天翔る船にて、ひととき

 カタンと竹簡が落ちた音がした。
 そこで、はたと柊は我に返った。一体ここは何処だったか。書簡を読む事に夢中になっていて、時間も場所も自分の概念の外へと飛んでいたようだ。
 書庫の中には外からの光が入らない。今何刻であるのか、外の天気に変化はないのか、全く分からない。もっとも、文字を追っている時には、そんなものは取るに足らぬ事だ。自分の邪魔をしさえしなければどうでもいい。
 だが、柊はそろそろそうも言っていられないような気がした。
 天鳥船の書庫へ来てから、どれくらいの刻が過ぎたのか、ひょっとしたら既に約束の時間を過ぎてしまったのではないか。そう思うと少しばかり、焦った。
 普段約束事や決まり事を破ったり忘れるは事ない。あるとすれば、それは故意に、だ。
 ただ書物を前にしている時だけは別だった。
 文字の羅列に過ぎないものが、一度(ひとたび)読み始めれば瞬時に自分を別世界へと運ぶ。見知らぬ土地でも何処でも、ここに居ながらにして見る事が出来、体験する事が出来る。その感覚が幼い頃から好きだった。星の一族が故のものなのかどうかは知らないが、数少ない好きなものには違いない。
 だが最も大事なものとの約束が、確かこの後――――。
「こんな事では、また我が君のご機嫌を損ねてしまいますね……」
 誰に隠すでもなく、柊は溜息をついた。

 ともかく書庫から出よう。柊が立ち上がりかけた時、目の端に落ちた竹簡が見えそれを取り上げた。留めてあった紐が解け、はらりと広がる。ふと、眼に飛び込んだ文字にぐいと惹きつけられた。
「――――これは」
 それは良く知っている――、また初めて読む書簡だった。



「アカシャからは離れた伝承だと思っていましたが、そうでもなかったという事ですか、ね」
 読み終えて、微かに笑っている事に柊は気が付いていなかった。

「――――軍師と姫は幸せに、か……」
 ああ 確かにそうだ。
 自分は今幸せだ。
 他にふさわしい言葉を自分は識らない。
「姫もそうだといいのですが」
 それだけは、星の一族の術(すべ)を駆使しても、識る事は出来ない。
 そして、それが唯一、自分を不安にさせる。例えこうしてアカシャが示しているとしても……。
「あれほど、アカシャは自分にとっては絶対だった。けれど、今はそれが不変だとは思えない、私はなんと……」
 愚かなのだろう。
 どれ程あの姫に、他の何でもなくあの姫に、――――囚われているのだろう。






 ポコポコという音と、もうもうと立ち上る蒸気がいつの間にか部屋の中に立ちこめていた。
「うわっ 沸きすぎ!」
 慌てて湯を移そうと手を伸ばしたら、やけどをしかけた。
「まったくもう、どうしていつも」
 いつま経っても直らないそそっかしさに、自分でも呆れた。これでは一生那岐に笑われて過ごすはめになりそうだ。

 柊なら、何て言うだろう……。

 ぼうっと考えながら、茶葉の入った器の蓋を開けたら、今度はざざーっと景気のいい音がした。
「うわっ 入りすぎ」
 今自分のそそっかしさを痛感したばかりなのに、またかと、もう溜息をつく気にもなれなかった。
「これじゃあ、すんごく苦いお茶になっちゃう」
 根を詰めて竹簡に夢中になっているであろう柊の為にと、用意しているお茶なのに、余計に疲れさせてしまう事になる。

 柊は、普段我を忘れて何かに打ち込むという事はない。常に神経の一部は外に向いていて、こっちから何か言う前に既に察しがついている、そんな人。だと思っていた。つい最近まではそうだった。
 一つだけ、彼が我を忘れて夢中になるものがあるのに、千尋は気が付いた。
 それが竹簡を紐解いている時。とは言っても、この天鳥船の書庫の中でのみで、橿原宮では以前と同じだった。
 だから、千尋は余程この天鳥船が気に入っていて、安心出来る場所なんだろうと思っていた。そして、その事がちょっと嬉しかった。自分にとってもこの天鳥船は、とても好きな場所であり、余計な者達の入って来ない安らげる場所だった。
「狭井君に感謝しないとね」
 適量の茶葉を茶器に入れ直し、千尋はクスッと笑った。

 狭井君は、まず何を置いても中つ国の事を優先させる人。
 その信念はけして揺らがない。
 国の為ならば、辛辣で冷酷な判断を下す事に微塵の躊躇いもない。それを目の当たりにした時、酷く心が痛んだ。一生相容れない類の人間だと思った。
 だが、王という立場になって、否応にも彼女と関わらずにはいられなくなった。その中で狭井君への印象は次第に変わっていった。というよりは、王としての自分の視野が広がった、と言った方が早いのか。確かに彼女の歯に衣着せぬ物言いは、人の心に傷をつける事もある。だからと言って、政に関わる場所では個人的感情で発言をする事はない。その時は反発したとしても、後から落ち着いて考えれば必ず国を慮った公人としての発言だった。国に一身を捧げた臣の鑑、という言葉がこれほどふさわしい人物はいないだろうと思う。恐らくこの国の臣が彼女だけになったとしても、狭井君は一人国を守り抜くだろう。
 そういった野心も二心もなく国に尽くす人物が、どれ程得難く、どれ程ありがたい事なのか、千尋はようやく分かった所だった。
 そして――――。
 ただ冷血漢なだけではないという事も知った。国の宝とも言えるような天鳥船を、公のものとはせずに、王の私的なものとしての扱いを決めたのは狭井君。
 その事にも、とても驚いたが、「本日は、天鳥船にでも行かれてみては如何ですか」と言ってきた時には、本当に驚いたというより、文字通りぶったまげた。

 日々慣れぬ政務に追われ、勉強漬けで疲労していた千尋は、確かに「休みたい」と思っていた。思ってはいたが、まさか狭井君に、天鳥船行きを勧められるとは思わなかった。それは裏を返せば「一休みされては如何ですか」と言っているも同じだ。
 そして天鳥船に柊が居る事を、あの狭井君が知らない筈がない。それを承知で勧めたのだ。あの狭井君が。これがどれ程の意味を持つのか、未熟な自分にも解る。

 彼女は言葉で柊を“認めた”とは言わない。
 また、“認めていない”とも言わない。

 狭井君からして見れば、柊は実に忌々しい存在だと思う。柊は彼女とは対極のような存在。一ノ姫と羽張彦の件と、その後常世に降った件、その二点だけで断罪されても仕方のない大罪を犯した人物。中つ国の法に照らし合わせれば、そうされてもおかしくなかった。王とはいえ、個人的な感情で柊を庇う千尋の言葉など、捨て置く事も容易だった筈だ。それをしなかったのは、生かしておく方がそれを上回る益があると判断したからだろう。
 今も、狭井君は柊を感情のない冷淡な瞳で見る。だが、彼を侮蔑するような言葉はけして口にしない。
 私情では動かない、怜悧ではあるが誰かにおもねるようなこともしない、異世界で言う所の“ロボットのようだ”という表現がぴったりだと千尋は思っていた。

 それが、あの口からあの科白を聞いた時、疲労のあまりとうとう幻聴が聞こえるようになってしまったのかと思った。たまたま傍にいた岩長姫に「あれでも千尋の事を気遣っているんだよ」と言われなかったら、きっと幻聴で片付けていた。その後、岩長姫が今も旧友だと彼女の事を称するのを思い出し、狭井君も血の通った人間なのだと知った。


 自分はなんて幸せ者なんだろう。
 未熟な自分を支えてくれる人が居る。友と呼んでくれる人が居る。慕ってくれる人が居る。
 愛する人が居る。愛してくれる人が……。
「あれ?」
 微かな負の感情がよぎった。
「愛されてる……よね?」
 柊はちゃんとそう言ってくれた、あれは嘘じゃない……と思う。
「でも――――」
 何かが不安だった。
 いつも傍で見ていないと、何処かに行ってしまいそうで不安。もちろんそれもあるけれど、千尋はもっと別の不安があるような気がした。
「ああっ いけない、お茶が冷めちゃう」
 折角上手く淹れ直す事が出来たお茶が冷めてしまっては意味がない。千尋は慌てて柊を呼びに向かった。






「どうぞ」
 天気が良いので堅庭に出て楽しむ事にした。
「我が君手ずから淹れていただけるなど、恐悦至極です」
「大袈裟だな〜 柊はこのお茶が好きだったよね?」
 相変わらず恥ずかしいというか、大袈裟な表現をする柊に照れてしまう。それをごまかすように千尋は違う話を振った。
「よくご存じですね」
 柊は驚いたが、ふふと笑う千尋の笑顔に、聡い頭はすぐに理由を探り当てた。


 千尋が淹れてくれたお茶を、まず香りを楽しみ、次にゆっくりと味を楽しんでから、柊はぽつりと言った。
「些か妬けますね」
「誰に?」
 岩長姫から貰った干し無花果を一口かじって、小首を傾げるように千尋は柊を見た。
「自分に…です」
「どうして?」
 柊にも、干し無花果を手で薦めながら、千尋は問うた。
「あなたは、私の知らない私を知っておいでだ。その私に妬けるのです。私の知らない時間を、あなと共に過ごした私に」
「でもどちらも同じ柊だよ? 時間が少しズレただけで」
 珍しく憮然とした柊の貌に、千尋は可笑しくなってしまった。思わずクスと笑みを洩らしてしまう。それが気に入らなかったのか、柊の貌はますます面白くなさそうに歪んだ。
「私をからかうのは楽しいですか?」
 
 自分より随分年上の柊。
 言葉も立ち居振る舞いも自分よりずっと大人で、不安になる事がある。まだまだ子供の自分を、本当に好きでいてくれるのか。
 それが今の貌は、まるで年下の少年のようだ。
 その貌を見て、さっきの不安の理由が判った。
 柊から見れば出会ってすぐの自分を好きになってくれるかどうか不安だったのだ。
 出会った時、(というより正しくは再会なのだろうが)柊は、自分を昔から慕っているような発言をした。でも、それが本心かどうかは判らなかった。何しろ、「何枚舌があるか判らない男」と評されていたし、自分も長くその印象を拭えなかった。
 だから不安だった。“今の柊”が自分を好きでいてくれるのかどうか。
 それが今、ちょっと――分かってしまった。
 柊のヤキモチなんて初めて見た。

 可愛い、可愛くて愛しい。
 ずっと年上の男の人だけど、可愛い。

 愛しくて、千尋は思わず柊の髪に手を伸ばしていた。
 相変わらず柔らかいくせ毛。それなのにするりと指が通っていく。
「こうして髪に触れさせてくれたのは、“今の柊”だよ。一緒に戦っていた柊には触れられなかった、そして……」
 千尋は、そのまま手を首の後ろに滑らせて引き寄せ、ふわりと唇を重ねた。
「こんなことをした柊も、今の柊だけ……」


「…………姫…」
 あっけにとられ、隻の瞳は本当に驚いていた。
 千尋は、こんな貌をした柊も初めて見るような気がした。

 こんな柊も、本当に愛しい。
 じっと見つめていたら、首の後ろに差し込んでいた腕を不意に握られた。次の瞬間には、柊の貌にあった驚きの色はかき消え、いつものどこか艶めいた笑みに変わっていた。
「我が君は酷いお方だ。その様な瞳で、そのような事をされては、あなたの知らない私をもっとお見せしたくなる」
 少し掠れたような、耳元で囁くように言われて、今度は千尋が驚いた。背筋を得体の知れない何かが駆け抜ける。

 そして、訪れたのは、自分がしたのとは全く違う、熱を帯びた口づけ。
『これって……』
 経験はないが、異世界でしばらく過ごした自分には、これがどういった意味を持つ口づけなのか思い当たる。
 その先へ踏み出すかどうかは、たぶん自分次第。
 素直に柊を受け入れながらも、千尋は、どうしたらいいのか、どうしたいのか考え倦ねた。

 晴れた空に掛かる太陽は、高度をかなり下げていた。


愛しく思えば思うほど、不安になるような気がします。
特に柊は、散々アカシャに打ちのめされて来た分、疑り深くなっているというか、不安で仕方がないんじゃないかな〜と思います。
(2008.09.14)

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