連香

前編
 閉じられた空間の中、甘い花の香りが一段と濃くなったような気がする。
 この香りは貴方が言うように、私の身体から立ち昇るものなのか。貴方を欲する私の想いが具現化したものなのか。私には分からない。もしかしたら貴方が発しているのかも知れない――。

「んっ…」
 頬から耳の辺りをふわりと吐息が触れた。
「苦痛を感じたら言って下さいね。私は――武骨者ですから」
 さっきまで聞こえていたのとは少し異なる、艶を帯びた低めの声がそう囁く。
「ふふっ」
「笑いましたか?」
「はい、笑いました」
 翠慧が素直に返事をすると、祉龍の動きがぴたと止まった。
「祉龍様を笑ったのではありません。思い出したのです」
「何をですか?」
 その声は翠慧が初めて聞く戸惑いの色が感じられた。
「過日の祉龍様はとても優しくして下さいました。武骨者などではありません、ご安心下さい」


 出陣の前夜、祉龍は翠慧を乞うた。
 制止しようとする理性よりも、抑していた筈の想いの方が勝り、翠慧は祉龍を受け入れた。その時の祉龍は翠慧を壊れ物のように扱った。とても勇猛果敢な武人と思えないような、労るように触れた指を、唇を、翠慧は一時たりとも忘れはしなかった。というよりも、思い出すのを止めようとすればする程、心に強く居座る事となり滉邸を辞する時期をずるずると延ばさせ、結果こうして祉龍の元で今在る。
 翠慧は祉龍への想いをもう否定する気はなかった。
 こうして抱かれる事も――――。
 それを伝えたくて、寝台の中ぼんやりと浮かび上がる輪郭を頼りに手を伸ばし、翠慧は祉龍の頬をふわりと撫でた。
「本当ですね? 私は単純ですから、貴女の言葉を鵜呑みにしてしまいますよ」
「はい、嘘は言いません」
『ほら、今顔の輪郭をなぞった指も、もどかしい位に優しくて、私の身体の奥がざわつく』
 愛しい想いを押さえつけていた枷は祉龍によって解かれ、翠慧の心は今にも荒龍のように暴れ出そうとしていた。それを必死で押し止めてはいたものの、恐らく直ぐに決壊してしまうだろう。祉龍の指がそっと触れただけで、翠慧の意識は別世界へ旅立とうとする程なのだから。
『少し位乱暴に扱われても、今の私には甘い刺激にしかなりません、祉龍様』
「貴方をお慕いしています、祉龍様。どうか貴方の思うがままに、私を……」
 散々翠慧が気付かない振りをしてきた想いが、この濃密な囲いの中でいとも容易く口から溢れていた。
 自分でも驚くほどに――。

「――翠慧…」
 吐息のように吐き出された祉龍の声は、翠慧の心の奥へするりと入り込み蕩かせた。
「し…りゅ……んっ」
 塞がれた唇は思いの他熱く、祉龍の指は着衣の上から彷徨うように探るように触れている。
 知らないとは言わないが、慣れない感覚に身体が震えた。それも僅かの間の事で、過日の記憶を辿るように翠慧の肌身は素直に応えはじめる。
「…あ……」
 胸元の合わせから遠慮がちに忍び込んで来た指は温かく、触れた箇所から徐々に熱を帯びていくようだった。


 祉龍もまた酔っていた。翠慧という極上の華酒に。
 自分から何かを強く求めた事は些少だった。今までで何かを求めたのは、真に仕えるに値する主君くらいだ。それも容易く見つかった訳ではないが、奇しくも身命を賭して仕えたいと思う主君に出会う事が出来た。それだけで、武人としてはこの上ない果報だ。
 それ以上の望みは無かった。
 郷里の滉家の家督は既に兄が継いでいる。自分は身一つで主君に仕える事が出来ればいい。嗣子も望みはしない。これぞと思う者に出会えれば養子で構わない。血が大事なのではなく、才があるかどうかだ。
 しかし、女人を恋しいと思った事がない訳でもなかった。武勲を上げる度にむしろ機会は増えた。ただ、機会はあっても、終ぞ憐憫の情すら湧く相手に出会う事は無かった。その内、戦の後の昂揚を鎮める為に情欲を求めたに過ぎないと思い知るに至った。
 このような者にとって女人は不要。主君以外に護らねばならないものが出来れば、全てをかけて主君に仕える事は出来なくなろう。
 そんな足枷はいらないと思ってきた、気が付いてからこの方、ずっと。
『それが、こんな事になるとは――――』
 祉龍は柔肌に接吻けを落とすのを止める事なく肚で己を嗤った。

 一寸先は闇、何が起こるか判らぬと誰かが言っていたが本当だ。もっとも、自分の場合闇ではなく、どちらかと言えば春光のようだが。

 最初は変わった女人だと思った。
 所用よりの帰路の途中、怪我を負い道端で倒れているのを見つけ抱き起こしてみれば、着衣の具合から盗賊相手に逃げもせず立ち向かって行ったらしい事がありありと判った。それだけでもかなり面食らったが、その上頑固で……。
 我が邸で養生をと言えば、見ず知らずの人にそれは心苦しいと固辞し続けた。ならばと、素性と名を名乗ったが、逡巡している様子は窺えたものの返事はなかった。このままでは埒があかないと、悪いとは思ったが肩の傷をぐっと触れば、まるで失念していたかのように痛がった。直後、苦痛と羞恥の入り混じった貌は力なく「お願い致します」と告げ、そのまま気を失った。余程緊張していたのか、あまりの事に気が動転して自失になっていたのか。
 だが、僅かな間の遣り取りでも、この人は芯が強く、女人にしては些か粗忽者なのだと思った。
 そう思うと、何故だかますます放ってはおけなくなった。もとより、このまま放っておくつもりなどなかった。この時勢、怪我をしている女だからといって誰もが親切心だけで近寄って来るとは限らない。ましてやこの器量ならば、どこぞの妓楼にでも売ればそれなりの金になるだろう。それを見て見ぬ振りをする矜恃は、自分にはない。
 人としての礼儀。
 同じような状況に出くわせば、老若男女を問わず自分は同じ事を行う。
 思い返すに、恐らくあの出会いの時に強く惹かれていたのだと思う。
 だが、今の祉龍にとってそれは細事だった。主君以外に望むものは無かった自分が、初めて欲しいと希った存在。それがこうして手中にある。このような至福がある事を初めて知った。そしてそれを貪欲に求める自分を――――初めて知った。


『な…に……』
 ゆっくりと身体を俯せにされ、翠慧は祉龍の唇が肩の傷あたりに触れたような感覚を覚えた。既に塗薬も必要ない程になっているので痛みは全くないが、それでも触れる唇は羽のように優しい。そして長く繰り返される。
「祉龍、さ…ま?」
 余りにも延々と繰り返されるので、翠慧は何故にと気になった。
「すみません。この傷は私にとって特別ですから」
 肌に触れるか触れないかの所で紡がれた言葉は、同時に吐息として肌も撫でた。それに意識を攫われそうになりながらも、翠慧は祉龍の方を振り返った。
「何が特別……なのですか?」
 翠慧の顔を半分程覆うように流れている艶やかな髪を、指で梳くようにして払い、優しい微笑みを湛えて祉龍は視線を合わせ、そして翠慧の首筋に貌を伏せた。
「貴女がこの傷を負わなければ、出会えなかった。貴女にとっては忌まわしき傷でしょうが、私には大事な絆です」
「……あ」
 耳殻にそっと触れた唇が囁く声は、別の感覚が邪魔をし、翠慧は理解するのに暫し時を要した。
「女人にとっては忌まわしきものでしょうが、どうかこの傷を厭わないでください。私はこの傷のある貴女を愛しく思っているのだから」
「祉龍――様」
 今のはちょっと反則です。そんな風に言われたら墜ちない女はいません!
 手慣れた色男が口の端に上らせたのなら、手管の一つとして流す事も出来るだろうが、この人は武だけに生きてきたと聞き及ぶ。そんな人物の紡ぐ言葉は、一路に深く心に沁み透った。
 こんな傷を気にするような翠慧ではないが、男にとっても女の身体に傷があるというのは、けして好事ではないだろうに。祉龍はそれも含めて好きだと言う。まさに千載一遇の心持ちがする。こんな物好きな……。
 もしかすると今の祉龍の想いは、ただの物珍しさからくるものなのかも知れない。一時の気の迷いかも知れない。それならそれで構わない。例え夢幻でも、今感じているこれは、幸福だという事を自分は識っている。この愛されたという記憶があれば、自分はそれだけで――――。

 ふいに祉龍の顔が見たくなり、翠慧は身体を動かして仰向けになった。じっと見下ろしている祉龍に向かって手を伸ばし、胸元をはだけるように指を這わせると、意図した所にそれを見つけた。
「祉龍様も同じ、ですね」
 なぞるように指を動かし、くすと笑んで見上げてくる翠慧を、祉龍はじっとしたまま見返した。
「これも――貴方が、貴方である証し」
 その声に、祉龍は触れられている部分の記憶を辿った。それが何であるかを思い出すと、僅かに瞠目し、そして笑んだ。
「私は武人です故、他にもあります」
「はい、知っています」
「貴女はそんな私でも良いのですか?」
「そうですね、実は考え倦ねています」
「え……」
 祉龍が息を呑み固まったのが翠慧にも分かった。ふと沸き起こった悪戯心で言った言葉だったが、その反応の素直さに翠慧は戸惑った。というより失言ではと感じた。固まった祉龍の表情を見るに、少なからず傷ついたのは明白だ。つい勢いに任せて軽挙な振る舞いをしてしまう自分を、常々戒めなければと思っているのに。その軽挙が故に、盗賊と張り合い怪我を負い、此処で恩を受けるはめになったというのに、本当に自分は粗忽者にも程がある。こんな自分が情けない。
 でも、いま大事なのは――――。
「祉龍様、ごめんなさい。今のは貴方様の好意を踏みにじる発言でした、どうかお許し下さい」
 動かぬ祉龍の瞳をじっと見つめて翠慧は、心からの謝辞を告げた。

 一拍。二拍、三拍……。随分と時が流れたような気がした。
 祉龍の瞳がゆっくりと動き翠慧を捉えると、力が抜けたように翠慧に覆い被さり、肩で一つ大きく呼吸した。
「貴女には、驚かされてばかりのような気がします。今宵、私の帰宅がもう少し遅ければ貴女は此処を出て行ったのでしょう? それなのに私は貴女を縛り付けてしまった、私は貴女に非道い事をしたのではと茫然自失となりました」
 溜息のように紡がれた言葉は翠慧の心を締め付けた。
「ごめんなさい、本当に。さっき言った通り私は貴方をお慕いしています。どうかお側にいさせて下さい、そしてどうかお望みのままに」
 体重を消すようにして覆い被さっている、自分よりも随分と大きな身体を翠慧は抱き締めた。だが、祉龍はそのまま動かず、また口も開かなかった。
 静寂がゆるゆると寝台の中を満たしていく。
 その沈黙が、翠慧には既に遅いのだと告げられたかのような心持ちがした。はっきりとした言葉で聞くのは辛い。いっそ此処から逃げ出してしまいたい。居た堪れず動かした足先が敷布を滑った音が耳を嬲った。先に暇乞いを告げてしまおうかと軽く息を吸い込んだ翠慧の首筋で、祉龍の頭が向きを変える気配がした後、ゆっくりと頭が持ち上がった。
「――翠慧」
 告げられてしまうのか。
 翠慧は祉龍が自分を見つめているのであろう視線を感じながら、聞きたくない言葉を拒むように、瞼を固く閉じて次の句を待った。
「今の言葉、私は鵜呑みにしました。ですから、今宵は私の好いようにさせて貰いますね」
 翠慧が覚悟していたものとはまるで違う言葉が、唇のすぐ上で囁かれた。空耳ではないかと確かめる為にそっと片目を開け窺えば、微笑む貌がそこにあった。
「いいですね?」
「――はい」
 余計な考えを巡らせるより先に念を押され、翠慧は逡巡する間も無くそう答えていた。
「これでおあいこです」
「え…?」
 祉龍の言葉にまさかと、ふとある考えが翠慧の頭をよぎる。確かめる為に両の目でしっかりと祉龍の貌を見れば、悪戯子の様な笑みに変わっていた。
「祉龍様、計られました?」
 翠慧はまだ半信半疑だった考えを口に乗せた。この、清廉で誠実だと誰もが口を揃えて言うような人物が、謀を巡らすような事はしないとは思う。今まで接した中で自分もそう思っていた。
「おや、見抜かれてしまったでしょうか。やはり私は軍師には向きませんね」
 だが、笑顔と共にあっさりと肯定されてしまった。
「いえ、僭越ながら私の見立てでは、祉龍様は立派な素質をお持ちだとお見受け致します」
 祉龍の意外な一面に、少し脱力感を覚えながらも、翠慧は真実思った事を述べた。そして更に思う。にこにことした穏和な笑顔の下には、もしかするともっと色んなものが隠されていたりするのだろうかと。
『いや、そんな事ない。私の目は節穴ではない、きっと……あ、でもちょっと自信ない……かも』
 たが確かめようにも、既に祉龍の笑顔は伺い知る事は出来ない、接吻けをされてしまったから。
「…っ、ん……」
 そして、それは瞬く間に熱を帯びていく。
 肌を滑る指に先程のような躊躇いは見られない。
 少ない記憶を辿れば、理性も思考も手放さねばならなくなるのは直だ。
「……あぁっ…」
 縋るように握り合せた手に力を込めても、もはや意識を繋ぎ止める効力はないに等しい。


 殊更に濃くなった花の香りと、熱の籠もった指と唇が導く先には、底知れぬ巨大な淵と目も眩むような世界が待ち受けていた。



 翠慧が重い身体に鞭打つようにして意識を一瞬覚醒させた時甲斐間見えたのは、包み込むような祉龍の体温と「……は…が良いですか?」と途切れがちに聞こえた声だけだった。

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