明け切らぬ薄暗い蒼灰色の空。
頂きにある大きなリングも、今はその光を落としている。
未だガーデンは静かな眠りの中にいた。
女子寮の一角、小さな窓から心許ない明かりが漏れている。
夜着の上に薄手のカーディガンを羽織り、メガネをかけ、ディスプレイの明かりだけで、無言で何かに追い立てられるように端末を操作する音だけが、その部屋には響いていた。
机の脇に置いてあった携帯が、ヴヴヴヴという振動で着信を知らせる。
「はい、キスティスです。……はい、…はい、連絡は受けています。今ゼルを向かわせています。私も、これから直ぐに向かいます。……はい、後で」
キスティスは電話を切ると、データを記録したディスクを端末から抜き出し、小さなバッグに入れた。近くにあった栄養補助食品のスティックを一つ口に放り込み、夜着をパパッと脱ぎ、外出着に着替える。次に手早く顔を洗い髪を整えて、さっきのバッグを掴むと、急いで自室を出た。
足音を抑え、けれど出来る限り急いで目的の場所へと向かう。
目的の部屋の前で、近くに誰も居ない事を確かめると、インターフォンを押して中に居る人物の応答を待つと、直ぐにドアが開いた。
「どう?」
部屋に入り、出来るだけ冷静な声でそこにいる人物に問う。
「見ての通りだ」
その有様に、さっきまで半信半疑だった内容は、目の前に現実として横たわり、否応なしに受け止めざるを得なくなってしまった。
「代わるわ、ゼルはラグナロクの発進準備をして来て。許可は下りてるから」
「わかった。直ぐに飛べるようにしとく」
普段は、無駄に騒がしいゼルも、必要な事を言う時間すら惜しいという様子で、足早に次の行動に移った。
「どうだい?」
ゼルと入れ替わるようにして、些かふくよかな妙齢の婦人が入ってくる。キスティスは、言葉にせず、首を横に振って答えた。婦人も、何も聞くことなくキスティスの反対側に膝を付き、何時も彼女の持ち歩く鞄から必要な物を取り出し、てきぱきと処置を始める。キスティスも、婦人の指示通りに彼女の仕事を手伝った。一通りの処置が終わった頃、ゼルから『準備が出来た』と連絡が入った。
「ラグナロク、もう飛べます」
「こっちも、もうすぐ来ると思うよ」
婦人が言い終わると程なくして、静かにこちらに向かう数人の足音が聞こえた。
部屋に入って来たガーデン職員達に、婦人が指示を出す。職員達は、無言で素早く指示通りに動いた。
「じゃ頼んだよ。キスティス、あんたも気をつけて」
悲痛な面持ちで肩を叩いた婦人に、「はい」と作り笑いで答えて、キスティスも職員達と共にこの部屋を後にした。
※-※-※
「あふ〜」
セルフィは、大きな欠伸をしながらベッドから降りた。窓のカーテンをチラリと開けて外を覗く。空は漸く明るくなり始めたようだった。
「う〜ん、トラビアか〜、みんな元気かな」
懐かしい友の顔を思い浮かべながら、ケトルに水を入れコンロのスイッチを入れた。お湯が沸くまでに洗顔を済ませ、何も入れないストレートの紅茶と昨日買って置いたドーナツで朝食を摂る。
「みんなとご飯食べる位の時間はあるかな」
心は既にトラビアでの会議より、友との再会の事ばかり考えていた。
どうせ、会議の後休暇なのだから、そのまま休暇をトラビアで過ごしてもいいかな、出来れば両親にも会いたいし。着替えもその分持って行こう。アービンは多分、まだ外任務はないと思うし、気持ちを伝えるのはトラビアから帰って来てからでも、時間はあると思う。そうしよう! とセルフィは、食べ終わった朝食の後片付けをしながら思った。
「よし、出発」
朝のピンっとした空気に清々しさを感じながら、駐車場に向かう。
「宜しくお願いします」
運転手のお兄さんに挨拶をして、車に乗り込むとお兄さんも「今日は良い天気ですよ」と笑って答えてくれた。
薄暗い駐車場を出ると、すっかり朝日が昇り、空は綺麗な青色をしていた。車の窓からその綺麗な空を仰ぐと、キラリと光を反射して飛んでいく真紅のラグナロクの姿が見えた。珍しく最高速度かと思える位、その天翔る紅龍の姿は、あっという間に見えなくなった。
「なんかめっちゃ、急ぎなんやな」
その、操縦席で感じた爽快なスピード感を思い出しながら、セルフィは前方に視線を移した。
バラム港からガーデンの高速上陸艇で、アルバトロス諸島の北端近くにある、ホークウィンド平原の小さな港に向かう。元々トラビアは人口が少ない上、利用者もあまりいないので、冬に差し掛かった港は閑散とした様子が一層寒さを感じさせた。
バラムとは違う、少しひんやりとした空気に一つ深呼吸をして、港から出てきたセルフィに、トラビアガーデンからの迎えの人物が、軽く会釈をしたのが見えた。その姿にバラムガーデンの代表としてこの地に降り立った事を思い出し、セルフィは背筋を伸ばし、踵を合わせてSeeD式の敬礼をした。
港を出て数時間が過ぎた頃、窓外に懐かしい風景が見えて来た。アルティミシアを倒してから一度だけ訪れたトラビアガーデン。その時には、以前の無惨な姿も殆ど見る影はなく、新しく生まれ変わりつつあった。あれから更に数ヶ月、入り口に立って見上げた懐かしい学舎は、以前と変わらず、むしろ以前より美しくそして力強く、太陽の光の下、輝くような白磁の佳容で悠然とそこにあった。まるで、この土地の人々明るさ、何事にもへこたれない粘り強さを現わすかのように。
セルフィは、その姿に胸が熱くなった。ミサイル攻撃の後ここを訪れた時の、押し潰されるような胸の痛みが、漸く解放されたような、漸く赦して貰えたような。そして、一抹の淋しさも感じた。ここは確かに自分の知っているトラビアガーデンだが、以前のトラビアガーデンともどこか違う。数ヶ月前ここを訪れた時にも感じた、僅かな違和感。否応無しに感じた時の流れ。自分から望んでこの地を離れたのに、変わって欲しくないなどと思うのは、ただの我儘だ。
セルフィはガーデンの中を案内係に従い黙って歩いていた。目に入ってくる通路や教室その他の場所も、自分が憶えている通りの所にある、配置も作りも以前と同じ。なのに、友達とふざけていて付けてしまった階段の手摺りの傷や、誰かが爆竹を廊下で爆発させて傷んだ壁の修理跡などは、もうどこにも無い事が、淋しかった。
今はバラムガーデンの方が懐かしい、たった二年足らずしか過ごしていないのに。それだけ濃い日々だったという事か、それとも、その人がそこに居るからなのか……。
「こちらでお待ち下さい」
小さな、真新しい部屋に通された。壁の白さが少し眩しい。座り心地の良い椅子に腰を降ろし、セルフィはふうと溜息をついた。
『まだトラビアガーデンに着いて、一時間も経っていないのに、もうホームシックかい?』
ふと、アーヴァインの声が聞こえたような気がした。そうだね、おかしいよね、と自嘲する。
「あ、そうだ、休暇をそのまま取れないか、キスティスに訊いてみよ」
携帯を取り出して、キスティスに電話を掛けてみる。だが、どういう訳か何度掛けてみても、繋がらなかった。通信状況が悪いのか、電源が入っていないとエラーメッセージが流れるばかりだった。
「う〜ん、会議の後でまた掛けてみよ」
セルフィが、携帯の電源を落とした時、丁度会議の案内に係の人が呼びに来た。
会議の内容は、確かに重要なものではなかった、などと言ったら、スコール辺りには叱られそうだが。これまでのトラビアガーデンの復興状況の報告を聞いて、後は質疑応答。妙にややこしい質問をする者もおらず、会議はスムーズに進み予定より早く終わった。キスティスの言ったとおり、本当に終始座っているだけでいい会議で、セルフィは途中何度も襲い来る睡魔と必死に戦った。バラムガーデンの代表として醜態を晒さないように、そりゃあもう必死で。
『これなら、はんちょじゃなくても誰でも良かったやん。いい加減、何でもはんちょに頼る体質は変えんとあかんなあ』
大きく欠伸をしながら、セルフィは通路を歩いていた。
「天下のSeeD様が、その大あくびはみっともないで〜、セルフィ」
前を歩いていた、案内係の少女がセルフィを見てクスクス笑っていた。
「ええやん、もうテルキナしかおらへんもん。それより、ご飯食べに行こう!」
「セルフィ、いい加減ファーストネームで呼んでや!」
「え〜、こっちのがかっこええやん〜」
「相変わらずやなセルフィは」
腰に両手をあて頬を膨らませる旧友。バラムガーデンの代表ではなく、すっかり悪友の顔に戻ってしまったセルフィに、仕方がないな〜と、大げさに溜息をつきながらも、瞳は優しく笑っていた。
他の旧友数人も交えて、食堂で食事を摂った後、セルフィはもう一度キスティスに連絡をしてみた。だが、結果はさっきと同じで、何度かけ直しても繋がらなかった。
食事の後は、用意された来客用の部屋ではなく、旧友の部屋に入り込み、再会を祝して(という名目で)、仲の良い友人達と色んな事を話ししたり、お菓子を食べたりの、楽しい時間を過ごした。
「な、セルフィ、彼氏出来た?」
友人の一人が唐突に訊いてきた。他の友人達も一斉に動きを止め、セルフィの答えに注目していた。
「え〜!? ん〜 どうやろか〜」
曖昧に言葉を濁してみた。だが、そこはトラビア気質の面々には全く通じず、泳ぎまくっているセルフィの動揺まみれの視線はすぐに見抜かれ、結果皆に「白状しろ」と半ば冗談、半ば本気で詰め寄られ、セルフィは観念するしか無かった。
「好き…な人は、いてる」
セルフィはやっとそれだけ、ぼそっと言った。と同時に室内にどよめきが走った。
「良かったわ〜、セルフィ。ちゃんと女の子やってんな〜」
「なんや、それ。失礼やな〜」
あまりに、あまりな台詞にセルフィは抗議しかけたが、他からの台詞の方が早かった。
「心配しててん、セルフィ、最低男につきまとわれてたやろ。せやから、男嫌いになっとらへんかな〜って」
その言葉にセルフィは虚を突かれた。
自分以外にあの男の本性を知っている者はいないと思っていた。けれど、今の言葉は――――。
「知ってたん?」
セルフィの問いに、友人達は無言で頷いた。
そうだったのか、知っていたのは自分だけじゃ無かったんだ。ほかにも嫌な男だと思っていた人が居たんだ。セルフィは、訳もなく涙が溢れるのを感じた。俯いて僅かに肩を揺らすセルフィを、隣にいたテルキナが優しく手を握ってくれた。
「ごめんな、セルフィ気付いてあげられへんで。一人でつらい思いしてたのに」
「セルフィがバラムに行ってから判ってん」
「ごめんな、セルフィ」
友人達の言葉に胸が詰まった。言葉が温かい奔流となって心に流れ込んでくる。セルフィは、友人達の手を握って、涙を流れるに任せた。
「セルフィ、さっきの好きな人とは、どうなん?」
目の赤さの引かぬ顔で、友人の一人に訊かれた。
「ん〜 好きだ、とは言われた」
まだ、しゃくりあげていた友もいたが、セルフィの言葉に室内の空気は、瞬時に少し前の明るく好奇心に満ちた空気に戻る。
「うわ、やったやん、セルフィおめでとう」
「おめでとうはまだ早いよ、あたしはまだ気持ちを伝えてへんし」
「そんなん決まったようなもんやんか、心配しとってんで。セルフィだけ彼氏が出来ひんて」
「何やのそれ、みんな彼氏おるん?」
「うん」
セルフィ以外の全員が、こくんと頷くのが見えた。
「そっか〜」
「な、今度来る時は絶対その彼氏連れて来てな」
「彼氏になってくれたらね」
一拍おいて答えた。そりゃ、そう出来たら嬉しいけど、まだどうなるかは分からない。
友人達の勢いに気圧されたじたじになったが、セルフィの心はとても穏やかで温かだった。アーヴァインにきちんと気持ちを伝えようと決心してから、不思議と吹っ切れた気がする。ひょっとしたら、もう今更遅いよと言われるかも知れない、他に好きな人が出来てしまっているかも知れない、それでもきちんと伝えたいと思う。それで今までの関係には戻れなくなってしまっても、その時はその時。只何もせず、このまま時間を過ごしても、けして良い結果になるとは思えない。逃げるより、当たって砕けろ。そうやって生きて来たのが自分だ。
出来れば砕けたくはないけど、ね。
『なんか、アービンの笑顔が……めっちゃ見た…い……』
思い思いの場所で眠る友人達の姿をぼんやり見つめ、自分も目を閉じながら、セルフィは思った。
セルフィは、殆ど眠らないまま朝を迎え、友人達と再会を約束して、トラビアガーデンを後にした。
この時期特有のこの地方の天気、どんよりとした空から、白い淡雪がふわりふわりと落ちてくる。
『妖精たちのおくりもの…』
その一つを手の平で受け、解けていく様を眺めセルフィは呟いた。
バラムガーデンに着くのは、あと数時間後。そしたら、アーヴァインに会える。昨夜決心をしてから、とても会いたい。少しだけでもいい、あの温かな笑顔が見たい。
今日ばかりは高速上陸艇の速度が、とても遅いように感じられた。
※-※-※
バラムガーデンの駐車場に着き、車から降りるとセルフィは走った。
幸い、昼食のピーク時間は過ぎ通路にはあまり人がおらず、大きなバッグを抱えて走っても、誰かにぶつかって迷惑を掛けてしまうという事は無かった。
一端自室に戻って荷物を置いてから行こうかと思ったが、今やそれすらももどかしい程に、セルフィはアーヴァインに会いたかった。
アーヴァインの部屋の前、乱れた呼吸を整える為、ゆっくりと深呼吸をしてから、インターフォンを押す。呼吸こそ幾分落ち着いたものの、心臓のどきどきは収まるどころか大きくなる一方だった。アーヴァインが出て来たら、何て言おう。いきなり「好きです」と言うのも、何だか気恥ずかしい。そんな事を考えながら、アーヴァインの応答を待った。が、いっこうに返事が無い。ガーデン内にいるのは間違いないはず。ひょっとしたら、講義かデスクワークかも知れないと思いつつも、セルフィはもう一度インターフォンを押した。
だが、返事はない、扉の向こうにも何の気配も感じない。
セルフィは突然不安に襲われた。何故不安なのかは解らない。冷たい何かが、つま先から身体の中を駆け上がるように通り抜けていくのを感じた。
『アービン、どうして出てくれへんの?!』
早く会いたい、堪らなく会いたい。そして伝えたいのに、その笑顔を見て安心したい。
何度インターフォンを押しても、アーヴァインは返事をしてくれない。
「アービン」
セルフィは、ドアに縋るようにくず折れた。
「セルフィ! 見つけた」
のろのろと声のした方へ顔を向けると、リノアが息を切らせて走って来るのが見えた。
「リノア…、アービンがいてへん」
いつの間にか、セルフィの頬をポロポロと涙が伝っていた。
「セルフィ、一緒に来て、早く!」
リノアは、セルフィの言葉を待たず、腕を強引に引っ張って彼女を立たせる。
「何!? リノア、あたし、アービン探して…」
「分かってる、一緒に来て」
セルフィに喋る隙も与えず、セルフィのバッグを肩に掛けると、リノアは手を引っ張って走った。セルフィは、リノアに引っ張られながら、何時もと全く違う乱暴な態度の彼女に戸惑い、更に不安になった。
さっきから、心がざわざわとする。
「ラグナロク?」
今通って来たばかりの駐車場を抜け、更に奥へ向かって走ると、エアポートに出た。周りの空気を揺らめかせてエンジンを点けたまま、静かに停まっている真紅の機体。
「うん、乗って」
リノアは、何かを押し殺したような顔で、セルフィに乗船を促した。
任務でもないようなのに、ラグナロクの使用許可が出る程、自分の知らない所で何かが起こっている。リノアの様子にセルフィは、ますます不安が大きくなっていくのを感じた。
機体の下、タラップを上がり客室へ向かう。途中何かが落ちているのを見つけた。どこか見覚えのある――。セルフィは、無意識のうちにそれを拾った。
「このストラップ……」
それは、セルフィの良く知っているストラップの付いている携帯電話。以前アーヴァインと一緒にバラムの街へ行った時、「どっちがいい?」と訊かれ、セルフィが選ばなかった方の……。
心臓が……痛い。
ばらばらだった点と線が繋がったような気がする。
不安が――――、否定したい不安が、ぼんやりとその正体を現わそうとしている。
知るのが怖い、でも……。
大丈夫、きっと自分の思い過ごし、リノアはきっと質の悪い悪戯でごめんねと笑ってくれる。
「リノア、アービンに何があったん?!」
※-※-※
不思議な色の高層建造物が密集する都会(まち)。静かに降り立つ真紅の龍。幾本もの透明のチューブの通路。薄い色の金属の扉。初めて訪れる白い建物。鼻をつく消毒液の臭い。
―― どこにいるの!? どこに…… ――
懸命に走るのに、自分の足の動きは酷く愚鈍で、そこに辿り着けない。
―― 嫌だ! 絶対に嫌だ! ――
目の前の景色が、歪んで見えない。息が、胸が苦しい。
自分を呼ぶ仲間の声が聞こえ、顔は見えるのに、全部頭を素通りしていく。
―― 違う! あたしが捜しているのは、あなた達じゃない! 彼に逢わせて!! お願いだから……
――
「セルフィ!」
ゼルの声がする。今抱き留めてくれたのは、ゼル?
「落ち着いて、……セルフィ」
キスティス、どうしてそんな悲しい声で言うの?
「セルフィ、すまない」
なんで、はんちょが謝るの?
透明な壁の向こう、更に隔離された白い部屋。
見たことのない機械と器具。
ベッドに横たわっている人。
緩くウェーブの掛かった茶色の髪。
目を閉じた、良く知っている――貌。
「なんで…アービンなん……なんで…」