究極なる救世主

「ミーシャ、良かった、間に合って。一緒に帰ろう」
 ドアが閉まる寸前、息を切らせて駆け寄った男は、エレベーターにそのまま乗り込んだ。
「ダニエレ、今日は残業じゃなかった?」
 エレベーターの中には二人しかいない。ミーシャと呼ばれた女は、乗ってきた男にクスッと笑って問いかけた。
「来週から、君魔女研へ出向だろ? だから急いで仕事終わらせてきた」
「そうなんだ。私に会えなくなるとさみしい?」
「当たり前じゃないか。ひょっとして君はラッキーとか思ってる? …あ」
 ダニエレは、ミーシャがクスクスと笑っているのに気が付いて、そこで言葉を切った。
「わざと言ったね」
「うん」
 まだ笑いながら、「それが聞きたかったの」と付け加え、憮然としているダニエレに近づくと、ミーシャは彼の首に両腕を回した。相手がまだ気付かないうちにキスをする。他にジャマする者は誰もいない密室は、口づけを交わす恋人同士にとって、小さな楽園のようでもあった。
 頬に暖かな光を感じて、名残惜しむように二人はようやく離れた。エレベーターはいつの間にか建物内を抜け、透明なチューブの中を降りていた。高く乱立する建造物のすき間から赤い夕日が見える。機械で埋め尽くされたこの都市にも、平等に太陽は昇り沈んでいく。今まさに、空を茜色に染めて、太陽がビル群のずっと向こう、地平の彼方へと沈みゆこうとしていた。
「キレイね」
「ああ」
 ダニエレの胸に頭をもたせかけて、ミーシャは夢の中にいるように呟いた。




「これがうちのチームの部屋、でスタッフがここに居る全員」
 ミーシャにそう説明してくれた後、彼女を案内してくれた男性は、今日は珍しく皆そろってるなと、満足そうな笑顔で独り言を呟いた。
「ちょっと今までとは大分勝手が違うだろうけど、宜しく」
 穏和な笑顔でミーシャの上司となる男性は、彼女のデスクまで案内すると、改めて挨拶をした。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 パッと見た限りでは、ウワサほど変人の集まりというワケでもなさそうなので、ミーシャも笑顔で応えた。
 魔女研究所、通称オダ研。世界の最先端科学を誇るこの国に於いて、おおよそ科学とはかけ離れたこの施設は、それでも遙か昔からこの国にとって大事な研究所なのだそうだ。生体科学を専攻している自分に、突然オダ研への出向辞令が出た時には、不要な人材として左遷されるのかと思った。
 ところが、いざ仕事を始めてみるとけっこう楽しかった。
 確かに、どこかしら変わったところのあるスタッフもいたけれど、マッドサイエンティストなんて、大抵そんなものだということは、自分も科学者の端くれとして自覚はあった。けれど大半は普通の気さくな人達だった。
「明日、ジャンクションマシン・エルオーネの作動実験だそうよ」
「あ、それ私も立ち会うことになってるんですよ。データの解析をするだけだから、居なくてもいいような気がするんですけど。それより具体的にどんなものなのか良く分からないんです、その機械。どんなものなんですか?」
 隣のデスクの同僚と昼食を摂りながら、ミーシャは尋ねた。
「う〜ん ひとことで言うと、人の精神を過去の人間の意識の中へ送り込む装置」
「すごいですね、魔女研てそんな装置まで作っちゃうんですか?」
 かなり突拍子もない話のような気もしたが、同僚の女性の真面目な顔にミーシャは素直に感動した。
「そうよね、すごいわよね。変人だって聞いていたけど、オダイン博士ってやっぱりすごい人だったんだと思うわ」
「名前は聞いたことあります。オダイン博士って。昔、魔女や魔法の研究で功績をあげた人ですよね」
「そう、彼がいなければ、今魔女なんて信じる人はいなかったと思うわ。もう百年以上その存在は人の目に触れてないもの」
「ですよね……」
 食後のコーヒーを飲みながら、ミーシャは安堵した。魔女研のスタッフは皆魔女に傾倒している人なのかと思っていたけれど、魔女の印象は自分とさほど変わらないようだ。



 厳重なチェックを何度も受けて辿り着いた部屋で、実験の準備が進められていた。部屋の一番奥にそのジャンクションマシン・エルオーネが設置されている。もっと大掛かりな機械かと思ったらそうでもなかった。ドリンクの自動販売機の半分位の大きさで、ころんと丸みを帯びたフォルムはどこか愛嬌があって可愛らしく、エルオーネという女性名がよく似合っていた。
 その装置を取り巻くスタッフの一番外側に、ミーシャは立っていた。自分は今回の実験に直接関わったスタッフではない、この実験の後、取得したデータを専門の生体科学の観点から分析をするのが担当だ。
 ミーシャが一番後ろから半ば他人事のように準備の様子をみていると、このプロジェクトのチーフから実験についての説明が始まった。
 所要時間は約5分から10分程度と予想、被験者は女性一名。実験内容は、被験者の精神を過去の人間の意識の中へ送り込むこと。注意点として、知らない人間の意識に入ることは出来ない。
 一通りの説明が終わると、静かに実験の開始が告げられた。
 だが、見ている限り、具体的なものが視覚で判るような実験ではない。判ることと言えば、周りに設置されたモニターには様々な数値や記号が、かなりのスピードで流れていること。それ以外はジャンクションマシン・エルオーネの静かな動作音だけだった。
 ミーシャは急に眠くなった。今日、大事な実験ががあることは判っていたので、昨日は早めにベッドに入ったのにと思いながら、皆から隠れるように大きく欠伸をした。

 目まぐるしく景色と人の顔が通り過ぎていく。それと同時に色んな感情が流れ込んでくる。愛しさ、慈しみ、労り、切なさ、恐怖、憤り、怒り。数多の人の思考のような。まるで自分が体感しているかのように、それらの感情に触れる度に心が軋む。
 その中で一つ突出した感情に惹きつけられた。
 激しい怒り、とほんの少しの哀しみ。その在処へ、身体が強く引き寄せられている感覚が襲う。矢のように流れていた景色と様々な感情の渦が突然停止した。
 元は豪奢であったのであろう、半ば廃墟のようにも見える部屋。脇に控えるように立つ異形の獣。研究所の資料で見たことのある、古のモンスターに酷似した。しかしそれは、自分を襲ってくるでもなく、傍らで微睡むように目を閉じ寝そべっている。白い手が身体を撫でれば、気持ち良いとでも言うように獣は喉を鳴らした。
 部屋の中には他にもモンスターと思しき獣の姿が幾つかある。いずれも、大人しくそこに居るというだけに見えた。
『一体ここは……』
 そう思った時、声が聞こえた。
「こざかしい、私を更に過去に送り込んだか。ふん、それも望んでいた選択肢の一つだ。何人もの魔女の力を手に入れた私に敵うものか。例え創世の最も強きSeeDでも、私には敵わぬ。お前もそう思うだろう」
 嘲うかのように吐き捨てた後、白い手が再び侍る獣の喉を撫でた。
『魔女!? 私は魔女になった夢でも見ているの!? それにこの声……』
「煩い、黙れ。私と言えど邪魔はさせぬ。過去へ帰れ」
『私の声!? 過去へ帰れとは、どういうこと!? これは夢なのよね』
「過去の私に答えよう。この私は未来のお前だが、この時空は過去、そして私は魔女。魔女アルティミシア。これ以上は答える必要はない。過去へ帰れ、そして待つがいい。この世で最も尊き存在、魔女となる時を、もう間もなくだ」
 女の高笑いが聞こえた後、また何かに身体が急速に引っ張られた。引っ張られながら、頭の中を恐ろしい早さで疑問が駆け巡る。今のは何なのか。現実なのか。夢なのか。夢にしては、獣を撫でた感触は酷く現実味を帯びていた。自分と同じ声をしたあれは、一体何者なのか。自分と同じ名前の魔女!? あり得ない見たこともない、魔女など。何て陳腐な夢だろう。最後にそこに行き当たり自嘲した。
「ミーシャ、大丈夫!? アルティミシア!」
 同僚の女性の狼狽えた声がした。目を開ければ、心配げな顔が覗き込んでいる。
「よかった、気が付いたのね、ミーシャ。もう急に倒れたからびっくりしたわよ」
「倒れた!?」
「そう、実験が始まってすぐ倒れたの。気分悪くない?」
「ううん、別に何ともないわ」
 ミーシャはソファの上に寝かされていた。やっぱりさっきのは夢だったのだと思う。実験開始の時、とても眠くなったのを覚えているし、昨夜は十分睡眠を取ったと思っていたが、異動して初めての責任ある仕事に、緊張していたのだろう。そう説明すると同僚の女性も、「私にも身に憶えがある」と笑って同情してくれた。
 少しのアクシデントはあったが、実験は無事に終わり、データも問題なく取れたようだ。
 解析は明日からだから今日はもう帰るといい、というチーフの言葉に甘えてミーシャは帰宅することにした。魔女研を出ていつも利用するリフターの所まで行くと、嬉しい人影が立っていた。
「ダニエレ、どうしたの?」
「何となく逢えそうな気がして、こっちへ来てみた」
「そしたら、本当に私が来たってワケ?」
「ん、まぁ、そんなとこ」
 図星だったのか、照れくさそうにダニエレは笑い、黒髪のくせっ毛をくしゅくしゅっと掻いた。つられてミーシャも笑う。時折こうやって彼は、黙ってミーシャに会いに来たりする。普段はそんなことしないけれど、ごく稀に。ミーシャは仕事中あんなことがあった後だけに、今ダニエレに会えたことが嬉しかった。
「夕食どう?」
「そうだね、ちょっと郊外へ行ってみない? いいお店見つけたんだ、それと聞いてほしいことがある」
「ええ、いいわよ。聞いてほしいことってなに?」
「それは後で」
 心なしかダニエレの声が若干緊張気味だったような気がしたので、ミーシャはそれ以上は聞かなかった。それよりも久し振りに郊外へ出掛けられることの方が楽しみだった。エスタシティの中心地は、異様に透明度の高い人工物で埋め尽くされ、買い物も便利になりすぎて、ウィンドウショッピングも殆ど出来ない。恋人と時を過ごすには、昔の町並みを残している郊外の方が向いていた。他の国に比べれば、それでも殺風景な部類ではあったけれど。




 外灯に照らされぼんやりと建物の輪郭が浮かび上がる通りを、ミーシャはダニエレにもたれかかるようにして歩いていた。
「何だか夢みたい」
 夢の中にいるような、うっとりとした気分だった。
「僕もだよ。地に足が着いてない感じがする」
「貴方でもそうなの?」
「どういう意味だい、それ」
 ダニエレはわざとふて腐れたように言った。
「ごめんなさい、ありがとう」
 ミーシャは、今まで生きてきた中で最高に幸せな気分だった。雰囲気の良い店で食事をして、その後思いがけずプロポーズをされた。全くの予想外だったので、一体何を言われたのか分からず、一瞬頭が真っ白になってしまった。その後プロポーズをされたのだと分かると、今度は嬉しくて嬉しくて、ポロポロと涙が零れた。目の前の彼がひどく狼狽えていのるが分かっても、なかなか涙が止まらなかった。やっと涙が止まって、彼を見ると、ハンカチを差し出そうとしたまま固まっていた。今度はそれが可笑しくて笑ったら、呆れたような、怒ったような顔をされた。
「ダニエレのお嫁さんになるのね」
 ミーシャはついさっきのことを思い出し、ダニエレの腕に絡めた手をぎゅっと握りしめた。
「式はミーシャの出向が終わったらすぐでもいい?」
「ええ、そうね。今すぐだと、別居婚になっちゃうし」
「それは流石に淋しいな」
 冷たい夜気も、仲睦まじい恋人達の邪魔をするような無粋なことはしなかった。
 だが、突然二人の前に近くの建物の影から人が転げ出てきた。女。咄嗟にもそう判別出来る、髪が長く細い身体のラインの人影。力が入らないのか、よろよろと足元がおぼつかない。
「大丈夫ですか!?」
 女の足がもつれて倒れそうになった所を、ダニエレが支えの手を差し伸べた。女はぎこちなくダニエレの方に顔を動かした。怯えたような眼が彼を見る。
「寒いんですか?」
 女の身体が小刻みに震えているのを見てミーシャは尋ねた。女の眼が今度はミーシャを捉える。その視線とかち合った時、ミーシャの背筋を冷たい衝撃が駆け抜けた。女の顔が尋常ではない。若い娘と思えた顔が、一瞬のうちに豹変したようにミーシャには見えた。肉が削げ落ちたように痩せこけ、更に水分まで消え失せたかのように、皺が深い。夜の外灯の下のせいか肌も浅黒い。生気というものがまるで感じられない。その顔の中で眼だけが若い娘のように、瑞々しい光を放っているのが何とも不釣り合いで不気味だ。
 ダニエレに支えられたまま、女はその眼で、ミーシャをじっと見ている。ミーシャはその眼が怖かった。自分の心の奥深くまで見通されているような。拒むことの出来ない強い力に押さえつけられているような圧迫感も感じる。これ以上この女を見ていてはいけない、巨大な力に吸い寄せられてしまうような恐怖が足元からじわりじわりと這い昇って来る。
『お願い、引き受けて。アナタしかいない……』
 頭の中に声が響いたと同時、瞬きもしない女の眼から涙が溢れ落ちた。顔も、最初に見た大人しげな娘の面差しに戻っている。
『私を解放して……身体と同じように、心も眠らせて……』
 酷く哀しげな声だった。長い間牢獄にでも閉じ込められていたかのような。
「何をすればいいの? 病院に連れて行きましょうか?」
 自分に出来ることなら、力になりたいとミーシャは思った。
「手を……」
 力なく差し出された女の手を、ミーシャはそっと握った。途端、握った手をつたって、凄まじい早さで雑多で膨大な量の情報が流れ込んできた。その中で一際痛烈なものが、作動実験中に見た夢と酷似した映像。色んな女の人の姿が、現れては消えていく。そして、その人達のものであろう感情も。慈しみや労り愛情といった感情はごく僅かで、恐怖、憤り、怒りが大きなうねりとなって流れ込んでくる。それらに押し流されて自我を失ってしまいそうだ。そう思った時、ダニエレの声が聞こえた。
「ミーシャ、大丈夫か!?」
 ミーシャは地面に倒れていた。顔を動かせば、女を抱えたまま心配そうに覗き込むダニエレの顔があった。ミーシャは慌てて身体を起こした。
「その人は!?」
「分からない、急にぐったりと力が抜けた」
「まさか、死んだの!?」
「そんな……」
 ミーシャとダニエレが困惑し、女の様子を伺っていると、後方から夜の街にはふさわしくない、乱雑な複数の足音が聞こえた。
「いたぞ!」
 男の声がして、こっちへ近づいて来るのが分かった。
「失礼、その女性の身内の者です」
 夜の闇に紛れるような色のスーツに身を包んだ男が数人、二人と女の周りを囲むように気配も感じさせず立った。その男の内の一人が、ミーシャとダニエレの間を割るようにしてしゃがみ込んできた。
「あなたが助けてくださったんですか?」
 静かに問うた男の声には感情が感じられなかった。
「ええ 助けたというほどではありませんが。どこかご病気なんですか? 急に動かれなくなったんですが」
「動かない!?」
 スーツの男は僅かに眉根を寄せると、女の首筋に指を当てた。男は指を離すと無言のまま振り向き、後ろに立っている別の男に向かって首を振った。
「失礼ですが、ここに居合わせたのはあなた方だけですか?」
 声と同じように感情の見えない瞳が、ミーシャとダニエレに向けられていた。
「ええ 多分そうです」
 ダニエレは周囲を見回し答えた。少し離れた所を歩いている人はいるが、近くにいるのは自分達だけだった。
「手にケガをされていますね」
 しゃがんだ男がミーシャの腕を見ていた。女に掴まれた時にケガをしたのだろうかとミーシャが腕を上げた時、すかさず伸びてきた手にぐいと掴み上げられた。
「イタッ」
「何を…」
 ダニエレか抗議の声を上げ、ミーシャが痛みを感じた先に、金色のバングルが見えた。
「ご迷惑をお掛けしたお詫びにこれを差し上げましょう」
「ご迷惑!?」
「その女性を助けて頂いたお礼だと思ってください」
 ダニエレがかかえている女を、別のスーツの男が抱き上げようとしていた。この男もまた無機質な顔をしている。奇妙な連中。物腰は静かで言葉も丁寧だ。だが、そこには有無を言わせぬ威圧感と慇懃無礼さを感じる。むしろそちらは隠そうともしていない。
 ダニエレは無性にこの場を早く離れたいと思った。
「ミーシャ行こう」
 乱暴にスーツの男の握っている華奢な腕を引き剥がす。かしゃんと地面に金属が落ちた音がした。
「…あ」
 きちんと留まっていなかったのであろうバングルが、硬質な地面の上でクルクルと回転して止まった。それを視界の端で一瞥してダニエレは、ミーシャの手を引き足を踏み出した。
「待て」
「まだ何か?」
 もう何の関わりもない筈の自分達をまだ引き止めようとする男に苛立ちを覚えたのが、ダニエレの声にはありありと表れていた。
「君ではない、連れの女の方だ」
 初めて感情の片鱗が見えた、ダニエレがそう思った時には、スーツの男達が、彼とミーシャをそれぞれ両脇から挟むように捕えていた。
「いや、離して!」
「何をする! 彼女を離せ!」
 ダニエレは必死で戒めを解こうとしたが、両脇の男達はピクリともしなかった。それ所か二人の距離は、いつの間にか離されてしまっている。
「乱暴はしません。このバングルをはめてくれるだけでいいんです」
「いらない! そんなもの!」
「大人しくして頂けませんか? でないとお友達が怪我をすることになりますよ、美しいお嬢さん」
 必死で藻掻いていたミーシャは大人しくなった。ダニエレの首筋にぴたりとナイフが当てられている。鋭利な切っ先が、ダニエレを見たミーシャの胸を鋭く突き刺した。
 一体なんだというのか。倒れそうな女性を助け起こした。それだけのことだ。むしろ褒められて然るべきことだ。女性は不幸にして亡くなってしまったが、それは自分達のせいではない。関係ないのだ、自分達には。なのに何故、こんな目に遭わなければいけない!? 理解の範疇を超えた理不尽さに、自分の知らない昏い感情が、心にぷつと浮き上がってきたのを、ミーシャは感じた。
「彼を離して」
 自分でも驚くほど落ち着いた声だとミーシャは思った。そしてどこか自分の声ではないような感覚も覚えた。更に続けて、昏い感情がぷつぷつと浮き上がってくる。
「バングルを!」
 スーツの男の一人が言ったのが聞こえた。
「触らないで!」
 慌ててバングルを持った男がミーシャの方へ動いたが、ものすごい勢いで後方へ吹っ飛んだ。
「やめろ! コイツを殺すぞ!」
 ダニエレの首筋を一筋赤い線が流れたのが見えた。
 殺意が芽生えた一瞬ののち、自分の目の前で何が起きたのかミーシャには何も分からなかった。



「ダニエレ大丈夫!?」
 ミーシャは顔を生温かい何かが伝い流れていくのを感じながら、地面に座り込んでいるダニエレに駆け寄ろうとした。
「来るな!」
「!?」
 ミーシャは酷く困惑した。誰に向かって言っているのか分からない。彼があんな怯えた眼で自分を見る筈がない。自分は、あの男達から彼を助けた。だから、アノ眼が見ているのは自分ではない。
「近寄るな! バケモノ!」
 さっきのナイフが自分の心臓を貫いたのではないかとミーシャは思った。それとも石像になってしまったのか。身体も思考も全く動いている気がしない。自分の身体と心のなのに、まるで別の誰かのような。それでいて。酷く。真っ赤な何かが滴り落ちる自分の手は、生々しいまでに現実だった。
 それでもまだ、心は求めていた。
 信じている。
 彼は、彼だけは、私を――――。
「……ダニエレ……愛してる」
 新しい温かい雫がミーシャの頬を流れた。
「僕は……バケモノなんか、愛した覚えはない……」
 尚も逃れるように後退りをし、恐怖を張り付かせた愛しい顔は、もう、ミーシャを視てはいない。
 人が集まってきていた。
 赤い液体が池のように広がっていく。池の中にも外にも、大小様々な物体が転がっている。物体の殆どは近づかないと判別出来ない程の欠片となっていた。それが何であるか分かった者は皆一葉に、あまりにも異様な状態に、口を押さえ眉をひそめていた。踏みしめたのが人の身体の一部であったことに気付き吐いた者もいたが、不思議とそこを離れる者はいなかった。
 その真ん中にいる男と女。
 男はへたり込むように地面に座り、じりじりと女から後退っている。そこから数歩の所に立っている女は、全身を赤く染め、死んだように動かない。
「あの女がやったのか!?」
 誰かの声。
「まさか、こんなの人間ワザじゃないぞ」
「モンスターか!?」
「こんな町中にモンスターなんていないわよ」
「じゃあこれは何だってんだ!?」
 口々に言い合う。
「魔女だ」
「なんだよ、ソレ。どんなお伽噺だよ」
「違う、魔女は本当にいるのよ! ほら、あそこに」
 指をさす。そこに集まった無数の眼が一斉にミーシャに向けられた。
 ミーシャは集まった人々の方をのろりと見回す。どの顔も、眼も、ダニエレと同じ。
 恐怖の色しか感じられない。
 誰も、血まみれの彼女に、大丈夫か? と声を掛ける者はいない。
 誰も――――。


 そうか、これが“魔女”なのか。
 自分でも空恐ろしくなる程の、強大な力。
 人々を震え上がらせる存在。
 神秘なる力と引き替えに愛しい者を失うのか。
 それが魔女なのか。
 自分が望んだワケでもないのに。
 幸せな未来が自分にはあった筈なのに。
 もう自分を愛してくれる者はいないのか。
 かつての父のように、母のように。
 目の前の男も同じように、いやそれ以上に愛してくれていると信じていた。

 それらは今、全てこの手から溢れ落ちてしまった。
 もう自分には何も残っていない。
 この能力(ちから)以外は――――。

 素晴らしい力ではないか。心の中から声がする。
『いらない! こんな力』
 お前は人を越えたのだよ。
『ちがう! 私はヒトよ!』
 アルティミシア、お前は世界の覇者になれる。
『世界なんか欲しくない! 欲しいのは――』
 悲痛な叫び声と、高慢な嘲笑が重なって聞こえた気がした。



 時は砂が落ちる早さで過ぎていく。
 一度落ち始めた砂時計の砂は、決して止まらない。
 最後の一粒が落ちるまで。



 神々しいほど蒼白の満ちた月が昊には在った。
 まるで浮き上がるのを防ぐかのように、地上から伸びた鎖に繋がれた巨大な城。長い時、そこに在ったのか、それとも始めからそうであったのか。廃墟のような禍々しい気をまとわりつかせた、その城の奥。女主の声がした。
「アンドロ、お前にも聞こえたか、足音が。バカな人間が久し振りにSeeDを送り込んで来たようだ」
―― 永い時をこの城で待っている ――
 アルティミシアは、自分よりも遙かに大きな異形の獣に優しく問いかけた。アンドロが微かに頷いたように見えた。
「お前達はかわいい。人間などと違って、けして私を裏切らない」
―― 肉体が刻む時はとっくに止まった ――
 白い繊手がアンドロを愛おしげに撫でると、近くにいたコキュートスも寄ってくる。
「人間はお前達を醜いと言うが、人間の方が余程醜いではないか。自分達に都合の悪いものは、悪として排除する。気に入らぬものは貶し蔑み、気に入ったものは褒めそやす。平気で他人を裏切り、傷つける、その口で傷ついたのは自分の方だと言う。自ら世界を壊しているのは自分達だと気付こうともしない。悪しきものを自ら創り出し、自分達は善人の顔をする。それを醜悪という他に何と呼ぶのか」
―― それでも私は人から愛されたことを知っている ――
 アルティミシアの言葉に呼応するかのように、巨城全体が震えた。
「そんな世界など、どれほどの存在価値がある。そんな人間にどれほどの存在価値がある」
―― 破壊と殺戮の日々はもう…… ――
 アンドロが、コキュートスが、この部屋の中にいたアルティミシアのしもべ達が、静かに出ていった。

「さあ 始めよう。創世のSeeDと最後の死の演舞を」
―― さあ 与えて。私に死という名の安息を ――


 手から溢れ落ちた砂は決して戻らない。
 過ぎた時が戻ることはないように。
 過去が変わることはないように。


【Ultimate Messiah】 アルティミシア(Ultimecia)の名は、この二つの単語から造られたのではないかと、私は思っています。だとすれば、皮肉な名前を与えたものです。自分以外のものを全て否定し、あたかも自らが自らの救世主になったかのような。
少しでも愛された記憶がある、というのは、愛が何者か知らないことより、愛を失った時の喪失感・絶望感は計り知れないでしょう。それこそ、何もかも否定したくなるほどに。
私には、誰より愛を乞い、救いを希っていたのは彼女のような気がしました。そう考えると、『愛』がテーマのFF8のラスボスとして、実にふさわしい人物だったのか……。
リノア、イデアとアルティミシアの違いは、信じてくれる者(或いは、魔女の騎士)がいたかいなかったか、それだけのように思います。
(2009.02.14)

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