名前を呼ぶだけで

 昼食時の当番の私は、受付の椅子に座って外からは少し隠れるようにして、クロワッサンサンドを一口かじった。それをこくんと飲み込んだ時、外から良く知っている騒がしい足音が聞こえてきた。
「これ、返却頼む」
 その人は、図書館に入ってくると、それまでとは打って変わってそっと足音を潜ませて、今日も元気な姿を見せてくれた。
 私は慌てて、クロワッサンサンドをテーブルに置き、差し出された本を受け取った。普通を装って返却の手続きの作業を行いつつ、チラッとその人を盗み見る。にこにこと笑っている所を見ると今日は目当てのパンにありつけたのかな? その屈託のない笑顔を見ると私も嬉しくなる。いつまでもやんちゃな少年のような人。友達なんかは落ち着きがないって言うけど、私は彼のそんな所も美徳だと思う。そう返したら「あばたもエクボね」と笑われた。そんなにはっきり言わなくても、そりゃ思いっきり当たってるけど。それでも、なにかれと彼の好きなものとか調べてくれたり、随分と協力してくれる。恥ずかしいからいいよ、と言っても「まかしといて」と彼女たちははりきる。嬉しいんだけど、本気でちょっと恥ずかしいのよね。あんまり何度も彼に接近して、自分の口から告げる前にバレちゃったらどうしようかとか……。
 はあ。
 どうやらそれは危惧だって事がすぐに分かっちゃったけど。
「はい、いいですよ」
 返却完了。今日の会話はこれで終了かな?
 私の言葉に、彼はにこっと笑って図書館の奥へ足早に歩いて行った。彼は昼食後そうやって図書館の一角で過ごす事がよくある。意外な事に、本当に静かに。普段の活発な姿からは想像もつかないような……。だから、彼を知っている人も、そこに座っているのが彼だと気が付かず、ふいに目線が合って驚いているのを目にした事もある。
 返却された本を見て私は思う、彼は実は読書家なんだと。ジャンルに拘らず、目に付くと取り敢えず読んでみるらしい。そういう先入観のなさはちょっと羨ましい。私はつい好きなジャンルの本ばかり読んでしまう。でも、彼だって気に入った物は暫くそれ中心に読んでいるんだから、別にいいじゃない。近くには誰もいないのに、言い訳をしてしまった自分に苦笑する。
 今気に入っているのは「ププルンシリーズ」みたい。幼年向けの児童文学だけど、確かに面白い。私も好きなシリーズ。ただ、他にも気に入っている人がいて、そっちもまた意外なんだけど風紀委員の雷神さん。大柄でどう見ても肉体派なのに、にっこにっこして「これ頼む」と、勢いよく受付のテーブルにププルンの本を置かれた時には驚いた。そして、彼と似たような屈託のない笑顔に、何故か納得した。今はどっちが先まで読んでるんだろう。知らずに競争している二人を想像するとつい笑ってしまう。
「これお願いします」
 クロワッサンサンドを食べ終わった頃、専門書をいくつか抱えた青年がやって来た。SeeD試験の勉強かな? どこか疲れているような表情に、無理しないで下さいねと心の中で呟いて、処理を終えた本を渡した。青年の足音が去ると図書館は再び静寂に包まれた。
 本当に静かだ。今ならペン一つを落しても、部屋の端からでもどこで落したかすぐに分かる事だろう。私は、軽い昼食も終え、これといった作業もない時間を持て余すように、ぐるっと図書館の中を見回した。
『あれ? もしかして今ここにいるのってゼルさんだけ?』
 暫く前の時間まで遡って、そこから人の出入りを振り返ると、どうやらそうらしい事が分かった。
『うわ〜 二人だけ??』
お互いが居るのは図書館の端と端、それでも二人きりだと思うと妙にドキドキした。奥のテーブルに座っている後ろ姿が、途端に近くなったような気がする。このまま後ろ姿を眺めていたい、でも何だか恥ずかしい。こっちを振り返られるときっと困る。ある筈のない想像までして、焦ってしまう。私は思わずくるっと身体の向きを変え、意味もなくコンピュータのキーボードを叩いてみたりした。
「あっ」
 その時偶然、次回入庫予定の一覧が表示された。その中に、とある本を見つけた。
「新刊出たんだ」
 彼のお気に入りの「ププルンシリーズ」の最新作。教えてあげたらきっと喜ぶだろうな〜と思うと、つい笑みが零れた。
「貸し出し頼む〜」
 自分の世界に浸りかけていたので、いつの間にか彼がすぐ近くに立っていたのに全く気が付かなかった。
「はいっ」
 少し乱暴に、本を受け取ってしまった。余りにふいの事だったので、手の動きも動揺まみれでもたもたしてしまった。何とか処理を終えて本を彼に渡すと、「さんきゅ〜」と笑ってくれた。そして軽い足取りで出口へと向かう。
『そうだっ』
「ゼッ、ゼルさん」
 言ってしまった。思わず名前を呼んでしまった。今まで名前で呼んだ事なんて無かったのに、彼にとってはただの図書委員なのに、いきなり名前で呼んだりして変に思われたらどうしよう、私のバカっ!
「なに? 俺なんか、マズイ事してた?」
 私の心配をよそに、彼は戻って来るとごく当たり前のように返事をしてくれた。その事に私は、ホッと胸を撫で下ろす。このチャンスをムダにしてはいけない。
「あの、ゼルさんププルンシリーズお好きですよね? 私も好きなんです」
 じゃなかった。私やっぱり緊張してる。
「え、と、最新作が来週入りますよ。良かったら予約しときますか?」
 ああ、こんな事言うつもりじゃ……。これって、職権乱用じゃない。ホント私動揺してるなあ。
「うわっ、ほんとか!? するする、予約する」
「でも内緒にして下さいね。ホントはダメなんです」
 あまりに嬉しそうな返事に、今更断るわけにも行かず、私は少しの良心を押しやってそう返事をした。
「うん、分かった。俺、こう見えても口は堅いんだぜ」
 どんと胸を張って言う姿が、ほんとゼルさんらしい。そして、ヒミツを共有してしまった事に、心が躍った。
「はい、じゃ入庫したらお知らせしますね」
 私も彼のように元気に笑ってみた。

『また名前で呼んでもいいかな』
 彼と話せるきっかけを作る事が出来た喜びに、私の小さな良心の呵責はどこかへ飛び去っていた。


ゼルは鈍いのか、それとも……。何はともあれ、三つ編みちゃん頑張れ!
(2008.06.15)

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