コクピット

 空の色がいつの間にか、淡い赤から濃い赤に変わっている。
 セルフィは、ラグナロクのコクピットでチェック作業を終え顔を上げて、初めてそのことに気がついた。
 余程夢中になっていたらしい。というのも久し振りにラグナロクの操縦をしたのだ。
 アルティミシア戦後、ラグナロクに乗る機会がぐんと減った。
 今日は、エスタから新しく提供されたシステムプログラムのチェックを兼ねた試験運転という名目で、久し振りに仲間たちみんなで大きな街まで遠出をしてきた。チェック作業は簡単なものなのでセルフィが引き受けて、ほかの皆は街中へと繰り出している。さすがはエスタと言うべきか、チェック作業はセルフィが予想していた時間よりずいぶん早く終わった。皆が帰って来るまで、特にすることもない。
「ふう〜」
 セルフィはどさっと深く身体を預けるようにして操縦席に座ると、懐かしむようにコクピットから外を眺めた。
 街外れの森近くに着陸したここからの景色は、正面の下半分は緑、そして上半分は空だった。そこに見える空の色は、もうほとんど夜の色に近い。目の前の森の上には、もう一番星が光っている。
「う〜ん、なんか懐かしいかも」
 あの頃は夜空を飛ぶことも多かった。目的が目的だったので、楽しい空の旅とはいかなかったけれど、それでも仲間たちとラグナロクで世界を飛び回った日々は大切な思い出だ。
 目を閉じると、すぐ横から「セフィ! 行くよ〜!」ってアーヴァインの声が聞こえてきそうだ。その様子を思い出して、セルフィは我知らず笑みが溢れた。
「操縦する時、いっつもアービンがおったな〜」
 当時は特に何も思わなかったけれど、今思い返すと本当にいつもアーヴァインが横にいた。
 なぜそうだったのかは多分――――。
「眠くなってきちゃったな〜」
 古巣に帰ったような安堵感のせいか、懐かしい思い出のせいか、ふっと眠気が押し寄せてきた。
「みんなが帰ってくるまで、ちょっと寝てよ」
 セルフィは座席の上で身体を横に向け、眠りやすい姿勢をとってから再び目を閉じた。



「……なんか妬ける」
 アーヴァインは心なしか微笑んだような、気持ちよさそうな顔をして眠っているセルフィを前にして、複雑な気分になった。
 一人ラグナロクに残って新しく搭載したプログラムのチェックを行っているセルフィのためにと、彼女の好物を買い込んで、急いで帰って来た。
 そしたら、この光景。
 本当に幸せそうな顔をしている。このままそっとしておきたくなるくらい。そんなにラグナロクが好きなのかと思う。事実そうなのだろう。自ら乗り物が好きだと公言しているし、ラグナロクに限らずバイクに乗る時も本当に嬉しそうにしている。
 セルフィがもっと喜ぶかなと思って、試験運転の目的地に彼女の好きなケーキショップのあるこの街を推したのに、「あたし点検があるから、行っといで〜」と、こっちを見ることもなく軽く手を振って、セルフィはラグナロクから離れようとしなかった。そりゃ、セルフィがそうするであろうことは予測済みではあったけれど。それでも、リフトの昇降ボタンを押す直前「杏のロールケーキよろしくな〜」とにこにこ笑顔で頼み事をすることは忘れていなかった。
 それを真に受けて、ほいほいとセルフィの希望のロールケーキを買い、首を長くして待っているだろうと、なんだかんだと引き止めようとするサイファーも振り切って帰って来た。
 いい加減セルフィ離れしろって、ホント。もう僕の恋人なの! とは言っても……。
「僕ってラグナロク以下?」
 無機物相手に張り合うのもヘンな感じがするが、目の前のセルフィの幸せそうな顔を目の当たりにすると、あながち間違っていないとも思えた。何しろ普段から、恋人より好きな食べ物を優先してしまうことのある女の子なのだ。ライバルが人間じゃない分、まだマシなのかもしれない。
「でも、……やっぱりフクザツだなぁ……」
 アーヴァインは眠り込んだままのセルフィの鼻をツンとつついた。と、セルフィの睫がピクピクと微かに動く。
『うわ、起こした?』
 アーヴァインは軽く触れただけだったが、セルフィは一度目をギュッとしかめるとゆっくりを目を開けた。
「……アービン、おかえり」
「た、ただいま」
 自分が起こしてしまったのではないかと一瞬ひやっとしたが、セルフィは目を閉じていた時よりももっと嬉しそうな顔をして笑った。それを見てアーヴァインは、少しだけ良心が咎め、それ以上に嬉しかった。
「あれ、アービンだけ? みんなは?」
 セルフィはまだぼや〜っとした顔で身体を起こすと、背もたれ越しに後方のリフトの方を見た。
「僕だけ早めに帰ってきたんだ」
「そうなん。みんなともっと楽しんできたら良かったのに〜」
 アーヴァインは心の中で溜息をついた。どうして自分だけ早く帰って来たのか、それくらい察してほしい所だ。けれど、こういう所がセルフィなのだとも思う。
「良い匂いがする」
「あ、うん。頼まれた杏のケーキの他にも、セフィの好きそうなお菓子をいくつか買ったから、たぶんソレ」
「ホントに! ありがとうアービン」
 キラキラと輝くような笑顔を向けられて、アーヴァインの気分はぐーんと上昇した。小さな不満は多々あれど、セルフィの笑顔一つで大抵のことは瞬時にどうでもよくなってしまう。ホント、自分でもお手軽な性格というか、ベタ惚れなんだな〜と自嘲せずにはいられない。そしてつい調子づくのも常だった。
「一口アイスもあるけど、食べる?」
「今?」
「うん、今でもガーデンに帰ってからでも、セフィの好きなように」
「じゃ、今がいい」
「ん、ちょっと待ってね〜」
 アーヴァインは荷物の中から、アイスの入った箱を取り出してフタを開けた。
「あ、ドライアイスが入ってない」
 確かに店員さんはドライアイスを用意していてくれていた、けれど箱の中には入っていない。多分入れ忘れてしまったのだ。
「ちょっと溶けかけちゃってる」
「今開けてよかったね」
「そうだね。あ、ちょっと待って、くっつきかけてて大変だ」
 アイスクリームはチョコレートでコーティングされていて、どろどろという状態は免れているが、コーティングのチョコレートが少し溶けかけていて、上手く持たないと手が悲惨なことになる。
「ハイ、どうぞ」
 アーヴァインは別の所に入っていたウエットティッシュで手を拭くと、チョコアイスを一個つまんでセルフィに差し出した。ちょっとの躊躇いはありはしたものの、セルフィはぱくんと食べた。
「ん〜、おいし」
「よかった」
 そうやって十個くらいあったチョコアイスは、セルフィが勧めるので何個かはアーヴァインも食べて、半分以上はセルフィが食べた。最後のチョコアイスがこくんと喉を通っていった後、セルフィがなんとなくアーヴァインの方を見ると、指についたチョコレートを舐めている所だった。その仕種にセルフィの胸がトクンと脈を打つ。
 少し開かれた唇から覗いた舌先が、丁寧に指についたチョコレートを舐め取っていく。ごく当たり前の動作なのに、伏し目がちだからか、やたらと色っぽく見えるのはどうしてか。そう思う自分が恥ずかしく、見るのをやめようと思うのに、セルフィの瞳はアーヴァインの唇に釘付けられたままなぜだか動けない。そうこうしているうちに、アーヴァインの動きが止まった。と思ったら、頭を僅かに傾け、今度は視線がパチンと合った。
 顔がカーッと熱くなるのをセルフィは感じた。だからといって、どうしたらいいのかセルフィは分からなくなってしまった。今更視線を外すのも、かえって恥ずかしく、わざとらしいような気がする。そんなセルフィの葛藤を知ってか知らずか、アーヴァインはセルフィをじっと見つめたまま、目を細めた。
「ね、セフィ。キスしてもいい?」
「え、え!? ここで?」
「誰もいないし、見てないよ」
 キョロキョロと視線を泳がせているセルフィの頬を、アーヴァインの手は既に捉えていた。もうアーヴァインの視線からは逃れようがない。それと、さっきまでチョコアイスの入った箱を持っていた手が火照った頬に心地よく、今食べたアイスクリームのように思考も溶けかけているセルフィは、促されるままゆっくりと目を閉じた。

「旅してた時、僕がいつもここに立って行き先をセフィに伝える役してた理由、知ってる?」
 長いキスの後、アーヴァインはそんなことを訊いてきた。
「う〜ん、分かるような、分からないような。そうするとそこの席に座りやすくなるから、とか」
 隣の席を指さして言ったセルフィのそれは、本心からはわざとずらした思いつきだった。
「あたり」
「そうなん……」
 セルフィはがっかりした。本当は、自分のことを好きでいてくれたからかな〜と思っていたけれど、単にあの席がお気に入りだったのか。
「隣の席じゃないとセフィのこと全然見えないからね〜。あんまり叶えられなかったけど」
「っ――!」
 セルフィがまたカーッと頬の熱がぶり返すのを感じたのと、再び頬に添えられたアーヴァインの手が今度はちょっと熱いと思ったのは同時だった。


「あの常春野郎、はり倒していいか?」
「ああ、許可する」
「早くしたほうがいいぞ、もうすぐリノアとキスティスが上がってくるぜ」
 コクピットに上がってきたリフトから一歩降りた所で、ヤロー三人は立ち尽くしていた。
 三人の立っている位置からは、操縦席に頭の隠れたアーヴァインらしき人物の胴体と足しか見えない。
 昼間ならそれだけで終わったのだが、残念ながら外はすっかり暗くなり、明るいコクピット内の景色は、スクリーンとなったガラスのあちこちに、ばばーんと映し出されていた。
 本当に、残念なことに……。