白波に 咲く

 簡単な事だった。あっけない程簡単に、彼の人は再び私の手に堕ちた。
 たったひとことで――。


 何が普段と違ったのか分からない程に、至って当たり前の一日だった。
 常と同じに起床し、謁見をし、与えられた責務をこなし、その後ひととき語らって終わる、筈だった。
 その時までは。

「姫、お寒いのではありませんか? どうかこの腕の中へ」

 夕餉の後、暫し誰にも邪魔される事のない至福の刻。少し開いた窓から入り込んだ冷たい夜気の所為か、また別のものによるものなのか、千尋が小さく身震いした。その様子に何げなく言ったその言葉。またそっけなく、或いはさらりとかわされてしまうのだろうと思いつつも、口にせずにはいられない自分を呪いながら紡いだ。
 ただ、自分を見上げて来る顔が少し違う毛色をしているのは感じた。僅かに柳眉をひそめ、笑顔にはどこか哀しさが垣間見えた。それもほんの一瞬の事で、気が付けばいつものはにかんだ笑顔で、見間違いだったのだろうと思った。

 さて、今日はどんな言葉で切り返されるのだろう、覚悟をして待った。だが、自分に訪れたのは、拒絶でも、窘めるものでも無く、温かなぬくもりだった。
 まだ躊躇いが残るかのようにそっと指先が胸の辺りに触れたかと思うと、続けてその身を預けるようにもたれ掛かってきた温かさ。あまりにも思いがけない事で、何が起こったのか解らなかった。遅れて届いた、いつも千尋が纏う花のような香りに気付かされた。
 彼女は自分の言葉通り、この腕の中にいるのだと。
 自らの意志で――――。

「我が君?」
 にわかには信じがたい出来事。知らぬ態様ではないが、互いに了済の束の間の戯れとは違う。戯れなどではないからこそ、夢ではない事を確かめる為に問う。
 だが返事は返って来なかった。

「そのように何も仰って頂けないのでしたら、私は都合の良い解釈をしてしまいますよ、我が君。宜しいのですか?」
 騒ぐ心を押し込め、更にいつもの自分らしく流水のように言葉を口に上らせる。
 それでも返事は返って来ない。
 ややあって、代わりに服をぎゅうと握られた。
 その後は、自分でもどうやって事を運んだのか、情けない事にあまり憶えてはいない。




「――ん」
 吐息と共に豊かな黄金の髪が波打ち寝返りを打った。今まで見えていた花の顔(かんばせ)が視界から奪われる。
 普段からあまり見る事の出来ないうなじが、酷く白く見え艶めかしい。今この隻眼に映す事を赦されている肌身はそこだけだと言うのに、見えない部分まで見えぬ方の瞼の裏に、白い肌が鮮やかに焼き付けられ、指はその柔肌の感触を憶えていた。
 同じ褥の中、向けられてしまった背中。何故だかそれが急に淋しく思えた。穏やかで規則正しい掛布の揺れが、安らかな眠りの中にいるであろう事を教えてくれるのに。その顔を見て安心したくなる。今更ながら、きつい思いをさせてはいないだろうか、苦痛を与えてはいないだうかと――――酷く不安に襲われる。
 柊は僅かに上体を起こして、隣で眠る千尋の顔を覗き込んだ。
 その顔は笑っているのではないかと思える位穏やかだった。

「……千尋」
 頬に触れるか触れないかの所、声にならない程の声で名を呼ぶ。
 千尋は、くすぐったそうに身じろぎをすると、また穏やかな寝息を立てた。
「私は何をしているのか……」
 十分に満ち足りた筈なのに、また身体の奥の熱は燻ったまま消えてはいない。
 柊は溜息と共に褥に身を沈めると、千尋に背を向けた。
 視界に入れなければこのまま眠れるだろう。だが、静けさの中では、あまりにも近すぎる体温と、安らかな寝息が驚く程近くに感じられる。まるで自分の全ての感覚が背中に集まってしまったかのように、脳裏から千尋を消し去る事を拒む。
 このままでは――――。
 柊は、再び上体を起こした。千尋の身体が外気に触れないようそっと。
 まだ冬にはほど遠いが、それでも褥から出た肌に触れる空気は冷たく肌を射た。構わず寝台から出ようと足を降ろした時、つと背中に触れるものがあった。と、同時に頼りなげな声もする。
「ひい、らぎ?」
 振り向けば、眠っていた筈の千尋が見上げていた。どこへ行くの? と問いかけるように、今にも泣きそうな蒼で。
「申し訳ありません、我が君。起こしてしまいましたか」
 優しく微笑んで伸ばされた手を握る。やはり温かい。
「どこへ行くの?」
 愛しい男の笑みにも不安げな蒼は変わらなかった。
「どこへも行きませんよ」
 握った千尋の手を開き、口づけを落とす。
「ホントに?」
 それでもまだ少女は納得しない。
「少し頭を冷やそうと思っただけです」
「なぜ、頭を冷やさなきゃいけないの?」
 伸ばされた腕を辿ればその先、自分をざわつかせる白い肌が見えた。
「愚かにも、我が君の隣にいると自制出来そうにない私を戒める為です」
 柊がそう答えると、千尋は握られた手を僅かに引いた。だが、柊の手から逃れるような事はしなかった。それどころか、柊の手を握り返すと自分の方へ引いた。不意の事で柊は覆い被さるように千尋の上へと倒れ込んだが、触れる寸前の所で支える事が出来た。だが、さらりとこぼれ落ちた髪は、いとも容易くその白い肌に触れた。

「なら、傍にいて……」
 普段の千尋からは想像もつかない大胆な行為だったが、それでもやはり恥ずかしい事だったのか、千尋の頬は桃の花のように染まっていた。
 そして更に柊の耳元で、本当に小さく囁く。
「自制…………しなくてもいいから」
 本当に今日の千尋はどうしたのか。柊はどうしてもその訳を知りたくなった。
 その前にもう一度掛布の中に入ると、柊は千尋を抱き寄せた。そうして千尋の額に一度唇を寄せてから、問いかけた。
「千尋、今日は何故私の言葉に素直に従われたのですか?」
 柊が抱き寄せると千尋はびくりと身体を強張らせたが、柊がそこから先動かない事を知るとそのまま柊の胸に頬を寄せた。
「従った?」
「ええ、腕の中へと申し上げた時、てっきり断られると思いましたが、素直に来て下さいました。あれは何故ですか?」
「それは――――」
 千尋は思い出すように目を閉じると、ゆっくりと柊の背中に腕を回し抱き締めた。耳に届く確かな心臓の鼓動を確かめてから再び腕を解き、柊の顔を見上げる。
「もう後悔したくなかったから」
「後悔――ですか? 私は以前にも同じ事を申し上げたでしょうか」
 自分の言動を振り返るように言った柊を、千尋はじっと見つめた。
「うん、言ったよ。ず〜っと前にね」
「申し訳ありません、私は憶えていないようです。いつの事でしょうか」
 千尋は困ったように笑った。
「姫……?」
「柊の知らない柊が言ったの」
 その言葉に柊は、やっと合点がいったと千尋を素通りしていた瞳を再び彼女に戻した。
「わたしね、その事ずっと後悔してるのね。今度言われたら絶対柊の言う通りにしたいって……」
「千尋…………我が君はどこまでもお優しい」
 柊は暫し瞠目し、慈しみを込めて千尋の頬を撫でた。
 自分の預かり知らぬ自分が言った言葉にずっと胸を痛めて。その自分を許し難いと思うと同時に、どうしようもなく嬉しくもあった。また例えようもなく幸せだと思った。自分の我儘を受け入れ、あまつさえこうして温かな想いを惜しみなく注いでくれる。自分の欲しかったものを、惜しみなく与えてくれる。

「柊、わたしの事好きでいてくれるなら、が……我慢しないで、ねっ」
 この優しさにどう応えればいいのだろう。
 浅からぬ経験の中からも答えを導く事は出来なかった。もとより、そんな経験など今は何の役にも立ちはしない。それらとはまるで違う想いの中にいる。あり得ぬと否定し続けてきた事象の中に……。

「これ以上は、我が君のお身体に障ります」
 怒濤のように押し寄せる我欲を笑みの奥に封じて、理性と思慮深さを演じる余裕はまだあった。
「わたしは大丈夫……」
 けれど、自分の心を見透かしたかのように、千尋の言の葉は柊の虚偽の理性を剥がしていく。
 我が君は本当に罪なお方だ。
 柊の知らない所で溢れる溜息。だが当の柊は気付かずとも、千尋には見えていた。

「それとも――わたしでは満足出来ない?」
 胸の辺り爪が触れた感触に千尋を見れば、握った拳と同じように唇も引き結ばれていた。
 そんな事ある筈もない。そう告げなければと思うのに、一向に口は動いてくれない。――いや、もう解っている。言葉を尽くしても無理なのだと。そうではない、今確かに想いを伝える手段は、自分が望んでいるそれは、千尋も望んでいるのだろう。
 解っている。
 それをしないのは、怖いからだ。望みのままに千尋に触れれば、嫌われるのではないかと、怯える自分がいるからだ。恐らく、触れれば触れる程、望みは強くなるだろう。臆病者の自分はその不安を払拭するために、千尋に無理を強いるだろう。そうなってしまう自分を恐れる。一度触れただけで、こんなにも愛しく、離れ難く思うのだから。
「…………やっぱり、私じゃ無理だよね」
 柊の腕の中、些か強張っていた身体から力が抜け、くるりと身体を反転させた。思考の渦中で動けずにいた柊の腕から、いとも簡単に離れ千尋は背を向ける。未だ黙したままの柊の目に映るのは、白い肩の小さな震え。
 外気に晒されて寒いのだろうか。
 柊はこの期に及んで、そんな事を思った。
「ごめんね、いつも我儘ばっかりで」
 消え入るような声がした後、千尋は顔の辺りまで掛布を引き上げ、柊から更に離れるように身体を丸くした。

『私はなにをやっている!?』

 柊は漸く動いた。
「我が君」
 丸くなった千尋をそのまま後ろからぐいと抱き寄せる。
 問いかけにも返事はなく、代わりに届いた声を殺した泣き声に、――胸をえぐられた。
「千尋、謝るのは私の方です。我儘なのは私の方なのです」
 吐息のように肌を撫でた柊の声に、千尋は後ろを振り返ろうとした。
「我が君、そのままで聞いて下さい」
 そう制されると千尋は大人しく従った。
「私は貴女をずっと求めていました。だから自信がないのです。いくら我が君の許しを得たとしても、きっと貴女に無理強いをしてしまう。そんな私を厭われるのが…………この上なく耐え難い」
 千尋は柊の言葉を静かに聞き、静かに息を吐いた。そして有無を言わせぬ勢いで柊の方に向き直り、両手で頬をぎゅんむと挟んだ。そうすると男の癖にやたら綺麗な顔が少し歪む。
「こんな顔の柊も好き」
 そう言うと、今度は頬をつまんでびよんと引っ張る。
「こんな顔も好き」
 その後、手を離して謝るようにその頬を撫でると、隻の瞳が見えない方の分も驚いていた。

「柊が好き、柊だから好き。柊しか――いらない」
 柊がそうしたように、千尋は柊を抱き締めた。
「我が君……貴女は、本当にお優しい――」
 その先はどちらからともなく触れた唇の所為で掻き消された。

 夜気はいつの間にか温度を上げ、静かに長く室内をたゆたった。


一人ぐるぐるして、ヘタレな柊さん。そんな柊をぐいと引き上げてくれるのは、千尋ちゃんしかいないから。頑張れちひー。
敷布を白波に見立てた割りには、肝心な所がすっぽ抜け。ま、そのうちちゃんと。 ビバ、ひーちひ!
(2008.10.20)

← Fanfiction Menu