涙の味
施設全体を震わせるような咆吼と、豪風のようなうねりと共に打ち振られた巨大な尾が、反らした身体すれすれを掠めた後、素早く体勢を整え次の攻撃が来る前に、ダンッと地を蹴る。身体を捻り、捉えた眉間めがけて引き金を引く。
縦に伸びた爬虫類のような瞳孔に怒りが一瞬見えたが、その怒りを放出させることなく巨体は地を揺らせて倒れ、力なく閉じられた瞼でその瞳孔も見えなくなった。
アーヴァインはアルケオダイノスが息絶えたのを確認すると、額の汗を拭い息を吐いた。
「今日はここまでにしとこう」
控えのスペースに入ると、愛銃をケースに仕舞い肩に掛けて外へと続くドアに向かう。
「アービン、いたっ!」
数歩先の通路へと続くドアが開き、訓練での疲れも吹っ飛ぶような愛しい姿が現われた。
「セフィ、どうしたの〜? そんなに慌てて」
「緊急招集がかかってん、はよ来て!」
相変わらずのんびりとした口調のアーヴァインを急かすようにして、セルフィは彼の腕を引っ張った。
「汗かいてて、シャワー浴びたいんだけど〜……て、ムリだね」
言いかけた途中でキッと睨まれてアーヴァインは、大人しくセルフィに引っ張られることにした。手ではなく腕を掴まれているので、汗をかいた肌は気持ち悪いんじゃないかな〜と思ったけれど、セルフィはそんなことちっとも気にしていようだ。
「アービン、またG.F.ジャンクションせんと訓練施設入っとったな」
エレベーターに乗り込み階数のボタンを押した後、セルフィはくるんとアーヴァインを振り返りまた睨んだ。
「二人以上で行く時はええけど、一人で行く時は何かあったら危ないやろ。ちゃんとジャンクションしとき!」
「大丈夫だよ〜、元々僕はG.F.ジャンクションしないのに慣れてるし、実力もそれなりにあると思ってるんだけどな〜。それに……」
「それに?」
セルフィは一歩アーヴァインに近寄ると、ずいと彼を見上げた。
「副作用が……」
「けど、命には替えられんやろ!」
そう言われると返す言葉がない。けれど、G.F.を使用することで起こる記憶障害は、大分改善されたとはいえ、まだ多少は発生する。だから、出来ればG.F.は使いたくない。特にセルフィとの思い出は失いたくない。
「心配なんよ。いくら高ランクのSeeDやからって……。アービンが強いのは知ってるけど…………けど、何があるか分からんやん!」
「……うん。セフィ、心配してくれて、ありがとう」
セルフィが言うことは尤もだった。強者ではあっても、その上にあぐらをかき己を過信し過ぎたり、油断したが故に命を落とした例は、古から数え切れないほどある。SeeDとして心に刻むべき、基本中の基本だ。それをセルフィに指摘され、アーヴァインは過信していた自分を恥じた。
それと――――。
「わっ、アービン、何すんねん!」
プンプン怒りながらもセルフィの言葉の端々に見える自分への感情が、めちゃめちゃ嬉しかった。だからそんな彼女を抱きしめてしまうのは、アーヴァインにとっては極めて自然なことなのだ。離せと、わたわたと手足をばたつかせるセルフィを無視して、アーヴァインはぎゅっと腕に力をこめた。
「何やってんだ、アーヴァイン。ガンブレードで串刺しにされたいか?」
ただ残念なことに、エレベーターは順調に該当階に到着し、スッとドアが開いた。アーヴァインの至福の時間はあっけなく終わり、代わりに身も凍るような冷徹な瞳が待ちかまえていた。
「やぁ、スコール。見ての通り、愛の抱擁」
「愛なんかじゃな〜い! はなせ〜!!」
もがくセルフィの言葉にスコールの目の端がピクッとつり上がったのを見て、アーヴァインはようやく彼女を離した。
あと少し遅ければ、同情の余地のない屍がその場に転がるはめになっていたと思われる。
招集されたミーティングルームには、スコール、ゼル、シュウを始めSeeDの錚々たる面々が揃っていた。それだけでこの招集の重要度が瞬時に解る。アーヴァインは、気持ちを切り替え静かに席に着いた。
招集されたメンバーが全員揃ったのを確認すると、シュウが説明を始めた。
「SeeDに緊急出動の依頼があった」
事の起こりは2時間前、エスタシティの南南西およそ60キロ、ウェストコーストにほど近い場所にある民間のモンスター研究施設。何らかの原因でセキュリティの一部がエラーを起こし、そこで研究材料として飼育されているモンスターが研究棟へと侵入し、研究所員が犠牲となっている。その所員たちの救助、及びモンスターの殲滅がSeeDに依頼された内容だった。
「原因究明はしなくていいの?」
情報処理と分析を得意とする女性SeeDからの質問だった。
「それは依頼内容に含まれていない。ただしこちらの活動に必要ならば、平行してそれも行う」
「了解」
「二人一組、10の班に分かれて任務にあたってもらう。詳細は個々に渡すファイルを確認してほしい。では20分後に出発。何か質問は?」
ここにいるSeeDは既に各自に渡されたファイルに目を通していて、新たな質問をする者はいなかった。
「では20分後に第一格納庫で。研究所は広大で構造が複雑だ、各自頭に叩き込んでおくように」
シュウはそう言うと、踵を返してミーティングルームのドアに向かった。他のSeeDたちも次々と席を立ち足早に外へと向かう。アーヴァインも隣に座っていたセルフィを伴って皆に続いた。
「じゃ、セフィまた後で」
「ジャンクション忘れたら、パートナー変えて貰うで」
「分かったよ〜」
釘を刺されてアーヴァインは、苦笑しながらセルフィとは一旦別れた。
上空から見ても、その施設の広大さは目を見張るものがあった。その広大な研究所からカメの首のように突きだした、一般的な広さのエントランスにSeeDたちは余計な物音一つたてず整列していた。
このエントランスは平凡な毎日と変わらない様相で、常と同じように客人としてSeeDたちを迎えているのであろう。建物の奥で起こっている惨劇など、微塵も感じられなかった。
「担当ブロックの所員を救出したら速やかにここへ、外で待機している飛空艇への誘導も頼む。それと外へ出る前にここに待機しているシュウに必ず報告するように。ここ以外の出入り口は極力使うな」
スコールの指示にSeeDたちは無言で頷いた。
「すみません、責任者の方はどなたですか!?」
突然近くのドアが開き、酷く慌てた男性所員らしき人物が出てきた。
「私です」
スコールが軽く手を挙げる。
「ああ、あなたですか。時間がなくなりました。研究所の緊急装置が作動し、1時間後に施設全体にガスが噴出されます。遅れれば、モンスター諸共全員死にます」
「解りました」
スコールは僅かに眉間に皺を刻んだだけで、何でもないことのように返事をした。
「聞いての通り時間制限がついた。何としても時間までに残っている所員全員を救出するように。モンスター殲滅は切り捨てていい。とにかく人命救助を最優先に」
「正確なガス放出時間を教えて下さい」
スコールが言い終えるのを待って、シュウが男性所員に質問をした。
「13時02分です」
「各自時間をセット。では、作戦開始」
シュウの声で、SeeDたちは素早くそれぞれの担当ブロックへと散った。
セルフィは誰より早く自身の得物であるヌンチャクを手にすると、自分の担当ブロックへ向かって走り出した。すぐ近くにいたのか、それとも追いついたのか、気がつけば今回のパートナーのアーヴァインも隣を走っているのに気がつく。それを目の端で確認するとセルフィはひたすら走った。この研究所は資料で見た建物内地図でもかなり広い。その中に入ってみると、その上似たような風景ばかりが続き、まるで迷路のようだった。その中を迷わないように慎重にかつ迅速に行動しなければならない。自分たちと違って武器も持たず訓練も受けていない所員たちは、今もモンスターの餌食になっているのだ。
白い色だけが続く空間をどれくらいは移動しただろうか。
セルフィは他とは違ういかにも頑丈そうなドアに辿り着くと、足を止めた。
「開けるよ、いい?」
スッと隣に立ったアーヴァインに確認をとる。
「いいよ」
アーヴァインが銃を握り直し戦闘態勢に入るのを見届けて、セルフィは自動では開かなくなった重いドアを開けた。
途端それまでの真っ白だった建物内の様相が一変する。壁と言わず天井と言わず血が飛び散っている。ドアには手で縋り付いたような跡が残っていた。床には、引き裂かれ、もうただの物体としか見えないものや、まるで何かのパーツのように無造作に落ちている腕や脚、血溜まりには内臓物であろうものも見て取れる。そんなものが床や机、機械の上にも側面にも散乱していた。ドア一枚を隔てただけで、この余りにも違い過ぎる風景にセルフィは胸が締め付けられる思いだった。だが立ち止まっている暇はない。
これ程の惨状は滅多に見ることがなく、むせかえるような血の臭いに息を詰まらせながらもセルフィは、ヌンチャクを構えモンスターの襲来に備えた。
「ここには、人もモンスターもいないようだね」
セルフィの隣で酷く冷静な声がした。セルフィより一歩前に進み出、広い部屋を見回す瞳は普段とは全く違う鋭い色を放っている。
「次の部屋へ行こう」
正面から続く部屋へとセルフィは向かった。
掃除の行き届いた床は血溜まりが潤滑剤となり、通常より歩きにくい。だが二人はそれをものともせず次室へと進んだ。
「アービン、左を!」
ドアを開けるなりセルフィは叫んだ。その後すかさず目の前にいる口から血を滴らせたクアールの急所を見定め、体重をかけた棍を打ち込む。クアールは声も発することなくその場に倒れた。更にその向こう、セルフィ目掛けてジャンプしたもう一頭に向かってこっちからも突っ込む、正面から一撃、打ち振られた鋭い爪を避けるように身体を回転させ、背骨に一撃。それでこの一頭は倒れてくれた。アーヴァインの方を見ると、そっちの方も既に片付いていた。と、アーヴァインは隅の方へ向かってゆっくり歩いていた。
「大丈夫ですか?」
その声に何かが動き、セルフィは机の囲いの向こうに隠れるようにしている人がいるのだと分かった。
「た、助かった……」
血の飛び散った白衣を着た男性は真っ青な顔でガタガタと震え、それでも声には安堵の色が見えた。
「そこのドアから向こうは安全です、そっちへ案内します。あ、他の人たちがどこにいるか分かりませんか?」
「この左側の隣の隣の部屋にいるんじゃないかと思う。そこは実験用の頑丈な作りの部屋だから、多分そこに」
「セフィ、シュウ先輩に連絡を。この人に付き添ってあげて、僕は先に行ってる」
「分かった、すぐ追いかけるから」
アーヴァインはそう言うと、セルフィと白衣の男性をその場に残して半ば壊れた隣へ続くドアへと向かった。ドアに近づくだけで、その先に何かがうごめく気配を感じる。この感じだと部屋の中にはウヨウヨしていそうだ。背後でセルフィと男性が出ていったのを確認すると、アーヴァインは盛大にドアを蹴破った。
予感的中。
あまり大きくはない部屋だが、ガルキマセラがぎっしりと言いたくなるくらいいた。軽く十匹は超えている。というかそれ以上は数えたくなかった。そのうちの何匹かが手をゆらゆらとし始める。何かの攻撃魔法を放つ体勢。余計なことを考えている場合ではない。強い部類のモンスターではないがやっかいな相手だ。さっさと倒さなければ、かなりヤバイ。
レア魔法のオーラを躊躇うことなく掛け、火炎弾を選択する。周囲のガルキマセラに向かってフレイムショットを放ったが、一度では数匹しか倒れてくれなかった。もう一度火炎弾を放つと殆どは倒せたが、ずる賢く避けたヤツが二匹いた。
「クソッ」
逃げたヤツが放ったのだろう、サンダガを受けて全身がビリビリと痺れたがなんとか身体を動かし、通常弾でさっきの避けた二匹のうちの一匹を撃つ。
「もう一匹は!?」
残りの一匹を見つけた時には、もう何かの魔法を唱えていた。
『来る!』
アーヴァインは身構えた。このタイミングでは防御魔法はもう間に合わない。途端、巨大な氷柱に閉じ込められたかと思うと、身体中に小さな冷気の粒が突き刺さる。
「うっ……」
全身を襲う凍気にひるみながらも歯を食いしばり、最後の一匹に銃弾をお見舞いする。そいつが倒れるのと同じように、アーヴァインも膝をついた。
「けっこうキツイな〜」
サンダガとブリザガを続けざまに受けて、その上最後のヤツが死に際にホーリーを放ってきた。流石に連続でそこまで受けてしまうと、直ぐには動けそうになかった。
「アービン、大丈夫っ!!?」
アーヴァインの背後で声がすると、声の主は彼に駆け寄りしゃがんで顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ〜」
そうは言うものの、顔も見た目もちっとも大丈夫そうにはセルフィには見えない。セルフィはすっくと立ち上がると、ヌンチャクを構えた。
「フルケア〜」
「セフィ、それはサービス良すぎない〜? ケアルガくらいで良かったのに〜」
「いいの!」
セルフィはまたしゃがむとアーヴァインのほっぺたをつねった。
「ほら、回復したら次行くよ」
「ええっ!? もう?」
「フルケアかけてあげけたでしょ」
「……はい」
セルフィに腕を引っ張られるようにしてアーヴァインも立ち上がった。
さっきの男性所員が言った部屋は確かに頑丈そうだった。壁やドアにおびただしい傷があるが、破るには至っていない。だが、モンスターと同じくセルフィたちも入れそうには見えなかった。
ドアには認証システムがあって、幸か不幸かそこだけほぼ無傷だ。
「いけそう?」
「う〜ん、小難しいけど何とかなる、と思う」
最後のタメがちょっと気になったが、アーヴァインはセルフィが解除作業をしているのをじっと見守った。ポケットから小さな端末を取り出しコードを繋ぐと、端末のタッチパネルをすごい早さで操作している。
「セフィ、今ちょっとこっちの画面が一瞬変わったよ」
「ん、そうなん。そっか、コレかな」
そう言った後、ほどなく認証確認の文字が出てドアが開いた音がした。
アーヴァインとセルフィがその部屋に一歩足を踏み入れると、息を呑む気配と、ざっと人の動く音がした。
「助けに来ました、もう大丈夫です」
セルフィの声に皆安心したのか、部屋の隅に固まっていた所員たちから一斉に緊張が解けた。その場にへたり込む者、泣き出す者を宥めながら、セルフィとアーヴァインは所員たちを誘導した。
「Bブロック救出完了です」
シュウが待つ場所でセルフィは彼女に報告した。
「お疲れ、その人たちを飛空艇に乗せたら、悪いけどもう一度ここに集まって」
「了解です」
即答するとセルフィは、飛空艇に向かうアーヴァインと救出した所員たちの所へ戻った。
「足元気をつけて下さいね」
タラップを昇る、まだ足元のふらついている女性所員を支えるようにしてセルフィは声をかけた。
「あ、大事なデータがない!!」
セルフィの後ろを昇っていた男性所員が声を上げると、彼はタラップを降り始めた。
「ダメです、中は危険です。飛空艇に乗って下さい」
タラップの下にいるアーヴァインが制止する。
「でも、大事なデータなんです。今までの3年分が水の泡だ。大事なデータなのに……クソッ、俺は」
男性所員はこの世の終わりのように、頭を抱えるようにしてその場に崩れた。
「僕が取ってきましょうか?」
「アービン、危ないよ!」
セルフィはすかさず止めた。
「時間はまだあるし、あそこにはもうモンスターはいないでしょ。いてもちゃんとG.F.ジャンクションしてるから大丈夫」
「でも……」
「どこにあるんですか?」
アーヴァインはセルフィを笑顔で制すると、男性所員に詳細を聞き始めた。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
最後の一人がタラップを上がるのを付き添うセルフィにそう言うと、アーヴァインは研究所の中に戻って行った。
セルフィは自分の担当ブロックの所員が皆飛空艇に乗船したのを確認すると、シュウの所に戻った。
「シュウ、どうしてアーヴァインが中に戻るの許可したの?」
「あんなに頼み込まれるとね〜、あのブロックにモンスターはもういないんだろ?」
「それはそうだけど……でも、見てない部屋もあるから分からない」
「いつものセルフィらしくないな。気持ちは分かるけど、信じてやったら? アーヴァインだって高ランクのSeeDだぞ」
シュウは元気づけるように、セルフィの背中をポンと叩いた。
「お、スコールとゼルが帰ってきた」
セルフィにウィンクをすると、所員たちを連れて戻ってきたスコールとゼルの方にシュウは歩いていく。
どうやら彼らが最後のグループだったらしい。ゼルの顔は明るく、シュウと話をしているスコールもまた無表情の顔は幾分和らいで見えた。
「アーヴァインは?」
「まだ中」
キョロキョロと辺りを見回しながら問いかけてきたゼルに、セルフィは短く答えた。
なんでだ? とゼルの口が動いたけれど、スコールの、「飛空艇まで誘導しろ」と言う声が被さり、彼は続きを言うことなく任務に戻った。
「これで残っていた所員の避難は完了と。後はアーヴァインが戻って来たら、私たちも帰るよ。もう何もないと思うけど、セルフィここまかせていいか?」
シュウは持っているノートタイプの端末をパチと閉じると、安堵したように息を吐いてセルフィの前に立った。
「いいですよ、アーヴァインを待つだけなんですよね?」
「そうだ。じゃ頼むね」
そう言うとシュウは研究所の外へと足を向けた。
シュウの姿が消えるとセルフィはふぅと溜息をついた。
「お人好し……」
アーヴァインが入って行ったであろうドアに向かって呟く。
時間を確認すると12時43分。タイムリミットまで残り20分弱。意外と早く片付いたんだなとセルフィは思った。20分もあれば、あのブロックを往復するくらいは余裕だ。
それでも誰もいない空間で一人待つ時間は、早いのか遅いのか流れる速度が全く分からず、と言うより恐ろしく遅い。それがまた不安を掻き立てる。
「アービン、そっち大丈夫? あたしも行こうか?」
不安を払拭するように、セルフィはインカムで通信を試みた。
「大丈夫だよ〜、もうそっちに向かってるトコだから。モンスターもいないから安心して」
その声を聞いてやっと少し安心出来た。
「分かった。通信はしててもいい?」
「いいよ〜。そんなに僕のコト心配してくれるんだ。それとも僕がいなくて淋しい?」
「ちがっ……わないケド……」
「え、ホントに!?」
「そんなに驚かんでもええやん」
「うわー、今めちゃめちゃ嬉しいんだけど、セフィが目の前にいないのが残ね……」
突然アーヴァインの声が途絶えた。
「アービン。……アービンッ!?」
セルフィは妙な違和感を感じて名前を呼んだ。けれど、耳障りな雑音はすれども返事は返ってこない。
単に通信を切っただけかもしれない。確かめる為に、今すぐ目の前のドアの向こうに行きたい。しかしそれは、命令違反だ。でもシュウは後はアーヴァインが帰ってくるのを待つだけだと言っていた。なら――――。心の中で激しい葛藤が続く。それを理性で押し込め、セルフィは待つことを選んだ。
だが、5分が過ぎても、10分待ってもアーヴァインからは何の応答もない。何事もなければもう戻ってきても良い時間だ。
「アービン、そっちはどんな?」
もう一度問いかける。
相変わらず雑音だけでアーヴァインの声は返って来ない。
「アービン、返事してっ!! アービン、アービン!」
必死で名を叫ぶ。もうセルフィにも分かるくらい涙声になっていた。そのセルフィの背後へ近づく者がいたが、彼女は全く気づかない。
「……アービン、いやだ……なんで」
もう時間がない。待ってなんかいられない。窮地に陥っているのなら、自分が助けなければ!
セルフィはアーヴァインの所へ向かおうと床を蹴った。はずだった。が、腕を何かに拘束されて動けない。後ろを振り返れば、冷徹な瞳と目が合った。
「セルフィ落ち着けと言っているのが聞こえないのか!?」
そんなもの全然聞こえなかった。セルフィはふるふると頭を振る。
「シュウから聞いた。アーヴァインはまだ戻らないのか?」
言葉にするには辛く、セルフィは頷くことで返事にした。
「どこに居るのか分かっているのか?」
「大体は……」
「はっきりしないな。そんな状態で中に入ろうとしてたのか?」
セルフィはぎゅっと唇を噛みしめた。そうだった、正確なアーヴァインの居場所は分からない。さっき自分たちが入っていない部屋もあったはずだ。自分の担当ブロックの所員たちは固まっていて、他の部屋にはいないと言われたのだ。だから、入っていない部屋もある。もしそこを指定されていたら……。もしその部屋にはまだモンスターがいたら……。
「離して、スコール! あたし、行く!」
「ダメだ! ここで待つんだセルフィ。アーヴァインを信じろ」
スコールはセルフィを掴んだ腕に力を込め、叱責する。
「けど、スコール。もう時間が……時間がないよ……」
こうしている間にも時間は過ぎている。ガスが放出されるまで、もう3分を切った。
「だったら尚更行かせられない。セルフィまで――」
そこで言葉を切り沈痛な顔をしたスコールに、セルフィは最悪の事態を突き付けられた気がした。途端心臓が壊れたような早さで胸を打つ。
「アービンとこ……行く」
「ダメだ」
脚の力が抜け、ずるりと崩れたセルフィを支えながらスコールは言い放つ。
「どう……して……」
尋常ではないセルフィの有り様にスコールは逡巡した。
「分かった、俺も一緒に行く。ただし猶予は1分だけだ。1分経てば、アーヴァインを見つけられなくても帰還するぞ」
セルフィは崩れた足のまま、こくんと頷いた。
ドアの向こうは静まりかえり、通路を走るスコールとセルフィの足音以外の音は聞こえなかった。さっきと同じルートを辿り、セルフィはアーヴァインの名を呼びながら、ひたすら走った。一度通ったはずの場所なのに、初めてのように広く遠く感じる。心臓はもう、自分のものではないように、それだけが別の生き物のように激しく動いている。
「時間だ。セルフィ、戻るぞ」
「え? でも、まだ……」
アーヴァインには会えていない。
「帰還する」
走るのを止めないセルフィの腕をスコールは二度握った。
「いやっ、離してっ! スコール一人で戻って!」
「ダメだ!」
強い力でスコールの手を振り解こうとするのを彼は許さなかった。
「いやっ!!」
激しく拒絶し抵抗を続けるセルフィを、スコールは強引に建物の外へと引っ張り出す。
それを見計らったように二人のすぐ後ろ、ガラスのドアの内側で、防護扉が上から降りてくる。
「いやーーーーっ!! 離してっ!! アービンッ!!!!」
暴れるセルフィをスコールはけして離さなかった。やがてセルフィの目の前で無機質な音と共に、無情にも防護扉が完全に閉まった。
「スコールのバカ! なんで離してくれへんかったん! あたしは、あたしも……」
八つ当たりでスコールの服を引っ掴みぐいぐい揺さぶるセルフィに、彼はされるがままになった。しばらくそうしているとセルフィの力は弱くなり、ただ泣くだけになった。殆ど自分を支える力も失っているであろうセルフィを支えるのが、今の彼の精一杯だった。
責任者としては正しい行動ではあっても、感情の部分ではセルフィと大差はない。声を殺して泣くセルフィの姿は、彼そのものの痛みでもあった。
「セルフィ、いつまでもこうしていてもいけない、ラグナロクに……」
セルフィを立たせようと腕を引いたら、ぐっとセルフィの重みが増した。全身の力が抜けた身体を慌てて支え、顔を見れば、今まで涙にくれていた翠玉の瞳は閉じられていた。
「気を失ったのか」
その方がいい。これで抵抗されずに、悲痛な顔を見ずに連れて帰ることが出来る。スコールは安堵とも溜息ともつかぬ息を吐いた。次の行動に移るべく視線を上げると、視界の端に何か動くものが見えた。と同時に、生き物の気配も感じた。もしや運良く研究所から逃げ出たモンスターか!? と腰のガンブレードに手を掛けた時、気の抜けるような声がした。
「死ぬかと思ったよ〜」
声のする方を見れば、呑気な顔をして歩いてくるこの騒ぎの元凶の姿があった。それともう一人、アーヴァインに無理矢理歩かされているのか、足取りの重い男の姿もあった。
いつもと変わらぬ足取りで歩いてくる姿に、セルフィの代わりとばかりにふつふつと湧き上がる感情があったが、それをぶつけるのもバカらしく思え、スコールは言葉を呑み込んだ。どうせこの後、セルフィにこっぴどく叱られるんだろう。そう思うと、自分の感情はどうでもよくなった。
「逃げ遅れていた所員か?」
既に責任者然とした声でスコールは問うた。
「うわっ スコール、セフィ抱きかかえて何やってんのっ!?」
スコールの問いは見事に無視された。
「それは後だ。先にそっちを説明しろ」
その脳天気ぶりに、スコールはかなり苛ついた。
「え? ああ、出口に向かってる途中にね、この人見つけたんだけど、僕を見たら逃げるんだよ。モンスターがウロウロしてるってのに、めちゃくちゃ怪しいでしょ。でムキになって追っかけて捕まえたんだよね。そしたら、ここガスが放出されることすっかり忘れててさ、時間なくて焦ったよ〜。コイツが抜け道とか知らないかな〜と思ってどついたら、あっさり教えてくれて、何とかあっちの出入り口から出られたってワケ」
アーヴァインはくいっと親指で、歩いてきた研究所の右側の方を示した。スコールのいる所からはちっとも見えなかったが、アーヴァインがここにいるということは、自分たちとは別の出入り口から出てきたのだということだけは分かった。
「分かった。じゃ、その人は俺が連れていく。こっちはお前に任す。ちゃんと責任取って殴られてやれ、命令だ」
スコールは抱きかかえるようにしていたセルフィをアーヴァインに押しつけた。代わりにアーヴァインが連れてきた男を引き取ると、「セルフィは気を失っているだけだ」と付け加え、男を引き摺るようにして足早にその場を離れた。
「ええっ、気を失ってるっ!? と、どうしたら、え〜と、え〜と、どっか座るトコ」
取り敢えず落ち着こうと、座れる場所をアーヴァインは探した。辺りをぐるりと見回すと、今出てきた側とは反対側に芝生があるのを見つけた。
セルフィを膝の上に乗せて芝生の上に腰を降ろす。
「セ〜フィ、起きて。みんな帰っちゃうよ〜」
頬をペチペチと叩きつつセルフィの名を呼ぶ。
『こりゃ殴られるのは確実だな〜。変なトコで通信切っちゃったもんな〜』
まだ濡れている、幾筋も涙の流れた跡を拭いながら覚悟をする。
通信を切ったのは、くだんの男を見つけた為だった。こんな所に放置は出来ない。捕まえなければと、そっちに意識を取られ、通信中だったことはスポーンと頭から抜けた。やっと捕まえたら、今度はタイムリミットが迫っていることに気がつき、また大慌てだった。こんな所で死ぬワケにはいかない。あーんなことやこーんなこと、自分の野望はちっとも果たせていないのだ。それを成し遂げるまでは絶対に死ねない。もう必死で走った、何も考えずにただ出口だけを目指して。
だから、自分を待っているセルフィがどんな思いをしているかとか、全く思いやる余裕はなかった。
「ごめんね、セフィ。ひとことでも声を聞かせるべきだったよね。ごめん」
アーヴァインはセルフィを思いきり抱きしめた。自分の名を叫ぶセルフィの声が今頃になって聞こえる。彼女に酷く辛い思いをさせてしまった。謝っても謝りきれない。セルフィは、あれほど心配してくれていたのに。
「ごめん、セフィ。ホントにごめん」
「……ん…」
「セフィ!?」
腕の中のセルフィが僅かに身じろいで、アーヴァインは腕の力を緩めた。じっとセルフィの顔を見つめれば、ゆっくりと双眸が開いた。ぼや〜とした表情が見る見る驚きに変わっていく。
「アービン!?」
「うん、僕」
アーヴァインはもう一度セルフィを抱きしめた。
「アービンのバカッ!! 死んだと思ったやん!!」
セルフィはアーヴァインの胸を、どん、と叩いた。
「うん、ごめん」
「アービンのバカッ! アービンの……バカ……バカ…」
どんどんとアーヴァインの胸を叩く力が弱くなるにつれ、セルフィの声が涙で途切れていく。
絶対、目が覚めたらまず鉄拳制裁だと思っていた。スコールが言ったように、今までのセルフィならそうしていたと思う。
けれど。
「ごめんね、セフィ。心配させちゃって」
叩くのを止めた代わりに、胸にしがみついて泣きじゃくるセルフィに、アーヴァインの胸はかつてないくらいに痛んだ。
殴られるよりも数倍痛い。
「……アービン、が……おらんように…なった、ら……あたし……どうしたらええか…………わから、へん」
「セフィ――」
胸の痛みは相変わらずだけれど、そこに甘やかさが加わっていくのをアーヴァインは禁じ得なかった。
そして出来ればもうしばらく、この疼くような甘い痛みをこの手に抱いたままでいたい。
セルフィが羞恥に我を取り戻すまでは……。
アーヴァインはしょっぱい涙を唇で受けながら、そう願った。
ラグナロクで待つゼルたちからも鉄拳制裁ですね。その後、アーは一晩かけてセルフィに謝ればいいと思います。
(2009.06.15)
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