花陽

- ハナヒナタ -
「行ってきまーす!」
「学校が終わったら、店の手伝い頼むなー」
「りょうか〜い」
 セルフィは、新調したばかりの短靴のひもをきゅっと結び、元気よく兄にそう告げて玄関を出た。門の脇に置いてある自転車に乗る前に、袴の裾をちょっと直す。ハンドルをくいっと握り、トンと地面を蹴る。ピンと足を伸ばして自転車を走らせながら、掃除をしている近所のおばさんにも元気よく「やおはようございます」と挨拶をした。
「気をつけて行っておいでー」
 と、これまた元気なおばさんの声を後ろに聞き、軽快にペダルを漕ぐ。気持ちの良い朝だ。空気もまだどこかひんやりとしていて清々しい。身体に受ける風も心地良い。暫く朝の空気を堪能するように自転車を漕ぎ、今日はいつもとは違う方向へと、辻を曲がった。
「うわ〜、やっぱり満開〜」
 セルフィはその眺めに、思わず感嘆の声を上げた。
 土手に沿った道の両側には、ずら〜っと桜の木が並んでいる。それが今正に満開で、遠回りになるけれど桜の下を走りたくて、今日はこの道を選んだ。
「こんな綺麗なものが見られるなんて、それだけで人生得してるよね〜」
 そんな事を呟き、そよそよとそよぐ風に、桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちる並木道を、鼻歌を歌いながら自転車を走らせた。やがて道の先は緩やかに曲がる。相変わらず鼻歌を歌いながら、道が曲がっている方へとハンドルを切った時、視界の端に人影が見えた。
 何気なくそちらの方に視線を向けると、一人の青年が立っていた。
 縦襟のシャツ、卯の花色の着物に袴姿、小脇には本を抱えて、一本の大きな桜の木を見上げるようにして、手を差し出している。よく見かけるごく普通の書生さんだが、その佇まいが妙に現実離れしていた。そこだけ薄く霞が掛かって、まるで、桜の木から抜け出たような――――。何かに思いを馳せるように、桜を見上げる瞳は、澄んだ綺麗な色をしていた。
 ふいに、桜には古くから様々な言い伝えがあるのを思い出した。この辺りの伝承にも桜にまつわるものがある。こんなに桜の花が満開なのだから、一人位そういったあちら側の世界の住人が、迷い出て来ていても不思議はないのかも知れない。むせかえるような桜の香りに包まれた世界で、セルフィがそんな事を思った時、一陣の風が吹き抜けた。
「うわっ、わわーーーっ!!」
 予期せぬ風は、更にセルフィにまずいものを見せてしまったとでも云うかのように、目の中に塵を投げ込んだ。咄嗟に目を閉じてしまった為、前方の障害物に気が付かず、セルフィは派手な音をたて自転車もろともすっ転げた。
「イタタタ……」
 どうやら、腰を打ってしまったらしい。立ち上がろうとすると、鈍い痛みが走った。
「大丈夫ですか?」
 痛みに腰をさすっていたら目の前に、にゅっと手が差し出された。
「ありがとうございます」
 差し出された手に、遠慮無く甘えて立ち上がると、ごく間近で心配そうな青年の瞳と目が合った。
 普段から落ち着きがないと、散々言われ慣れているので、セルフィにとってこういった場面はそう珍しくもない事だった。だが、今日ばかりは全くもって珍しいと云わざるを得なかった。いまだかつてこんな顔の整った男の人に、助け起こされた事はない。学園でも一番人気を誇るスコールと比べても、引けを取らないんじゃないだろうかとセルフィは思った。
「ちょっと汚れちゃいましたね。ケガはありませんか?」
 青年はセルフィの袴についた土を、パンパンとはたいてくれていた。その声に、桜の化身に呆けていたセルフィも我に返り、慌てて腕やら足やらを確かめてみた。腕と向こう脛の横辺りに、カスリ傷がある程度で、他には大きな傷もないようだった。腰もまだ痛いけど、大した事はなさそうだ。
「あ、腕、血が出てる」
 セルフィが着物の袖をまくって、腕を出していたので、青年はそれに気が付いたようだった。
「ちょっと待ってて」
 そう云うと青年は、土手をひょいひょいと降りて行き、程なくして帰ってきた。
「腕を……」
 手ぬぐいを濡らして来てくれたらしい、青年の手から雫が一つ落ちていった。青年は遠慮がちに問いかけるような表情でセルフィを見ていた。その行動から、てっきり傷を拭いてくれるものだと思っていたので、セルフィは傷のある腕をまくったままじっとしていた。だが、青年は一向に動かなかった。自分が勘違いをしていたのだろうかと、青年の顔を見た時、やっと自分の返事を待っているのだと気が付いた。慌ててセルフィが「お願いします」と云うと、青年は「失礼します」と云ってから、彼女の傷の部分を丁寧に拭いていった。
 触れられた手の温かさと、手ぬぐいの冷たさに、セルフィは、何とも云えない複雑な感覚を覚えた。傷や汚れた所を、あらかた拭いてしまうと、青年は最後にセルフィの頬についていた桜の花びらを取ってくれ、それと一緒に蕾が綻ぶような笑顔も見せてくれた。
「ありがとうございます」
 セルフィは、この優しい青年に改めて礼を云った。さっきは離れた場所から見たので、気付かなかったが、青年はとても背が高かった。とても、というのはちょっと語弊があるかも知れない。セルフィが背が低い方なので、大抵の男の人は、セルフィより背が高い。でも、セルフィがちゃんと青年の顔を見ようと思うと、見上げなければいけない位、背が高いのは事実だった。
『兄さんと同じ位かな……』
 セルフィは青年を見上げて、そんな事を思った。背の高さは確かに兄と同じ位のようだ、整った顔というのもまあ同じ。ただ、印象は全く正反対だった。兄は顔の作りは悪くないクセに、いつも仏頂面で冷徹なイメージだが、この青年はとても柔和で優しそうというか、人が良さそうというか、ちょっと気が弱そうな印象もうけた。どこか、知っているイメージと青年が重なったように思えた。
「あの、なまえ……」
 暫くの沈黙の後、青年が口を開いた。が、それと同時、異世界に迷い込んだセルフィを現実世界に引き戻すかのように、刻を知らせる鐘の音が響く。
「うわーーーー!! 遅刻っ!!」
 在るべき世界に戻ったセルフィは、瞬時に思い出す。自分は学校へ行く途中だった事を。
「本当にありがとうございました。じゃ、あたし急ぐんで」
 ぺこんと頭を下げてそれだけ云うと、セルフィは大急ぎで自転車を起こして、走った。



「うはーーー、ぎりっぎり〜」
「セルフィ朝から猛ダッシュだね。どうしたの?」
 セルフィが息を切らせながら自分の席に着くと、隣から良く知っている友達の声が聞こえた。
「リノア、おはよ〜。自転車で派手に転んじゃてね〜」
 男前の青年に見とれていてこけた、という事は敢えて伏せた。リノアはこの手の話題が大好きだ。うっかり口を滑らせようものなら、ものすごい質問攻めに遭うのは火を見るより明らかだ。自分はそういう話には興味がない。はっきり興味がないと云うと、また女の子の何たるかなどという演説を延々と聞くはめになる。だから、余計な事は云わないに限る。セルフィは、云い聞かせるように大きく首を縦に振って、心の中で断言した。

『でも……何だろうあの桜の人、何かちょっと……』

 小さくぶつぶつと呟くセルフィを、リノアはじ〜っと覗き込むようにして見ていた。その瞳は、何か悪戯を思いついた子供のようにキラキラとしていた事など、セルフの頭の中には欠片も思う由はなかった。
「おはようございます、みなさん」
 凜と響いた声に、ざわざわと賑やかだった教室が、一瞬で水を打ったように静かになる。
「おはようございます、教授」
 生徒達はほんの僅かの時間でピシッと姿勢を正し、教壇に立った教授の方を向くと揃った声で挨拶をした。





 自転車置き場の方へと、セルフィはリノアと話をしながら、歩いていた。
「セルフィ、これからカフェの手伝い?」
「そうだよ〜」
「いいよね〜、セルフィのお兄さんハンサムで、ちょっと冷たくて怖そうな感じだけど、それもまた魅力の一つだわっ」
 いかにも羨ましいという口調だった。
「あのさ〜、リノア。それスコールに聞かれたら、すっごくマズくない?」
「絶対言わないでよ! セルフィ」
 知られたくないのなら、云わなければいいのに。セルフィには理解に苦しむ心理だった。
 リノアには許嫁がいる。別に親に押しつけられたとかじゃなく、最初はそうだったらしいが、今はちゃんとお互いの事が好きあっているらしい。らしいと云うのは、リノアからの話しか聞いた事がなく、スコールの方はどうなのか、セルフィは知らないからだった。スコールは、この町では結構有名人だ。誰もが認める美貌の持ち主で、セルフィ達が通う学園の、同じ敷地内にある男子校の委員長もやっていたりするので、信頼も厚い。ただ、無口で無愛想なのが玉に瑕だが、そういった部分すら、リノアによると魅力らしい。
 自分はどっちかっていうと、スコールの父のラグナさんのような、陽気で気さくで、表裏の無い人に『みりき』を感じる。力が抜けるようなジョークは……ま、それも、嫌いじゃないかな。だからと云って、別にラグナさんに恋をしていたりはしない。単に好ましいという程度だ。
 リノアには、見目麗しい許嫁がいるというのに、散々ノロケ話を聞かせたがるというのに、他の男の人にも懸想をするような発言をする、その辺がち〜っとも理解が出来ない。リノアに云わせれば、恋は女を磨く為のもの、本命はスコールだけ、兄は彼女にとって安全に騒げるアイドルなのだそうだ。
 どうして好きな人は一人じゃダメなのか。セルフィには、同年代の女の子の心理は、相容れない部分も多かった。

「それじゃまた明日ね〜」
 校門の所で別れの挨拶をして、セルフィが返事をする間も与えず、リノアは急ぎ足で去っていった。リノアの走って行った先を見て、何故彼女が急に急ぎ足になったのか分かった。学園の曲がり角に立っているガス燈に、もたれるようにしてじっと待っている青年を見つけた所為だ。そしてリノアがその青年の所まで行くと、腕を組んで二人して角を曲がり見えなくなってしまった。
「スコールに今の事言ったらどうなるんだろ」
 セルフィはそんな事をぼんやりと想像してみた。
 彼は多分「どうでもいい」そんな一言で切り捨ててしまうだろう。スコールという人物はそういう人物だと自分は思う。そんなに深い付き合いではないが、去年男子校と女子校で、合同学園祭をした時、お互い実行委員をしていたので、話をする機会が結構あった。
 他人にあまり感心がないというか、それ所か自分にすら感心がないような印象をうけた。それでも、与えられた役割は黙々とこなす姿を見て、名ばかりの実行委員では無く、きちんと責任を果たす人なんだな〜と感心した。顔はほんっと、美形だと思うし。無愛想な部分を除けば、きっと好青年だ。
「あ〜 余計な事考えてる場合じゃないや〜、早く店に行かないとサイファーに怒られる〜」
 セルフィは、自転車のペダルに足をかけ、もう片方の足で勢いよく地面を蹴ろうとした。丁度その時、背後から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「セルフィー、鍵ー! 作業場の鍵よこせーー」
 やたら元気のいい青年が、息を切らせて走った来た。
「あ〜 ごめんゼルうっかり忘れてた」
 セルフィは、軽く詫びると懐から小さな鍵を取り出し、青年に渡す。
「ほんっと……セルフィは……アレだな……」
 まだぜぇぜぇと、立たせた前髪がふよふよ揺れる程、息が荒いのもかまわず青年は喋ろうとする。
「何よ〜 ちょっと忘れただけじゃな〜い。今度カフェに来ても割引してあげないよ〜」
 青年はセルフィの言葉に痛い所を突かれたのか、もう喋ろうとはせず、膝に手を付いて片方の手で謝る仕草をした。
「分かればよろしい〜 所で、そろそろ完成しそう?」
「おう もうちょっとで完成するぜ。まあ見てなって」
「完成したら、一番に試乗させてよ〜 すっごい楽しみにしてたんだよ、機動自転車!」
 セルフィはリノアや他の女の子が、素敵な男の子のうわさ話をする時のように瞳を輝かせていた。
「分かってるよ、もし今日完成したらだぜ、じゃあな〜」
「また明日ね〜、ゼル」
 ゼルは来た時と同じように、走って学園の中へと戻って行った。セルフィはウキウキとした気分で、今度こそ自転車に乗り、急いで兄のカフェへとペダルを漕いだ。




「よし、今日はちゃんとチョウチョになってる〜」
 姿見の前で後ろで結んだ紐が、綺麗な形になっているかどうか、セルフィはチェックしていた。
 セルフィはこの蝶結びが苦手だった。どうにも縦結びになっていけない。それでは折角の可愛らしい女給さんが台無しになってしまうらしい。今身に付けているエプロンは、兄が言う通り可愛らしい。広めの丸首に、肩には大きなフリル、後ろで交叉した紐と、大きめの蝶結びの紐のバランスもまた絶妙だ。そして前掛けの部分の丈は長めだけれど、縁取りのフリルがまた可愛らしい。確かに、兄のような視線の鋭い強面の店主が、どーんと居るだけの店には、客も怖がって入っては来ない。だから可愛らしい女給さんが、こんなエプロンをつけて、ちょこまかと動く姿を見られるとなれば、男の客は増えるだろう。それは兄にとってヒジョーに不本意らしいが、客が入らなければ、商売が成り立たない。商売が成り立たなければ、自分達は生活して行かれない。だからこうして自分も微力ながら、時間のある時には兄の手伝いをしている。何とも、麗しい兄妹愛ではないか。セルフィは腕組みをし、一人悦に入った。
 もっとも、セルフィはどちらかというと、お小遣い獲得が主な理由だったのだが。一方兄の方は、妹を目の届く所に置いて、目を光らせておきたい、という思惑が大きかった。両者の目的は全く異なっていたが、利害は見事に一致していた。

「セルフィ、準備出来たか? そろそろ、ホールに入ってくれ。俺はちょっと豆を買いに行ってくる」
「いいよ〜 気をつけてね〜、サイファー」
「嫌な男の客は殴っていいぞ」
「大丈夫だよ、これでも客あしらいは上手いの知ってるでしょ〜」
 他人には厳しく妹には甘い兄を、セルフィはドアの方へグイグイと押した。このまま放置すれば、妙な方向へ話が長くなる事も多々ある。その前に、さっさと追い出すに限る。
「早く行かないと、キスティス先輩が店番する時間が終わるよ〜」
「うるせ〜 あんな生意気女いない方がいい」
 とどめの言葉を投げて、漸く兄をドアから出す事に成功した。
「ほんっとに、素直じゃないよね。我が兄ながら」
 セルフィはパンパンと手をはたいて、大袈裟に溜息をついた。恋愛事には、あまり聡くない自分にも分かる程、学園の先輩であるキスティスの事が好きなのはバレバレなのに、ああやって未だに否定し続けている。兄サイファーは、傍目から見ても、妹の目から見ても、実にやっかいな性格の持ち主だった。
「さて仕事〜」


 ホールには、客はいなかった。サイファーは客が居ないのを見計らって、セルフィにここをまかせたのだろうから、当然と言えば当然なのだろうが。客が居ないとはいえ、今はセルフィがこのカフェの店主代理だ。いつ客が来てもいいようにと、各テーブルをチェックして回る。
 幾つかのテーブルの砂糖を補充を終えた時、店のドアが開き客が入って来た気配がした。
「いらっしゃいませ」
 あまり元気過ぎないように押さえた、いつもの営業用の声と笑顔で、ドアから入った来た客を迎えた。
「ご注文は何になさいますか?」
 客が席についたのを見計らって、注文を聞きに行く。
「う〜んと、コーヒーを一つお願いします」
「かしこまりました」
 セルフィが小さな紙に注文を書き付け、下がろうとした時、客が小さく声をあげた。
「あ、君今朝の……」
「あ〜っ、桜の人!」
 客は俯いてメニューを見ていたし、じろじろ見るのも失礼な事なので気が付かなかったが、今朝セルフィが自転車で派手にすっ転んだとき、助けてくれた青年だった。


「コーヒーお待たせしました。あ、ビスケットはお礼です、今朝の」
「ありがとう」
 そう云ってコーヒーのカップと、ビスケットの乗った小皿をテーブルに置くと、青年は嬉しそうに笑った。セルフィはその笑顔に、どこか引っ掛かるものがあった。今朝も思ったが、前にも見た事があるような、そんな既視感が青年にはあった。
「地図、ですか?」
 手掛かりを求めて視線を巡らしたテーブルの上には、数冊の本が置かれていた。その下には、この町の名前が入った地図が置いてあるのが見えた。
「あ、うん。僕この町へ来たばかりで、分からないトコだらけだから」
 青年は照れくさそうに頭を掻いた。
「そうだったんですか。どこか分からない所があったら云って下さいね。って云ってもあたしも、越してきて半年ちょいですけど」
「そうなんだ。分からない所があったら、是非お願いしてもいいかな」
 お盆を持って、にこにこと笑っているセルフィを、青年は優しい瞳で見ていた。
「いいですよ〜、あ…っと誰さんでしたっけ」
「あ、まだ名前を云ってませんでしたね。僕はアーヴァインです、宜しくお願いします」
「あたしはセルフィです、宜しくお願いします。あ、コーヒーのおかわりは如何ですか? サービスですよ」
「ありがとう、いただきます」

 アーヴァインの座っている席からカップを下げて、カウンターに戻ると、中にサイファーが不機嫌な顔をして立っていた。
「サイファー、帰ってたの!?」
「悪いか?」
「悪くはないけど……」
 セルフィはその先の言葉をぐっと飲み込んむ。恐ろしい程の低い声に、機嫌が悪いという事がありありと分かった。無愛想で、好きな相手には不器用な兄の事、キスティス先輩と何か云い合いでもしたのか、はたまた会う事も出来なかったのか。大体機嫌の悪い理由はその辺だろうと、セルフィは思った。自分にも原因があるとは、今の段階では全く思い至っていなかった。

「僕はこれで失礼します」
 いつの間にかアーヴァインは席を立って、カウンターの近くまで来ていた。
「え、でもおかわり…」
「いえ、実はもう行かないと、折角云って貰ったのにすみません」
「そうですか。また来て下さいね〜」
「はい、ここのコーヒーは美味しかったです。是非また来ます」
 セルフィに代金を渡しアーヴァインは、カウンターの中で眉間に縦皺を刻み、相変わらず仏頂面で突っ立っているサイファーにも軽く会釈をして、店を後にした。
「もう来なくていいぞ」
 青年が出ていったドアが、閉るか閉らないかの所でサイファーは毒づいた。
「サイファー、何てこというのっ! 大事なお客さんに。そんなだからお客さん逃すんだからね、少しは自覚してよ〜」
「フンッ」
 鼻から吐き出されるのが見えるのではないかと云うほど、大きく息を吐き、サイファーはツイッと横を向いた。
「まったくもう……」
 セルフィはその姿に溜息をつきながら、テーブルを片付けに向かう。
「あっ 忘れ物」
 青年が立ち去ったテーブルには、ポツンと地図だけが残されていた。
「忘れ物届けてくるー」
「おい、ちょっと待て俺が……」
 早く追いかけないと見失ってしまう、この町に不慣れな青年はとても困るだろう。そんな感情に駆られ、サイファーの言葉をろくすっぽ聞くことなく、セルフィは店を飛び出していた。
「んーと、どこかな〜」
 そんなに遠くに行ってはいないと思うが、セルフィは背伸びをして、辺りををキョロキョロと見回した。
「いた〜、良かった」
 人通りの少ない路地の、少し先に青年の後ろ姿が見えた。姿格好はどこにでもいる書生さんだったが、ただ一つ、彼にはとても見分けやすい特徴があった。長めの茶色の髪を後ろで括っていた。だからあの後ろ姿は青年に間違いない。
「書生さーーん、忘れ物〜」
 セルフィは、なかなか追いつけない青年に向かって、声を掛けた。すると、足と違って声は簡単に届いたらしく、青年は直ぐに振り向いてくれた。
「コレ、忘れ物です。大事な地図」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
 息を切らせて走って来たセルフィを見て、青年はすまなそうに地図を受け取った。
「それじゃ、また来てくださいね。ア、アービ、アーブ、アレ?」
 呂律が回っていないセルフィを、アーヴァインはいけないと思いながらも、つい小さく笑ってしまった。
「アービンでいいですよ〜」
「あははは ごめんなさい。じゃ、あたしもセフィでいいですよ〜」
『アレ? なんだろう、どっかでこんな会話をしたような。……アレ?』
 あさっての方を見ながら首を捻っているセルフィを、優しい瞳でアーヴァインは見つめた。
「それじゃ、また。コーヒーを飲みに行きますね。セフィ」
「あ、はい。じゃ、また〜」
 そう云って手を振ると、セルフィはカフェの方へとくるりと身体を向けた。戻りながらセルフィは、妙に心臓の動機が早い事に気が付いた。走った所為かも知れないけど、『セフィ』と呼ばれた時、どきっとした。何かが心の中に引っ掛かる、どこか懐かしいような。けれど、その取っ掛かりになりそうな欠片すら、今は浮かんでこない。それがとても、もどかしかった。

 ふいに、ざぁっと春の強い風が、セルフィの身体を攫うように吹き抜けた。咄嗟に閉じた目をゆっくりと開けると、近くで咲いている桜の花びらが吹雪のように舞っていた。
 朝、アーヴァインと会った時と同じ香りが鼻腔をくすぐる。
『また会えるよね……』
 手の平に落ちてきた花びらに、セルフィは問うてみた。

桜の話が書きたくて、書いたパラレル物です。大正風の雰囲気が出ていればいなぁ〜。
カフェの女給さんと、書生さんは萌えです!キリッ
(2008.04.03)

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