名前を呼ぶだけで

 ガーデン内のキスティスの職務室。
 渡された書類のチェックをする為にパラパラと捲ると、ある所で手が勝手に止まった。チラッと見えた文字を確かめる為に、その書類に目を通す。小さな文字なのに、それを見逃さなかった自分に苦笑してしまう。そして自覚した。
 無意識のうちに、手が動いちゃうほどなんだな〜、と。
 普段、呼び慣れてはいるけど、それは愛称の方で。改めて、視覚的に正しい表記、というかフルネームを見ると、妙に心がざわっとした。その名前の持ち主に自分は特別な感情を抱いている。
 書類に書いてある名前の上をスッと指でなぞってみる。
「アーヴァイン・キニアス」
 ふいに口からこぼれた言葉は、新鮮な響きだった。
 誰より身近な人なのに、まるで知らない名前のような、――――不思議な感覚。
 声にしてしまったせいなのか、頭の片隅にやたらこびりついてしまった。
 どうしてだろう。
「外任務でずっと会えてへんからかなあ……」
 だから、ちょっと淋しいのも事実なのだ。自分の外任務とアーヴァインの外任務の日程が微妙にズレていて、ここ暫く会えていない。
 でも、少し前までは、大切ではあるけれど仲間の一人に過ぎなかった。更にそのちょっと前なんか、5ヶ月間殆ど会わなくても全然平気だった。なのに恋人という関係になった途端、会えないのが、傍にいられないのが、酷く淋しいと思ってしまうことがある。いつもではないけど、たま〜に、とても会いたくなる。
 人を好きなるっていうことは、何だか良いことで、ステキなことだと思っていた。けれど、実際好きになってみると、嬉しいこともたくさん、イヤなことも結構あった。イヤなことの大半は、自分の嫌な面を見つけてヘコむというものだったけど。
「大体、アービンもあかんねん。基本誰にでも優しいし、ムダに男前やし……って、何でアービンに八つ当たりしてんねやろ…」
 そうじゃない、自分が気にしなければ良いだけなのだ。アーヴァインのことを信じてさえいれば。女の子と話をするのも、囲まれたりするのも、今に始まったことではない。ず〜っと前からの年中行事だ。自分だって、男の子の友達はたくさんいるし、話もすれば場合によっては行動を共にすることもある。アーヴァインのことだって、気にならない時は全然気にならない。
「アカン、これ以上考えたら、絶対悪い方向にいく」
 あたしは、無理矢理考えるのをやめた。タイミングよく、お昼を知らせる携帯のアラームが鳴った。
「よし、美味しいもんを食べにいこっ! お腹が空いてるから変なコト考えるんやわ!」

 なのに、食堂に向かう途中、前方を歩いていた女の子達の会話の中に、“アーヴァイン”の名前を聞いてしまった。更に、あたしに気付くと、あからさまに会話はピタッと止まるし……。
 視線にトゲがないだけましかな。
 それより、付き合ってるコト、もうバレちゃってるんだな〜。こういうのに遭うのがイヤで内緒にしたかったのにな〜。あたしの思惑とは反対に、アーヴァインはいつもにっこにこと傍に寄ってくる。恋人になる前からそうだったけどね。ただ、以前と違って“恋人”なんだって思うと、を妙に意識しちゃって前のように軽く話をしたりするだけでもドキドキする。人前だと余計に……。だから、あたしとしては、極力避けようと思ってみたりするんだけど、アーヴァインの人なつっこい犬みたいなほやほや笑顔に、つい―――― ほだされてしまう。
 はぁ…。
 そりゃ、バレるか。ていうか、またアーヴァインのことを思い出してしまったではないか……。
 あたしは、通路に置いてある背の高い観葉植物に隠れるようにして、盛大にタメイキをついた。




 午後からは、会議の終わったキスティスも一緒だった。それ自体は良い。何の問題もない。それに此処は彼女の職務室だから。ただ、スコールかシュウ先輩かは分からないけれど、電話での会話の中に何度も“アーヴァイン”の名前が出てきたのは、もう何かの嫌がらせとしか思えなかった。お陰で、集中力を欠いて何度もキーボードを打ち間違っては修正を繰り返し、いつもの倍以上作業時間が掛かってしまった。こんなコトをキスティスに言ったら、返ってくる言葉は分かっている。自分が未熟なのだ。
 ええ、わかっていますとも!
 心の中での叫びは、盛大にエンターキーを叩いてしまうという行動に現われ、電話を終えたキスティスに「何か怒ってる?」と怪訝な顔で訊かれてしまった。
 本当のコトなんて言えるワケがない、「何でもないよ〜」と愛想笑いをするのが精一杯だった。
「こいう時は汗を流すのが一番だよね」
 今日の職務が終了したら、武術室で思いっきり身体を動かそう。そうすれば、胸のモヤモヤなんか、いつもキレイに吹き飛ぶ。あたしは「よし!」と気合いを入れ直して、職務に戻った。



「セルフィも来てたのか」
 武術室で、いい感じに身体が温まって来た頃、ゼルがやって来た。
「あ、丁度いいや。ゼル組み手しない〜?」
「おっ、いいぜ」
 ゼルはいつものように、快諾してくれた。
 軽く礼をして、組み手を開始する。実践とはほど遠い形式に乗っ取った動き。にも関わらず、技を寸止めで決める度に、徐々にお互い熱くなっていた。真剣に、技を決めたくなってくる。相手は旧知の仲であり、実力も良く知っている。だからこそ、手加減なしで勝負したい、いつしかそんな思いで動いていた。少なくとも師匠の声が耳に届くまでは。
「セルフィ、腕上げてね?」
「ゼルこそ、前より動きが早いし、拳が重くなったよ」
 短時間の手合わせの間に驚くほど汗をかいていた。それをタオルで拭いながらゼルの方を見ると、彼もかなり汗をかいているのが分かった。確実に腕を上げていると感じた相手に、自分はあれだけの汗をかかせることが出来た。ゼルの言ったことを疑うわけではないが、それは言葉よりも確かな答えだった。そして、嬉しかった。
 やっぱり身体を動かすと気分が良い。このまま寮に帰って一休みして、その後リノアを誘って夕食を食べに行こう。
「なぁ、セルフィ。アーヴァイン今日帰ってくるんだっけ?」
 突然気分が急降下した。
 また“アーヴァイン”の名前。今日はその響きにいちいち心がざわつくというに、ゼルのアホ!! 無神経オトコ! と毒づきたかったが、落ち度なんかないゼルにそんなことをぶちまけるのは、そっちの方がアホだと踏みとどまる。
 そしてゼルの問いの答えを考える。そう言えば……。
「う…ん、多分今日だったと思うよ」
 多分じゃなくて、確実に今日だ。出発前にアーヴァインに嫌というほど念を押されたので、憶えている。ゼルに訊かれるまで忘れていたけど……。
「そうか、サンキュー。これ、やるよ」
 そう言って良く冷えたミネラルウォーターを一本くれると、ゼルは風のように武術室を出て行った。

 ゼルのくれたミネラルウォーターを飲んで、シャワーを浴びて、さっぱりしてから武術室を後にした。寮へ向かう途中の外に面した通路は、夜の風が涼しかった。
 暫くここで夜風にあたろう。何だか頬がまだちょっと熱いし。
 身体は程良い疲労感もあって心地良かったが、すっきりした筈の心はまたざわざわとしていた。
「ゼルがアービンのこと言うから……」
 それは間違いなかった。
 妙に今日一日居座ってしまったアーヴァインのことを、頭から追い出す為に身体を動かしたのに。それは確かに成功したのに、最後の最後でアレはないだろう。
 タイミングの悪い時は、本当にとことん悪い。あたしは、お腹ほどまでしかない壁を背にして、手でしっかり掴まって身体を後ろに倒した。
「明日も晴れかな〜」
 晴天だった空には宝石箱をぶちまけたような星が煌めいていた。
「セフィ」
「うえっ!?」
 驚いた、ものすっごい驚いた。危うくこのまま後ろへバタンとひっくり返るトコだった。
 こんなタイミングあり得ない!! 帰ってくる時間にはまだ早い。
「何してるの、セフィ?」
 幻聴で片付けてしまいたかったが、その声はどうしようもなく現実だった。
「おかえり、ア、アービン」
 取り敢えず、身体を起こし平静を装って言った。
「ただいま〜」
 けれど、いつものように、にこにこと嬉しそうな笑顔を、まともに見ることすら出来ない。今日一日、名前ひとつにドキドキビクビクしていたのだ。なのに、本人が目の前にいる。お陰でもうほんっとうに、心臓はバクバクしているし、頬と言わずもう耳までも熱い。
 顔なんかまともに見られない。というより、この場にいるのが、もう無理!
 本人はムリーーッ!!
「え、と、じゃ、また明日!」
 そう言って猛ダッシュした。
「ちょっ セフィ」
 後ろから追いかけてくるのが分かったけど、あたしは構わず走った。
 例えすぐに追いつかれてしまうとしても、全速力で走った。


普段は気にも留めないものが、ふとしたきっかけでもの凄く気になってしまう。恋をした始めの頃は、特にそんな事があるかと。
めずらしく、今回はセルフィが恋する乙女全開モードです。こういうセルフィはたまらん可愛いです。アービン、この幸せ者め。ちゃんと、追いつけたかなぁ……。セルフィものすごい勢いで走ってったから、途中ですっ転んでくれたりするとイイね。ま、頑張れ。
(2008.08.03)

← Fanfiction Menu