夕闇人魚

 中天から少し高度を下げた夏の強い日差しが、まさにジリジリと肌を焼く音が聞こえそうな午後。
「う゛〜、熱い。暑いじゃなくて、熱い〜。ね〜、キスティス、これからフリー?」
 セルフィは薄い本をパタパタと仰いで風を作った。
「ええ、そうよ」
「SeeD用のプールに泳ぎに行かな〜い」
 空調は動いているものの、外気の温度が遥かに上回っているせいか、セルフィには今日の職務室の暑さは少しばかり耐えかねた。本で作った風も生ぬるく、こんなものでは腕を動かした分余計に暑さが増したような気さえした。
「いいわね」
 快くセルフィの誘いに応じてくれたキスティスは、セルフィとは全く違い常と同じような涼しげな顔を少しも崩してはいなかったけれど、暑いと感じているのは同じらしい。
「あ、セルフィ、忘れる所だったわ。少し遅くなったけれど誕生日のプレゼント。私とリノアから」
 さあ、職務室を出ようという時に、キスティスは珍しく少し慌てた様子で机の横から何かを引っ張り出していた。
「わ〜、ありがとう」
 ちょっと大きめの紙袋をセルフィはキスティスから受け取った。
「服?」
 よく見かけるショップ袋に印字してあるお洒落なロゴは、バラムでも若い女の子に人気のブランドのものだ。
「ワンピースよ。リノアと絶対セルフィに似合うって意気投合したの。あまり女の子女の子してないシンプルなデザインだから着てみてね。デートの時とか」
「ありがとう、白のワンピースなんて自分じゃあんまり買ったことないから嬉しい〜」
 デートの時に着るかどうかはさて置き、ショップ袋の中の透明なラッピングの上からでも分かる、柔らかそうな手触りの生地に、すぐにでも手を通してみたくなったのは確かだった。




 新しい射撃訓練場があるガーデンの地下二階。射撃訓練場と同じフロアに作られたプールは全部で四つあった。幼年クラス用、一般男子用、一般女子用、それとSeeD専用。SeeD専用のものは不規則な任務の多いSeeDたちのために、他のプールより使用可能時間が長い。それとシャワーと更衣スペースが一緒になった個室も完備されていて、他よりちょっと豪華だった。
「あら、電気系統の点検って今日だったのね」
 女子更衣室ドア横にそういった内容の張り紙がしてあった。
「17時からってことは、泳げるのは着替える時間をはぶいてあと1時間30分くらいか〜」
「そうね、丁度良いくらいじゃない」
「だね」
 セルフィとキスティスは時計で時間を確認して更衣室へと入った。



「折角キレイな景色なのに、この水着はなんか興ざめだよね〜」
 セルフィは仰向けになってぷか〜と浮いたようにして、OCSで映し出されている抜けるような青空の天井を見ていた。
 景色だけで言えば、リゾートホテルの屋外プールにいるような気分も味わえる。一応訓練施設ではあるが、任務の疲れを癒したり、リラックスする目的も兼ねているので、背景にはOCSで景観のよい景色が使用されているという側面もあった。だが、残念ながら許可されている水着は、地味なデザインの競泳タイプのものだった。
「そうね、残念な気もするけれど、あまり色っぽい水着だと訓練にならないこともあるから仕方ないわね」
「それは言えるね〜、キスティスが悩殺ビキニとか着て泳いでたら、いくらSeeDでもきっと男の子たち訓練にならないね〜」
「あら、セルフィだって注目している男の子は多いわよ」
「え〜、あたしはそんなことないよ〜」
 気軽に話をする男の子は多いが、自分を恋愛の対象だと思っているような印象を受けたことはあまりない。だからといって、キスティスが嘘を言っているとも思わないけれど、セルフィにはあまり興味を惹かれる話というワケでもなかった。色恋沙汰はアーヴァインだけで手一杯だ。
 それに、そういう系統の話はなんだか照れくさい。セルフィは思い出したように背泳ぎで、キスティスからもその話題からも離れるように、どんどん水をかいた。そのまま続けて、キレイな青空の天井を見ながら500メートルくらい軽く流した。隣のレーンで、いつのまにか同じように泳いでいるキスティスと時々すれ違った。
「アレ、もうあたしたち以外誰もいないや。もう時間かな〜」
 水の上にぷかんと顔を出して周りを見渡して見れば、ここに来た時はセルフィたち以外に3人ほど泳いでいた姿が、いつのまにかなくなっていた。
「1時間を少し過ぎたところよ……あら」
 キスティスがプールサイドに置いてあった携帯電話を見て言った。
「どうかした〜?」
「メールが入っていたわ。ごめんなさいセルフィ、私ちょっと行かなきゃいけなくなっちゃった」
「呼び出し?」
「ええ、そう」
「そっか〜、じゃ、また明日ね〜」
「また明日、あらセルフィの携帯も鳴ってるわよ」
「え、ホント」
 プールの縁に腕を載せさらにその上に顔を載せてキスティスを見送っていたセルフィも、急いで水から上がった。片方の手で携帯電話を取り、片方の手でキスティスに手を振る。
「あ、アービン。もう帰ってきたん?」
 その声が聞こえたのか、キスティスがちょっと振り向き、笑顔を添えて手を振りドアから出ていった。
「夕食? いいけど、疲れてないん? ――そうなん。――今? プールにいてるよ。――――うん、わかった。ここにいてる。――うん」
 セルフィはアーヴァインからの電話を終えると、またプールに入った。アーヴァインはここに迎えに来ると言う。キスティスも行ってしまったし、もう上がろうかとも思ったけれど、まだもうちょっと水の中にいたかった。
 さっきと同じように、身体の力を抜いて仰向けになって浮き、ゆっくりと手だけを動かして水面を漂う。そうすると、天井も壁もOCSが映し出した夏のバラムの景色が視界一杯に広がって、ゆっくりと流れる真っ白の雲やときどき海鳥の姿も見えて、本当に屋外のプールでいるような感覚を覚える。それがとても心地よかった。水の中では腕を動かしても殆ど音もしない。目を閉じてみれば、気持ちのよい静寂の中、ゆらゆらと水中を漂う海月か熱帯魚になった気分だった。
「セフィ」
 ふいに名前を呼ばれて、セルフィは人に戻った。水の中があんまり気持ちよくて、さっきアーヴァインが迎えに来ると言ったのをすっかり忘れていた。
「びっくりした〜。アービン来るの早い」
「ジャマしちゃった?」
 セルフィは返事をしなかった。目標を定め、軽く底を蹴り反動をつけて水に飛び込む。そのまま潜水でプールの底をなぞるようにして端まで泳ぎ、勢いよく水面に飛び上がった。
「わっ、セフィ。冷たいよ〜」
 ついでにプールの端っこにしゃがんだアーヴァインに、水しぶきも少しお見舞いした。
「せっかく人魚みたいでカワイイな〜と思ってたのに、ひどいや」
「人魚は悪戯好きやねんで、知らんかった?」
「む〜」
「そこのタオル使っていいよ〜」
 少し不機嫌顔になったアーヴァインに、セルフィは自分のタオルの置いてあるベンチを指さした。
「アービン、今、何時〜?」
「4時40分」
「え、もうそんな時間」
「なに? なんかあるの?」
「うん、電気系統の点検が5時からあるんだって。その時停電になるから、もうあがらんと」
 セルフィはプールの角近くにある階段には回らず、その場でジャンプをしてプールから出た。途端水の中とは違う重力に身体が重くなったのを感じたのと一緒に、少し空腹も感じた。
「アービン、ホントに疲れてない?」
 アーヴァインが渡してくれたタオルで髪と身体を軽く拭き、更衣室へ向かいながらセルフィは訊いた。
「うん、今回の任務は体力的にも精神的にも楽だったんだよね。だからあんまり疲れてない」
「そっか」
 セルフィはホッとした。アーヴァインから、バラムの街で夕食どう? と提案され、嬉しくてついOKしてしまったものの、任務帰りで疲れているんじゃないかと後から気づき悪い気がしたのだ。
「トラビアは涼しかった?」
「うん、バラムは暑いね〜。帰ってきてトラビアが天国に思えたよ」
「今日のバラムは特に暑いからね〜」
「だから泳いでたんだ」
「そういうこと〜」
「あ、じゃ、僕ここで待ってるね」
 そんな会話をしながら歩いている内に更衣室の前まで来ていた。女子更衣室と男子更衣室とに分れるそこは、幾つかのテーブルと椅子が置かれていて、ちょっとした休憩が出来るスペースになっていた。そこで待つと言ったアーヴァインを残して、セルフィは女子更衣室の中へと入った。
 入ってすぐのベンチが並ぶ共有スペースを抜け、着替えもシャワーも浴びられる個室に入り水着を脱ぐ。アーヴァインと話をしていた時は全然気づかなかったけれど、触れた自分の肌が意外と冷たくなっていた。そう言えばプールは地下で温度は一定に保たれていて、水の中に入りっぱなしだった。それで冷えたのかなと思う。
 早く温かいシャワーを浴びよう。そう思ってコックを捻ったが、待てど暮らせど冷水しか出て来ない。
「アレ? シャワーも点検のうちだっけ?」
 そう思いながらも、何度か温水のコックを捻ってみたがやはり冷水しか出てくれなかった。
 待っていても仕方がない。身体がこれ以上冷たくならないように、さっさと浴びてしまおう。セルフィは愛用のフルーツの香りのするシャンプーとボディソープを持って、冷たいシャワーの中へ再び戻った。
「ん〜、あったか」
 シャワーを浴び終えバスタオルにくるまると、とても温かくてホッとした。別のタオルで髪を拭いていると、ふとキスティスに貰ったワンピースの入った紙袋が目に入った。
『着てみてね。デートの時とか』
 セルフィはキスティスの笑顔と共に言葉も思い出し、そっとワンピースを袋から取り出してみた。
「ホントだシンプル〜」
 それは麻が混じったような気持ちよい手触りの、淡い白のノースリーブワンピースだった。レースやフリルの装飾は殆どなく、夏らしく深めのカットの胸元に谷間を隠すようにレースが覗いているくらいだ。背中もフロントと同じように広めのカットで、四段ほどの小さめの編み上げがあった。スカート丈は膝の少し上で、裾がブルーグレイのグラデーションになっていて、これもまた夏らしい爽やかな印象を受ける。身体にあてて足を左右に揺らすと、追いかけるようにワンピースもふわりと揺れた。
「カワイイ」
 プレゼントしてくれた二人の見立て通り、セルフィもこのワンピースをとても気に入った。夏の夕暮れにもぴったりだ。今日はこれを着て行こう。
「くしゅっ、なんかさむっ」
 今更ながらバスタオルを巻き付けただけで、下着も身に着けていないのに気がついた。プールで冷えた身体は冷たいシャワーで更に少し冷やされた。いくら暑い夏と言えど、このままでは風邪を引きかねない。夏風邪はうんぬん、という話も聞く。そんなことになったらゼル辺りに大笑いされそうだ。セルフィはバスタオルを外し、着替えの新しい下着を手に取った。

「いまのなにっ?」
 下着を身に着けた所で、突然何かの音がした。
 そ〜っと耳を澄ませてみると、ピチョーンと水の落ちる音が聞こえた。良く響く、意外と大きな音だ。その音だけで室内の温度が下がりそうな、イヤな音だと思った。今まで気がつかなかったのが不思議な気もしたが、音源はシャワーの方からだと分かった。ちゃんと閉めたと思ったが、すぐにもう一度シャワーの栓を閉め直す。
「さむっ」
 再び荷物のある所まで戻ると、肌がブルッと震えた。なんだか本当に室温が下がったような気がする。セルフィは急いでワンピースに手を伸ばした。背中の編み上げの部分がどうなっているのかパッとは分からず、少しまごついたけれどなんとか着終えた。
 服を着ると大抵の場合身体は暖かくなるものだけれど、今日に限っては触れた肌はまだ冷たい。個室の外の共用スペースならもっと温かいかもしれない、そう思ってセルフィは手短に荷物をまとめると個室から出た。

 後ろ手にドアを閉めると、別の個室のドアの閉まったような音がした。自分の他には誰もいないと思ったけれど、他にも誰かいたのだろうか。セルフィはそう思いながら、まだ少し濡れている髪をタオルで拭いた。
 水気を十分に拭き取ってからドライヤーを取り出す。と、セルフィの後ろをひたひたと誰かが歩いたような音がした。やっぱり自分以外にも誰かいたんだ。そう思って足音のした方を向いたが、そこには誰の姿もなかった。
 そのことにセルフィが何とも言えないイヤな感じを受けた時、カタンと視界の端で何かが動いた。反射的にビクッとして恐る恐るそっちの方を見てみると、壁に立てかけたモップが倒れているのが見えた。
「……なんだ」
 さっきの音はモップの柄が壁を擦った音だろう。断じて自分の苦手とする類のものではない! 怖がりの自分が勝手にそう思っているだけだ。
 セルフィは、だんだん音の激しくなる心臓に、何度もそう言って聞かせ落ち着かせようとした。
 ドライヤーはやめてブラシを取り出そうと荷物の中に手を突っ込んだ時、ちょうど携帯電話も目に入った。外で待つアーヴァインのことを思い出す。セルフィはさっきから寒くてビクビクしてばかりで、アーヴァインの声でも聞けば少し落ち着くだろうと彼に電話をかけた。
「アービン」
『もう着替え終わった〜?』
 いつも通りの明るいアーヴァインの声に安堵した。
「うん、もうちょっと、髪を乾かせば終わるよ」
 セルフィはハンズフリー通話にして、ブラシで髪を梳かしながら、アーヴァインとの会話を続けた。
「今日はなに食べる〜?」
『セフィは、なにが食べたいの?』
 セルフィは、なるべくこの部屋から外へ意識を持っていこうと、アーヴァインとの会話に集中した。と、また背後で足音のような音が聞こえた。そう思った次の瞬間、身体の左側がやたらと冷たく痺れたような感覚に見舞われる。
 もうイヤだ!
「アービン、ココなんかいる!」
 得体の知れないモノ、取り分け幽霊といった類のものが大の苦手なセルフィには、もう限界だった。
 たとえその姿を目撃してしまったのではなくとも“いるかもしれない”、そう思うだけで、もう涙が出てきそうだ。怖くて、怖くてたまらない。
『セフィ、大丈夫!? そっち行こうか?』
 アーヴァインも、セルフィの泣きそうな声にすぐに何かを察したようだ。
「うん、今鍵開けるから……」
 セルフィはすぐに更衣室のドアまで行き鍵を開けた。それを待ちかねたようにアーヴァインが飛び込んでくる。
「セフィ、大丈夫……じゃないよね。ここ出よう」
 セルフィは口を開けば泣きそうだと思ったので、ただ頷いた。
「じゃ荷物まとめるね。セフィはそこにいて」
 セルフィをドア近くで待たせて、アーヴァインは彼女の荷物をまとめ始めた。
「やっぱりあたしも手伝う――」
 アーヴァインが傍にいるから大丈夫、セルフィはそう判断して彼の方に足を向けた。
「っ!!」
 突然視界が真っ暗になった。
 セルフィはさっきからの恐怖もあって、軽くパニックになった。もう電気系統の点検で停電になることなどすっかり忘れていて、闇雲にアーヴァインがいた方を目指して突進した。
「うわーっ!」
 勢いよくどんと何かにぶつかり、セルフィはぶつかった相手と一緒に暗闇の中倒れ込んだ。
「……イタッ!」
 セルフィの下からアーヴァインの声がする。
「アービン、どこか打った?」
 自分はアーヴァインがクッションになって何ともないが、恐らく下敷きになったアーヴァインはどこかを打ち付けたのだろう。セルフィは何も見えない闇の中、腕を伸ばしてアーヴァインに触れようとした。
「ごめんね、アービン。……どこ打ったん?」
 セルフィは手探りでアーヴァインに触れた。携帯を持っていれば明かりの代わりに出来たのに、アーヴァインよりも小さなそれを探す方が今は難しい。
「……アービン」
 恐る恐る伸ばした指が最初に触れたのは、胸の辺りらしかった。Tシャツ越しになだらかに隆起した筋肉の質感を感じる。そのまま少しずつ確かめるように指を動かして、首のある方向に当りを付け、その先へ指を滑らせると、どうやらアーヴァインは床の上に倒れているらしかった。
 返事をしてくれないところを見ると、もしや頭でも打って気を失っているのだろうか。でも、さっき「イタッ」と声が聞こえたから、それは大丈夫なのか。セルフィはアーヴァインの上にまたがるようにしたまま、指を伸ばすにつれ自分の身体も伸ばすようにして移動させた。
 指先で触れるアーヴァインは温かく、肌の下で脈打つ鼓動も感じた。けれど、一向に声は発してくれない。まさか本当に打ち所が悪くて、脳内出血でも起こしているのではないだろうか。今度はそんな恐怖に囚われた。
「アービン……返事して」
 震える指先は頬を探り当てた。それと一緒に睫に触れた感じもした。ということは目を閉じているのか。呼吸はどうなのだろうと、辿り着いた唇は、柔らかく温かかった。ちゃんと呼吸もしている。セルフィにそれが分かった瞬間、唇に触れていた方の手首を強く引かれた。
「えっ!?」
 次に気がついた時は、アーヴァインの上に倒れ込むようにして完全にのし掛かっていた。
「セフィ、まだ怖い?」
 セルフィの耳のごく近くで、甘やかで柔らかな声がする。
 アーヴァインが無事で安心する所ではなく、セルフィの心臓はまた大きく跳ねた。
「アービン、打ったトコ大丈夫?」
 アーヴァインの質問をわざと無視してセルフィは訊いた。
「うん、大丈夫。セフィは、まだ怖い?」
 またセルフィの耳元で囁くように言うと、空いていたアーヴァインの片方の腕がセルフィの腰を捕らえていた。何ともなさそうで、セルフィはようやくホッとした。けれど、今度はアーヴァインの声音に別の危機を感じた。
「アービン、ね、離して。これじゃ起きられないよ」
 力こそ籠もっていないものの、セルフィの腰を捕らえた手は、その背中のラインを愉しんでいるような動きをみせている。自分の思い過ごしならいいけれど、この状況でそう判断する方が難しい。
「質問に答えてよ。それまで離さない」
 そう言ってくるアーヴァインは、質問に答えてもきっと離してくれる気はないだろうとセルフィには思えた。
 こんな風な言い方をする時のアーヴァインは大抵――――。
 冷たかった肌身が一気に熱を帯びていくのが分かったが、こうしてアーヴァインに密着しているのがいけないのだとは思ったが、離れたくともセルフィの意志だけではどうしようもない。
「セフィ、肌がとても冷たいよ」
 アーヴァインはセルフィを腕の中に捕らえたまま、突然身体を起こした。
「わっ」
 今度は温めようとでもするかのように、セルフィを抱きしめていた。
「シャワーで温まらなかったの?」
 唇同士が触れそうな位置でそう言いながらアーヴァインは、セルフィの手首の辺りから肩へとす〜っと指先で撫で上げた。それを追いかけるように電流が走り抜け、セルフィは思わず声を上げそうになった。もう冷たいどころではなく、いつのまにか身体の奥は熱いとさえ思うような状態へと変わりつつある。
 それに、アーヴァインはまだ気づいてないかも知れないけれど、太ももの上の方までスカートは捲れ上がってしまっていることに羞恥を覚える。アーヴァインが動いて直接肌でその体温を感じる度に、露出の多いワンピースを着てしまったことを激しく後悔した。
「アービン、もう怖くないし、寒くないから離して」
 セルフィはアーヴァインの身体を両手で押した。けれど、びくともしない。
「でもセフィ、震えてるよ」
 それはアーヴァインがセルフィの耳元で囁くように喋り、背中の素肌の上を指先で微かに触れるように彷徨わせているせいだ。そう言いたかったが、今口を開くと全く違う声が溢れてしまいそうで、セルフィは答えることが出来なかった。
「…んっ」
 セルフィがそんなことを思っているうちに、本当に声が出せないように唇を塞がれてしまった。
 ゆっくりと優しくではあるけれど、セルフィから確実にあるものを絡め取るように、またあるものを奪っていくように、長く施される口づけ。
「……は、っ……ん…」
 供給の乏しい酸素にセルフィの意識はゆるやかに溶けてゆき、それに比例するかのように身体の力も失われていく。
 靄がかかったように曖昧になっていく思考の代わりに、甘やかな刺激を受ける肌身の感覚はどんどん敏感になっていく。この外界とは隔絶された濃密な暗闇に、アーヴァインからもたらされている甘美さに、求めたのは自分だったかも知れないとまで思えてくる。
「セフィ、いい匂いがするね」
 いつのまにかアーヴァインの唇はセルフィのそれから離れ、耳たぶを甘く噛み、更に首筋に何度もキスをしながら、ゆっくりと下へと降りていく。もうこのまま流されればいいと、自分を支配していくものにセルフィはその身を委ねた。
『セフィ――』
 ひときわ艶やかな声がセルフィの頭の奥で木霊した。その時目を焼くような眩しさに襲われ、パリンとガラスが砕けたような感覚とともに意識が覚醒した。
「っ!!」
 思いっきり腕を突っぱねると、今度は簡単にアーヴァインから離れられた。
「ダメッ! コ、ココではダメーッ!」
 セルフィの叫びに、何が起きたのか分からず、明るい照明の下でしばらく呆けた菫色の瞳は、次第に不満げな色に変わった。
「どうして〜?」
「どうして〜、じゃない! ココではあかん! て、点検終わったみたいやし、早いとこバラムいこっ、バラムッ!! 夕食食べにいこっ!」
「ココじゃなければいいの?」
「※★△■☆ッ!!」
 軽くパニックになっている自分は何やら失言をかましているらしかったが、セルフィはそんなことを悠長に考えている余裕はなかった。もう、何を置いてもここから出るのが先決! そう判断して、荷物を引っ掴み、反対の手でアーヴァインを引っ掴み、脱兎の如く更衣室を走り出た。

「セフィ、そのワンピース良く似合ってるね〜」
「そんなことええから、さっさと走るー!」
 いつもののほほんモードに戻ったアーヴァインの手を、セルフィはまだぐいぐい引っ張った。
 勢いにまかせて更衣室を飛び出してきたものの、少し走って冷静さを取り戻すと、どうしてアーヴァインの手まで引っ掴んでしまったのか、この手をこの後どうしたらいいのかセルフィは考え倦ねた。
 大体さっきと全然違って、やたら大人しく自分に手を引かれるアーヴァインは一体なんなのか。アーヴァインの態度がそんなだから、どうしたらいいか分からなくて、また酷くあせってしまうのだ。
「セフィ、駐車場こっちだよ〜」
 アーヴァインはセルフィに掴まれている腕を少し引っ張った。
 そうだったと、セルフィも気がつく。
「今日はあたしが運転するよ」
 今度は自分が手を引かれる形になって、セルフィは自然にそう言っていた。
 振り返ったアーヴァインの嬉しそうな笑顔に、セルフィのちっさな悩みはすっと溶けていった。