愛称

 アーヴァインは斜め向かいに座っているセルフィをそっと窺った。
 セルフィは真面目な顔をして手元の紙にペンでチェックをしていたが、やがてペンを置いてゆっくりとアーヴァインの方に向く。
 アーヴァインは僅かに緊張を覚えた。
「全問正解〜」
「ホントに? 良かった〜」
 笑顔で頷いてくれたセルフィに、アーヴァインは大きく安堵の息を吐いた。
「何か、全然教える必要なかったみたいやな〜」
「そんなことないよ、すごく助かってるよ。SeeDのことちゃんと勉強してきたワケじゃないから、セフィたちがいてくれてホント良かったよ〜」
「おおげさやな〜、アービンは。けどこの分やったら明日の本試験は絶対大丈夫だよ。なんてたってあたしとキスティスが先生やってあげたんやからね〜」
 笑ってそう言うセルフィに、アーヴァインは明日は本当に上手くいくような気がした。
「先生方には、大変感謝しております」
 アーヴァインがぴしっと机に手を付き深々と頭を下げれば、セルフィも軽くノッて、腕組みをしてふんぞり返ってみせたりする。そのヘッタクソな演技っぽいものが可笑しくて、互いに笑いが溢れる。
 そんな感じで、キスティスの職務室でここ一週間ばかり、アーヴァインはかなり幸せな時間を過ごしていた。
 バラムガーデンに帰ってきてからこっち、明日のSeeD筆記試験に向けて、タナボタ的にセルフィとキスティスが仕事の合間を縫って、アーヴァインの試験勉強に付き合ってくれることになった。それはアーヴァインにとって願ってもない幸運で、こうしてセルフィと腕が触れるくらい近くで、彼女の一日の何時間かを独り占めすることが出来る。主な目的は“試験勉強”であっても、時々軽い冗談や楽しい世間話で笑い合ったりもする。旅をしていた時とは違う、心からと思えるセルフィの笑顔を見ることが出来て良かった。こうして自分に笑いかけてくれるのが本当に嬉しい。
 出来るならず〜っとこの時間が続けばいいと思う。だがしかし、それではいつまで経ってもSeeDになれない。それは困る。SeeDになるのが今の自分の最大の目標。その理由にはヨコシマなものが含まれているとしても、SeeDになりたいという思いはホンモノなのだ。
「セルフィ、データが出来上がったわよ」
 アーヴァインがうっかりその存在を忘れかけていたこの部屋の主の声がした。
「さすが、キスティス、早いね〜。じゃ、はんちょのトコまで行って来ますか〜」
 アーヴァインに「ちょっと行ってくるね」と告げてセルフィは立ち上がった。自分の机の上のファイルを取り上げ、キスティスからはデータステックを受け取るとドアへと向かう。ドアがシュンと軽い空気音を立てて開いた時、足を一歩戻してくるんと振り返った。
「ア、キスティス、アービン、ランチ一緒に行く〜?」
「ええ、いいわよ」
「オッケーだよ〜」
「了解〜、じゃ行って来ま〜す」
 二人がそう返事をすると、セルフィはにこっと笑って出ていった。
 セルフィが出ていくとキスティスは仕事に戻り、アーヴァインも試験勉強に戻った。
 大して時間も経たないうちにまたドアが開いた音がした。
「失礼します。セルフィ先輩いらっしゃいますか?」
 制服を着た男子生徒が、ぺこんとお辞儀をして入ってきた。
「セフィは入れ違いで出ていったトコだよ〜。すぐに帰ってくると思うけど。ココで待ってる?」
 キスティスより早くアーヴァインが答える。
「そうですか。いらっしゃらないんですね。じゃあ、出直してきます」
 男子生徒はちょっと肩を落として身体を反転させた。
「伝言でいいなら、伝えておくわよ」
「いえ、また午後に来ます。失礼しました」
 男子生徒はまたぺこんとお辞儀をして、今度こそキスティスの職務室を出て行った。
 男子生徒が出ていくと、キスティスとアーヴァインはまたそれぞれの続きに戻った。
 しばらく経った所でキスティスが、ふふっと小さく声に出して笑った。
「アーヴァインて徹底してるわよね」
「なにが〜?」
 分厚い参考書に目線を置いたままアーヴァインは聞き返した。
「殆ど“セフィ”で通してる」
「なんだよ、急に〜」
 やっと参考書から目を離しキスティスの方を向くと、彼女は椅子の背もたれにもたれかかりアーヴァインを意味ありげに見ていた。その薄蒼の瞳はまるで全てを見透かしているようで、アーヴァインはたじろいだ。
「だってそうでしょ? 誰の前でも、余程かしこまった席でもない限り“セルフィ”って言ってるの聞いたことがないわ」
「それが何か? セフィだってそうでしょ〜?」
「セルフィは無意識だと思うんだけど、あなたのは意識的に、って感じがするのよ」
「なんでそう思うのさ〜」
「例えば、私の場合」
「キスティスの?」
「ほら、ソレ」
「私のことは“キスティ”って言ったり“キスティス”って言ったり、バラバラであまりこだわってない感じがするのよね」
「…………」
 アーヴァインはそれには答えなかった。
 キスティスには無言なのが逆に正解を言っているように思えた。それに“キスティ”と呼んだそもそものきっかけは、互いにイデアの家にいた頃キスティスが「何故、アーヴァインとセルフィは呼び方変えたの?」とアーヴァインに訊いたら、彼が慌てて「じゃキスティスは“キスティ”って呼ぶね」と言ったのだ。その時のアーヴァインの慌てっぷりに、キスティスは何となく彼の気持ちが分かった。子供心に余計なことを訊いちゃったのかな〜とも思った。
「間違ってる?」
「まいったな〜、キスティにはちっちゃい頃から敵わないや〜。その通りデス」
 キスティスの指摘通り、アーヴァインは他人の前でも故意に“セフィ”と呼んでいた。これはアーヴァインとセルフィ、二人だけの呼び方で、他には誰もそう呼ばない。呼ばせない。
 その愛称で呼び合うということは、他人に対して“特別な関係”だと認識させるのに恰好の手段なのだ。もっとも、セルフィはアーヴァインにそんな思惑があるなど、全く気づいていないだろう。そして、特別な関係とは言っても、現段階では幼馴染みという関係でしかない。けれどちゃんとした事情を知らない人間、特にセルフィを狙う連中への牽制としては大いに役立つ。少なくとも、そいつらよりは一段階親しい関係にあるのだと印象づけられる。
 残念なのは、本人に対してはち〜っとも効果がなさそうなことだけれど。
「その努力の成果はあったの?」
「ご覧の通りだよ」
 アーヴァインは溜息と共に肩を竦めた。
「あら、残念。少しは進展したのかと思ってたわ」
「それってイヤミ〜?」
「ちがうわ。最近セルフィは複数の名前を呼ぶとき、必ずあなたの名前を最後に言うのよね」
「むしろ嫌われてるっぽくない?」
「そうかしら」
 キスティスはむしろ逆ではないかと思っていた。好意を抱いているからこそ、悟られたくなくてつい最後にしてしまう。セルフィに自覚があってそうしているかどうかまでは分からないけれど、彼女の性格からすればそんなような気がする。
「そう言えば、先月だったかしら、ラグナさん絡みで一悶着あったってホント?」
「ん〜」
 キスティスはチラッと小耳に挟んだだけで、内容まで知っている訳ではなかった。だが、思いっきり面白くなさそうな顔になったアーヴァインに、確実に何かあったのだとは思った。
「正直に言うけどね、かなり焦ったんだ〜。セフィがラグナさんのお嫁さん候補になってたとか。めちゃめちゃヤバかった」
「そんなことがあったの!? 知らなかったわ。セルフィは何も言ってなかったし」
 他の人間の口から聞いたなら、絶対信じることは出来ないような内容に、キスティスはかなり驚いた。セルフィにとっては大事件ではないか。アーヴァインにとっても。だがキスティスはこの件について一切知らなかった。当のセルフィからはそんな話一言も聞いていない。他の仲間たちからも。セルフィは誰にも言っていないのだろうか。今までの彼女なら笑い話として、皆に、少なくとも、仲間には言ってくれそうなものなのに……。
「回避出来たの?」
「出来てなければ、こんなにのんびりしてないよ〜。セフィ、きっぱり断ってくれて、ホント良かったよ〜。ラグナさん相手だと絶対勝ち目ないもん」
 アーヴァインは机に身体を投げ出すようにして伏せった。
 ということは、その話はアーヴァインとセルフィしか知らないということなのだろうか。なんて言うか、自分の推測を裏付ける材料が増えたような気がするのは思い込み過ぎか。
「あなたがガルバディアにいる間、セルフィとは会ってたの?」
「ん〜? 会ってたよ〜、ティンマニ発掘の旅に付き合ってくれるのは僕しかいないんだってさ〜。そう言われると断れないじゃない、だから何回か引っ張り回されたよ」
「良かったじゃない」
「全く色気なしの、荷物持ち要員としてしか扱われてなくても?」
 ますます面白くなさそうな声になったアーヴァインに、キスティスは笑みだけを返した。確かにアーヴァインが望んでいるものはそんなものではないだろうけど、それでもゆっくりと、ちゃんとコトは進んでいるようにキスティスには思えた。当事者には見えづらいかも知れないが、その分第三者にはとても分かり易かったりする。
「ただいま〜」
 キスティスがそんなことを思っていた時、セルフィが帰ってきた。
「おかえりな……」
「あれ? アービンどしたん?」
 ほら、やっぱり。
 部屋に入ってきた途端、セルフィが真っ先に視線を向けた先を見てキスティスは微苦笑する。
「落ち込んでる〜? 大丈夫だってアービン、絶対試験合格するよ。アービンなら出来る!」
 セルフィはすたすたとアーヴァインの所まで行くと、机にビローンと伸びている彼の背中を叩いた。
「ありがとう、セフィ。元気出たよ」
 セルフィの言葉で、ようやくアーヴァインも身体を起こす。
「キスティス、ランチ行こっ。アービンも」
 セルフィはくるんと身体を反転させると、キスティスの方へと足を向けた。
「ええ」
 アーヴァインもすっかり元に戻って、セルフィと同じようにキスティスの方へ歩いている。
「あ、ごめんなさい。ちょっと連絡待ってたの忘れてたわ。先に行ってて」
「え〜、そうなん〜。じゃあ、食堂で待ってるね」
「ええ」
 残念そうな顔をしているセルフィに、上手にウソを笑顔で隠してキスティスは小さく手を振った。セルフィの後ろをついて歩いていたアーヴァインがドアの所で、物言いたげな顔をしてキスティスの方に振り返る。キスティスは何も言わずウィンクをした。それの意味する所を理解したのか、アーヴァインは唇だけで「ありがとう」と告げてドアの外へと出た。
「アービン行くよ〜」
「待ってよ、セフィ〜」
 閉まりかけたドアの外からそんな声が聞こえてくる。
 もう散々聞き慣れた会話だけれど、そこにはちょっと誰も入り込めない空気を感じる。互いしか呼び合わない愛称。それって互いに、既に特別な位置づけになっているということなんだけど、そのことにセルフィが気づくのはいつだろうか。
 キスティスは端から見ているとじれったくもある二人の姿を思い出し、静かに微笑った。