかなかったから、そんなセルフィのことが羨ましくて、とても気になった。一緒にいると、勇気が出るような気がした。だから、僕はセルフィと一緒にいるのが一番好きだった。
「セルフィ、いっしょに、えほんよまない?」
「ん〜と、そとであそびたい」
「でも、あめがふってるよ」
「じゃあ、アーバインひとりでよめば?」
僕はちょっとムッとなった。
天気の良い日は殆どセルフィに付き合って外で遊ぶ。たまの雨の日の今日くらい、僕の好きなことに付き合ってくれてもいいのにと思った。それともう一つ引っ掛かっていたことがあった。
「ぼくのなまえはアーヴァイン。バじゃなくてヴァ」
「アー、ヴァ……アーバイン。うまくいえないよ〜」
そう言いながら、セルフィは何度も僕の名前をちゃんと言おうと頑張ってくれた。けれど何度やっても微妙にバになる。そのうち舌を噛みかけた。
「エルおねえちゃんみたいに、みじかいおなまえはないの?」
ちょっと痛そうにに舌をふーふーした後、そう訊かれた。
「わかんない、だれもみじかいなまえで、よんでくれなかった」
「じゃあ、あたしがつくっちゃだめ?」
僕はちょっと驚いた。なければ作ればいいのだという発想は、僕にはなかったから。
「いいよ」
そしてセルフィが作ってくれるというのが、なんだか嬉しかった。
「ん〜と、ん〜とね、アービンは? アービンできまり!」
セルフィは僕が返事をする前に決めてしまった。けれどやっぱり、僕はなんだか嬉しかった。
「じゃあ、セルフィのことはセフィってよんでいい?」
「どうして?」
「う〜んと、いや?」
僕は理由を言えなかった。僕自身どうしてそうしたいと思ったのか、ちゃんとした理由は良く分からなかった。ただセルフィが僕の呼び名を決めたのなら、僕もセルフィの呼び名を決めてもいいんじゃないかと思った。僕たちだけに通じる呼び名を。
「いっしょにせんそうごっこしてくれるなら、いいよ〜」
セルフィは嫌がる風もなく軽く返事をしてくれた。
石の家の横にはなだらかな丘と、子供の僕たちにはどこまで続いているのか検討もつかない広い野原がある。
丁度今は花もたくさん咲いていて、僕は珍しく一人で、その野原の真ん中に座っていた。一緒だったセルフィたちは、丘の向こうまで行ってくると言って走り去ってしまった。僕はこの前エルおねえちゃんに教わったものを、もう一度自分だけで作ってみたくなって一人残った。キレイに出来上がったら、プレゼントにしたいと思って。
野原に座り込んでいると、色んな匂いや音が聞こえてくる。
潮の香りはあんまりしない。代わりに花の匂いがした。風が吹くと違う花の匂いも漂ってきて、周りの草や花がゆらゆらと揺れる。近くでミツバチの羽音も少し聞こえた。ちょっと前までミツバチは怖かった。“刺されると危ない”と教わっていたから。でもセルフィが「じっとしていれば、だいじょうぶだよ」と言ってくれてから平気になった。たくさんいるとやっぱり怖いけど、一匹くらいなら怖くない。女の子のセルフィが平気なのに、男の僕が怖がっていちゃ、そんなの格好悪い。
「アービンすごーい!」
突然近くでセルフィの声がして、僕はとってもびっくりした。セルフィに驚かされるなんてことしょっちゅうだけど、僕はその度本当にびっくりする。セルフィは歩くびっくり箱みたいだ。
「きれいな、はなかんむり。それアービンひとりでつくったの?」
セルフィは僕の前にしゃがみこんで、大きな目をもっとまん丸にして、僕の持っている出来上がったばかりの花冠を見ていた。
「うん、エルおねえちゃんに、つくりかたおそわったんだよ」
「アービンてすごいね〜。あたしもほしいな、つくりかたおしえて」
僕はとても嬉しかった。セルフィが褒めてくれたこともだけれど、もっと嬉しかったのは、僕が作った花冠をセルフィは気に入ったらしいことだった。
「ほしいのなら、これセフィにあげる」
「いいのっ!?」
「うん、いいよ」
元々セルフィにあげようと思って作っていたので、僕は喜んでセルフィの頭に花冠を載せた。エルおねえちゃんが手伝ってくれたのと違って、ちょっと花が飛び出したりしてるけど、花冠をつけたセルフィは本当に可愛くて、小さな花嫁さんみたいだ。
「うわ〜、ありがとアービン。にあう〜?」
「うん、セフィとってもかわいい」
そう言うとセルフィは、花冠に両手で触れて嬉しそうに笑ってくれた。
「でも、アービンにおかえしにあげられるものないや。だからこれでがまんしてね」
そんなものいらないよと言う前に、頬にキスをされた。一瞬何が起こったのか判らなかったけれど、頬に当たる柔らかな感触が何か気付いた時には、セルフィはもう離れていた。
僕はその時、どうしてもセルフィに言いたいことが出来た。
「セフィがおおきくなったら、おかえしちょうだい」
「うん、いいよ〜。アービンはなにがほしいの?」
「あのね……うん、とね……ぼく……ぼくの――」
けれど一大決心の内容を告げるには、僕はあまりにも勇気のない子供で、なかなか続きが言えない。そうやっておたおたしている内に、後ろの方から声が聞こえた。
少し離れた所から、ママ先生がセルフィを呼ぶ声だった。ママ先生の隣には、男の人と女の人が立っている。
それから三週間後、僕は続きを言えないまま、セルフィとさよならをした。
あの日と同じように穏やかな風が吹く。足元の草花が波のように、流れるように揺れている。懐かしさに思わずそこに座り込み、手を伸ばした。
「意外と覚えてるもんだね〜」
多分作ったのは二度こっきり。それでも幼い頃教わった作り方はちゃんと手が覚えていたらしく、そう困ることもなく手の中で順調に形作られていく。
近くで蜜を集めていたミツバチの羽音が聞こえなくなり、一際強い風が広い野原にさざ波のような軌跡を残して去っていた頃、完成した。
「結構、様になってる」
その出来具合に満足した。前に作った時には子供だったので、完璧とはいかなかった。大人になってそれまでの努力が実ったらしく、手先は器用になったと自分でも思う。
これもちゃんと褒めて貰えるだろうか。出来上がった花冠を持って立ち上がったら、これから向かおうと思っていた相手の方がこっちへやって来た。
「アービンここにいたんだ。何? それ」
「ご覧の通り」
僕は出来上がった花冠を額縁のようにして、その向こうにあるセルフィの顔を見た。
「アービンがつけるん?」
「どうして僕が〜?」
「え、違うのん?」
どうしてそういう発想になるのか。彼女のこういう所、相変わらず僕には謎だ。
「フツーセフィにでしょ〜」
「あ、そっか」
ははははと笑うセルフィに更に脱力する。
「ま、いいや。はい、これはセフィに」
「え、あ、ありがと」
そう言って頭の上に載せられた花冠を確かめるように両手で触れ、セルフィははにかんだような照れくさいような笑みを浮かべた。
「似合うよ」
「ありがと、ん? あれ? あっれ〜?」
「どうしたのセフィ」
「こんなこと前にもなかった?」
セルフィは花冠に手を添えたまま、小首を傾げていた。
「何か思い出したの?」
「う〜ん、ちゃんと思い出したとかじゃなくて、なんか前にもこんなことがあったような気がしただけなんだけど……アービンは?」
そっか思い出した訳じゃないのか、それなら。
「内緒にしとくよ」
「うっわ〜、ズル〜イ! アービン絶対知ってるんやろ〜」
「セフィが思い出してくれないと意味ないからね〜」
「ええ〜 そうなん……もしかして大事なこと?」
僕の言葉を気にしたのか、セルフィの顔つきが神妙になる。
「どうかな〜」
「とぼけないで教えてよ〜。大事なことやったら、ちゃんと知りたい〜」
ちょっと頬を赤くして食い下がってくるセルフィは、いつにも増して可愛い。だから僕はきっちりとぼけることに決めた。
「気長に待ってるからさ、ゆっくり思い出してよ」
懐かしく大事な思い出ではあるけれど、あの時は肝心なことを言えないまま終わってしまった。そして言えなかった自分の願いは昨日叶った。
君はきっと近いうちに思い出す。その時、僕が何を言いかけたのか聞かれるだろう。僕は律儀にちゃんと答える。そうすると君はきっと照れまくる。その様が手に取るように分かる。
「もう日が暮れるから、そろそろ家に入ろう」
まだ納得がいかないと、少し口をとがらせて隣を歩くセルフィに分からないように、僕は小さく笑った。
「セフィがおおきくなったら、おかえしちょうだい」
「うん、いいよ〜。アービンはなにがほしいの?」
「あのね……うん、とね……ぼく……ぼくのおよめさんになって」
新婚1日目の午後の出来事でした。
こっぱずかしい程にメルヘンです。アーは子供の頃からけなげです。場所ははっきりとは書いてませんが、バレバレですね。(あ、ここに住む訳ではありません)
「ガラスの六花と星の花」の4話と合わせて読んで頂くと、切なさと糖分が相殺される、かも。
カテゴリーもここではないんだけど、これが常に一番上なのは恥ずかしすぎるのでここに。
(2009.04.06)
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