「あー、やっと長かった任務もこれで終わり、バラムに帰れるぞーー!!」
アンティークゴールドの柔らかなウェーブが掛かった髪を後ろで緩く縛っている長身の青年は、まるで今の気持ちを表すかのように青く広がった空に向かって大きく伸びをした。
「最初今回の任務は楽勝とか思ってたけど、以外とキツかったな、アーヴァイン」
アーヴァインと呼ばれた青年よりも頭一つ小さい栗色の髪の青年は、同僚の肩に手を置きしみじみと言った。
「やっと彼女に会えるね、ロイ。彼女の事だから君に会いたがってるんじゃないのかい〜」
「そうだったらいいんだけど、今回の任務の直前にケンカしちゃてね、そのまんま今回の任務に来たからねー」
栗色の髪の青年は、任務終了の喜びも束の間がっくりと肩を落とした。
「そうか〜、早く仲直り出来るといいね」
「そうなんだよなー、もうどうしたらいいか……なんてね」
栗色の髪の青年は、彼女とケンカしていると言ったにも関わらず何やら不適な笑みを浮かべていた。
「なんてね!?」
「昨日、ホテルの従業員君からね、いい話を聞いたんだ」
「いい話って?」
そんな風に言われると何だかドキドキワクワク、ついでに瞳までキラキラしてしまうアーヴァインだった。
「知りたいかね、キニアス君」
栗色の青年は口の端をくいっと上げ、横目でチラリとアーヴァインを見た。
「うんうん!」
嬉しそうに首を縦に振るアーヴァイン、そのうちフサフサした耳とシッポまでポンッと現れそうだ。
「昨日、俺たちが泊まっているホテルの従業員君から聞いたんだけどね……」
「うんうん、それで」
周りを見回しても彼らの話し声が聞こえそうな範囲には誰もいなかったが、栗色の髪の青年は、アーヴァインの肩にガッと腕を回し腰をかがめて小声で話し始めた。
「地元の恋人がケンカをした時に効果バツグンて噂の、仲直りの丸秘アイテムがあるんだと」
「それは気になるね〜、是非とも欲しいところだね」
「だろだろー」
そのアイテムの信憑性に関わらず、この手の話で盛り上がるのは若者の常か。
「昨夜寝付けなくてホテルのラウンジで、どうやって彼女と仲直りをするか色々考えててさ、んで丁度コーヒーを持ってきてくれたウェイター君と話をしている内に、彼女とのケンカの事になったワケよ」
「その、ウェイター君が “丸秘アイテム” の事を教えてくれたと?」
「そうそう、そのアイテムってのはスウィーツらしいんだが、これがそう簡単に手に入る物じゃないらしく、ウェイター君が特別にスウィーツを売っているお店に予約を入れといてくれたんだ、これその店のアド」
小さなメモを取り出し、ピランと高く掲げる。もう、こそこそと話をしていた事はどうでもいいようだ。
「おお〜 流石恋愛の達人ロイ、抜かりないね〜」
彼女とケンカ中だと項垂れていた栗色の髪の青年が、恋愛の達人かどうか甚だ怪しいが、こういうのはボケに対するツッコミのようなものだろう、たぶん、きっと……。
「でだ、キニアス君。彼女のいない君には無用の物だろうが、どうだね君も一緒にその店に行かないかね」
最早、彼女との仲直りは確定されたかのように、意気揚々の栗色の髪の青年であった。
アーヴァインは、彼女がいないんじゃなくてセフィが内緒にしたがるんで、彼女が居ない振りをしているだけなんだけどね〜と心の中でちょっと反論をしたが、それよりも丸秘アイテムへの好奇心の方が遙かに強かったので、「是非お供させてくださいっ!」と元気一杯返事していた。
「う〜ん、この辺だと思うんだけどなー」
「ないね〜」
二人は宿泊していたホテルをチェックアウトし、“予約して貰った店”はそう遠くもなく、また駅へ向かう途中にあるという事だったので、街中を歩いて行く事にしたのだった。だが店の近くまで来てみると、その店の在る辺りは旧い通りの一角らしく細い路地が入り組んでいてなかなか“予約して貰った店”を見つける事が出来なかった。
石畳のそう幅の広くない通りを体格の良い青年二人が、初めて都会に出てきた少年の如くキョロキョロとメモを見ながら歩く様はなかなかに目立つ、見目も悪くないので更に目立つ。
そのいかにもな姿に気が付いたのだろう、近くの店から出てきた若い女性が二人に声を掛けて来た。
「何かお探しですか?」
メモを持っている栗色の髪の青年にでは無く、アーヴァインの方をまっすぐに見て。またコイツかよと、少しムッとしたがハンサムだと自負している栗色の髪の青年はそんな事ではひるまず、メモを差し出した。
「この店を探しているんです」
「あぁ このお店なら、今私が出てきたお店がそうですよ」
女性はにっこりと笑い、今自分が出てきた店を指さして教えてくれた。
「あ、本当だ。ここです、この店です。すぐそこだったのかー」
栗色の髪の青年は髪をくしゅっくしゅとかき混ぜた。
「教えて頂いてありがとうございます、助かりました」
アーヴァインは柔和な微笑みで、女性にお礼を言った。
「いいえ、お探しの店が見つかって良かったですね。あの、もしよかったら、そのお店でお茶も飲めますので、ご一緒しませんか?」
これまた、アーヴァインの方に向かって女性は言った。
「それじゃ、お言葉に…」
栗色の髪の青年が、コホンと小さく咳払いをしてそう言いかけたとほぼ同時に、
「いえ、僕たちお店を探すのに時間が掛かってしまって、乗らなければならない列車の出発時刻まであまり時間がないんです。ですから、非常に残念なのですが……」
そう言ったアーヴァインの声が、いつもより幾分低く艶やかで、且つ感情の入りっぷりに、栗色の髪の青年はうっかりすっかりうっとりしかけた。
「そうでしたの、残念です。この次お会いしたときは是非」
「はい、是非」
と柔らかく微笑んでいるアーヴァインと、半ばポカーン状態の栗色の髪の青年に「さようなら」と言って女性は去っていった。
「何で、断ったんだよ! あんな美人が誘ってくれたってのに」
女性の姿が路地の角を曲がる頃、栗色の髪の青年はようやく我に返り、旅先での滅多にない麗しい出逢いをあっさり無下にしたアーヴァインを咎めた。
「ロイ、そういう事してるから彼女とケンカになったんじゃないのかい〜」
痛い所を突かれたというか、彼女とのケンカの原因が何だったのか、何の為に足を棒にしてここまで来たのかやっと思い出した栗色の髪の青年だった。
「おまえ、エスパーか?」
「いんや、人間観察が趣味なだけ」
「何か、今一瞬師匠と呼びたくなったぞ」
「経験値低いから無理」
アーヴァインはにこっと笑ってそう返した。
「そうか…」
「そんな事より、急がないと本当に列車に乗り遅れるよ!」
栗色の髪の青年は、さっきの一連のやり取りで、アーヴァインはひょっとしたらなかなか恋愛慣れしているんじゃないかと思ったのだが、自分の検討違いだったという事が判って少々残念だった。
「うーん どれも美味しそうだね〜、迷っちゃうね〜」
栗色の髪の青年が、例の“丸秘アイテム”の事で店員とやり取りをしている間、アーヴァインはセルフィへのお土産を選んでいた。
ふと、“当店のおすすめ”というポップと共に桃のパイが目に入った。普通のホールサイズの半分位のサイズで、持って帰りやすさと、何よりセルフィも好物だったので、この桃のパイをお土産にする事にした。
「このピーチパイを下さい」
「ありがとうございます」
店員が手際よく梱包している間隣を見てみると、そちらも丁度“丸秘アイテム”を受け取った所のようだった。
店を出ると、いつの間にか通りの向こうの隙間から夕日が差していた、
駅に着いて程なくするとアーヴァイン達の乗る列車がホームに入ってきた。
向かい合った座席にどっかりと座ると、栗色の髪の青年は「ふぅー」と大きく息を吐いた。
「バラムガーデンに着くまで後ちょっとかー、待ち遠しいような、そうでないような……」
「大丈夫だよ、君がこのお土産を渡して彼女にちゃんと謝れば」
「おいっ オレが悪者かよ」
「違うのかい?」
アーヴァインは悪戯っぽく言った。
「いいえ、違いません。悪いのはオレです、オレじゃなくてもオレです」
「確かに、そうしておく方が早く仲直り出来るだろうね〜」
「全くだ、ホントに女ってやっかいな生き物だよなー」
「「でも好きなんだよね」」
二人の声が重なったと同時に、お互い可笑しくて吹き出した。
「どうして男はこうもバカなんだろうね。仲直りの“丸秘アイテム”なんて怪しいもんにまで、はぁはぁ飛びついて」
「そうだ、その“丸秘アイテム”って…」
アーヴァインがそこまで言いかけた時、発車のアナウンスが流れ、列車がゆっくりと動き出した。さっき言いかけた事を改めて聞こうと、向かいの席を見れば任務の疲れからか、栗色の髪の青年はうとうとし始めていた。自分の好奇心を満たす為だけに彼を起こすのも忍びなく、“丸秘アイテム”がお菓子である事から、なんとなく効能も想像がついたので、結果を聞くことを楽しみにするとして、自分もバラム到着まで一眠りする事にした。
「おい、アーヴァイン起きろ! 乗り過ごすぞ!」
栗色の髪の青年の声に、アーヴァインは慌てて飛び起き、ひったくるように荷物を抱えると急いで列車から降りた。
ぶわははは、と後ろから豪快な笑い声と共に栗色の髪の青年がゆっくりと降りてきた。
『しまった…』
膝に手をついて項垂れたアーヴァインは、ここバラム駅が終点である事を思い出した。
「あんまり気持ちよさそうに寝てたからつい」
「なんだよ、それ〜」
「わりぃ わりぃ お詫びに車の手配してくるからそこで待っててよ」
言いたいことだけ言うと栗色の髪の青年は、バラムガーデンまで帰る為の足を確保しにレンタカー屋の方へ走っていった。車を待っている間アーヴァインは、ガーデンで自分の帰りを(多分)待っているであろうセルフィにメールを打つことにした。返事はすぐに返ってきた。
subject お帰り〜
message
うわぁい お土産あるの!
楽しみ〜、楽しみ〜v
何かなー、何かなー
ワクワクワクワク
セルフィからの労いの言葉があるかな〜と勝手に期待していたが、返って来た文面にはそういう言葉は見当たらず、セルフィらしいと言えばらしいのだが、多少なりともがっかりしたのも事実で、思い出したように任務の疲れがどっと押し寄せて来た気がした。『楽しみなのは、お土産かいっ!?』と突っ込んだところで、栗色の髪の青年が息を切らしながら戻ってきた。
「丁度、ガーデンから別の任務の連中を送って来た車があったんで、それに乗っけて貰うことになった」
どんより気味のアーヴァインの事などおかまいなしに、栗色の髪の青年は自分のとアーヴァインの荷物を持ち、更にアーヴァインをグイグイ引っ張って、ガーデンの車に押し込めた。
「元気だね、ロイ」
「まあね、ケンカの事よりも彼女にもうすぐ会えると思うとね、嬉しい方が先に立った、っていうか彼女からメールがあったんだよね。『お疲れ様』って」
今一番聞きたくて聞きたくない言葉に、追い打ちを掛けられたようでアーヴァインは更にへこんだ。
「……そうか、良かったな」
抑揚のない声だった。本心からの言葉ではあったが、今のアーヴァインは言うだけで一杯一杯だった。『ごめんロイ、心の狭い男で』栗色の髪の青年に心の中で詫びたが、当の本人は彼女からのメールに今や上機嫌で、別世界に心泳がせているようだ。少し前とはすっかり立場の逆転してしまった二人である。
しっとりと夜の帳が降りた静寂の中、巻き貝を思わせる流麗な曲線が特徴のバラムガーデンが、月の光の受けて美しく浮かび上がっている姿が前方に見えて来た。やがて二人の乗った車はガーデンの駐車場へと滑るように入った。
車から荷物を下ろし、最後の挨拶をしようとアーヴァインが顔を上げると、栗色の髪の青年とその帰りを待っていたらしい彼女が、恋人同士のお帰りの抱擁をしている所だった。邪魔者はさっさと退散するに限ると、手だけを振って栗色の髪の青年に挨拶をしその場を離れた。疲れている身体と荷物を引き摺るようにして寮への通路を歩いていると、ホールへ続く角を曲がった所でふいに見慣れた影が現れた。
「お帰りアービン、任務お疲れ様〜」
ぺこっとお辞儀をしながら言うと、外はねの髪もぴょこんと動く様がなんとも愛らしい少女だった。そのたった一言で、アーヴァインは今までの疲れが吹っ飛んだような気がした。
「ただいま、セフィ」
大好きな少女が予期せずして目の前に現れ、自然と顔が綻んだ。というか、もうデレデレ。
「さっきの、メールごめんね。ちゃんとお帰りが言いたくて来ちゃった」
『なんて可愛い事言ってくれるんだろう僕のセフィは』
頭の中にハートマークを乱舞させながら、ただいまの挨拶にぎゅ〜っと抱きしめようとした時、後ろから栗色の髪の青年達であろう足音が聞こえて来た。セルフィも気付いたのか、くいんと背伸びをしてアーヴァインの頬にキスをすると、小さな声で「明日アービンの部屋に遊びに行くね、ゆっくり寝てね、おやすみ」と早口に言うと、くるりと向きを変えて走り去ってしまった。
アーヴァインとしては、すこ〜しというかかなり物足りなかったが、セルフィの気遣いが嬉しくて、ガッツポーズと共に「イヤッホゥーー」と叫びたい所だった。けれど今深夜のガーデン内でそれを実行しようものなら、多分警備員がすっ飛んで来て強制連行、更に明日にはガーデンスクウェアの書き込みと共に哀(あい)ドルになるのは目の見えていたので、さっさと寮に戻ってシャワー浴びて爆睡する方を選んだ。
「あ、セフィにお土産渡すの忘れた、明日会うし ま、いっか」
※-※-※
pipipipipipi..........
聞き慣れた電子音が鳴る。まだ夢と現の間を彷徨っている頭とは反対に、腕は音の主を捜してベッドサイドのテーブルの上を動く、直ぐに目当ての物は見つかった。ボタンを押して「もしもし」と少し掠れた声で言えば、「おはよう」と元気な声が返ってきた、その声に反応するように一気に脳が覚醒した。慌てて起きて、時計を見れば昼近くである事を示していた。
「ごめん、起こしちゃった?」
電話の向こうから、申し訳なさそうな少女の声。
「いんや、寝過ごしちゃったからセフィの電話が丁度良いモーニングコールになったよ」
「そうなん、良かった。これからそっち行ってもいい?」
「オッケーだよ、待ってる」
電話を切ってふと隣の部屋の中を見ると、昨日着ていた服やら荷物の中身やらが床に散らばったままだった。『あちゃー、こりゃまた』昨夜自室に帰ってからの事は全然憶えていなかった。それでも、セルフィの喜ぶ顔が見たくて買った桃のパイだけは、きちんと冷蔵庫に入れられていた事を、セルフィ第一の自分に苦笑すると共に褒めてやりたいと思った。散らかっていた物を片付け、自身もラフなシャツに袖を通しジーンズを穿いた所で、丁度来訪を知らせるブザーが鳴った。インターフォンをオンにすると、カメラに手を振っているセルフィの姿が見えた。ドアロックを解除する動作ももどかしくドアを開け、ひまわりのような笑顔の愛しい少女を招き入れた。
「おはよう、アービン。お昼ご飯持ってきたんだけど食べる?」
少しかがんで下から覗き込むように問う姿もこれまた可愛いと思う。しかもそれがアーヴァインの好きな少女のしぐさベスト3に入るものだとは、少女は知る由もないだろうが。
「セフィの手作り?」
「うんっ! って言いたい所だけど、作ったのはキスティスなんだ〜。でも、すっごく美味しいよ、キスティスのグリーンカレー。セフィちゃんのおすすめ!」
「うわっ、それは豪華だね〜 キスティのファンクラブに知られたら殺されそうだ」
「せやね、絶対内緒やね」
「昨日はごめんね、アービン」
グリーンカレーの辛さを和らげる為に冷たい水を一口飲むと、セルフィは呟いた。
「ん、なんで?」
額に少し汗の粒を光らせ、キスティス手作りの逸品をぱくぱくと頬張っていたアーヴァインは、セルフィが何を謝っているのか分からなかった。
「んー、メール」
そう言われて、バラムの駅で受け取った携帯メールで少しへこんだのを思いだした。
「気にしてないよ〜」
にこにこと笑って返す。そう、気になんかしていない、それどころか夜遅く帰って来た自分を待っていてくれた事の方がそれを補って余りあった。
「ちゃんと、お疲れ様って書きたかったんだけど、あの時リノアとキスティスが一緒にいてね……」
「あぁ、そういう事だったのか。それはきっと不可抗力だから、マジでっ気にしないで。そんな事より、キスティスは料理上手だね〜、このグリーンカレー本当に美味しいよ。今度レシピ教えて貰おうかな〜」
「あたし教えて貰てん、今度一緒に作ろっ! あ でも、あたしぶきっちょやもんねー、すんごいカレーになりそうやわ……」
「そんな事ないよ、ゆっくり作れば大丈夫だって! セフィのタコヤキはめっちゃ美味しいやん」
「そかな、んじゃ約束ね」
次のデートの内容が決まると、二人して目の前の美味なる昼食をたいらげる事に専念した。
「アービン、これから何する〜?」
食べ終わった食器の片付けをしながらセルフィは、備え付けの端末をカタカタと操作しているアーヴァインに話しかけた。
「そうだね〜、ビデオ鑑賞とか掛けカードとかどう?」
「掛けカードはイヤッ、アービン強いもん。ビデオがいい」
「りょうか〜い、これからちょっと学園長に報告に行ってくるから、セフィはお土産のパイでも食べて待ってて」
アーヴァインは、冷蔵庫からパイの入った箱を取り出してセルフィに渡した。
「わ、ありがとう。お茶をいれて待ってるね」
「じゃ、ちょっと行ってくるね。すぐ帰るから」
ティースプーンを持って、いってらっしゃいと小さく手を振るセルフィを後に、アーヴァインは学園長室に向かった。
「遅くなっちゃったな〜」
アーヴァインは寮へと続く通路を足早に歩いていた。幾人か生徒とすれ違った時に挨拶をされたが、手をあげて返す位しか出来なかった。仄かに頬を染めながら「キニアス先輩、こんにちは」と挨拶をしてくれた女生徒もいたが、急いでいた為「やぁ」と返した笑顔がいつもと違って少々崩れていたのが自分でも分かった。トレーニング中らしいゼルにもすれ違ったが、こちらはアーヴァインが挨拶をする間もなく拳を振り上げて「うぉーりゃー!」と言って走り去った。
簡単な報告で終わるはずだったのが、いや報告自体は直ぐに終わったのだが、学園長室に着いた時丁度来客中で、軽く小一時間ほど待たされたのだった。
「お茶、冷めちゃったかな……。パイ残ってなかったりして」
自分を待ちきれなかったセルフィが、少し怒りながらパイを次々と頬張る姿を思い描きながら歩いていると、いつの間にか自室の前まで帰って来ていた。
「セフィお待たせ〜」
シュンッと開いたドアの奥へ向かって視線を走らせると、頬杖をついて少し不機嫌そうな顔のセルフィが見えた。
「アービン、おそーい。もう待ちくたびれたよー」
「ごめん、セフィ。学園長に来客中で遅くなった」
手を合わせて謝る。
「ちゅーしてくれたら許してあげるー」
「お安いご用だ……って、えぇーーっ?!」
そりゃあもうセントラ人もびっくりな位アーヴァインは驚いた。今まで自分からちゅーをせがんだ事は数知れずだが、セルフィからせがまれた事はない、ちーーーっとも全く全然無い。それが今漸く……、心で感涙にむせびながらセルフィの座っている椅子の僅かな空きスペースに腰を下ろすと彼女の望みに応えた。
「ん…」
セルフィが甘い吐息を漏らし、唇は離れた。
「もいっかい……」
そう言われて、断る気などさらさら無く、今度はさっきよりも深く熱くお互いを味わうように口付けを交わす。セルフィの唇は、更にアーヴァインの、頬に、瞼に、額に、とキスを落とす、アーヴァインは、ほやんとされるがままになっていた。やがてセルフィの唇は額から瞼、頬へ、そして再び唇へと戻って、またすぐ離れた。今度は、耳朶、首筋、鎖骨へと移動していく。いつの間にかセルフィの指はアーヴァインのシャツのボタンを一つ外していた。『ええーーーっ?! いや、願ったり叶ったりだけど……ええーーーっ?!』流石にこれは、何かおかしいとアーヴァインは思った。
「ちょっ、待ってセフィ」
「んん?? どーして」
よく見れば、セルフィの頬は上気していて身体も幾分熱い感じがする。テーブルの上を見れば、元の半分程の大きさになったパイが見えた。『もしかして、例のブツと入れ違った?!』セルフィの色香にボケボケの頭をフル回転させて、昨日の出来事をあの店を出た所から順を追って思い出していく。あった、確かに入れ違いになってもおかしくない状況があった。しかもセルフィの様子から察するに、“例のアイテム”の効能は自分の予想していたものでビンゴのようだった。
セルフィとの関係がやっと進展か?! と思春期の少年のように、歓びの舞いを踊り狂っていたのに、セルフィの本心からの望みではないと知って、舞台から派手にぶち落ちた気分だった。一人で百面相をしているアーヴァインを、セルフィは怪訝な顔で見つめている。
「つづき、ダメ?」
上目遣いでそう言われると、再び舞台に上がりたいのは山々だったが、ここは心を鬼にした。
「だめだよ〜、ほらまだこんなに明るいし〜」
「え〜、ブラインド降ろせば暗くなるよ〜」
『そうきたか!』
「いや、ここ椅子の上だし……」
「じゃ〜、ベッドいく〜」
セルフィは、どこからこんな力がという勢いでアーヴァインの腕を引っ張ってベッドルームへと入ると、二人してドサッとベッドに倒れ込んだ。アーヴァインは、目をきゅっと瞑り心の中で激しく葛藤していた。
「だめだ、これ以上は! 半ば正気じゃないセフィを抱くなんて!!」
「何言ってんだ、苦節数ヶ月もう十分待ったじやないか、セフィだってきっと……」
もう頭の中は、白アーヴァインと黒アーヴァインが大かけっこ大会である。抜きつ抜かれつのデッドヒートの末、軍配は黒アーヴァインに上がった。
『よし、据え膳食わぬは男の恥。優しく優しくすればきっと大丈夫』
何が大丈夫なのか是非とも聞かせて貰いたい所だが、そんな余裕は今のアーヴァインにはない。覚悟を決めて、くるりとセルフィの方へ身体の向きを変える。
「あぁ セフィ、なんて可愛らしい寝顔……ええーーーっ?! ちょっ……ええーーーっ?!」
苦節数ヶ月が苦節一年になる可能性は案外高そうだ。