いくつ季節を過ぎてもここに…

11
「スコールさん、見つけました」
 薄灰色をした金属壁の小さな部屋。
 数台のコンピュータを一心に操る二人の男。
 一人は黒髪の穏和な顔つきをした青年。
「誰が何処に運んだか分かるか?」
 もう一人の朽葉色の髪をした青年が手を止め、黒髪の青年の所に移動し作業しているモニターを覗き込んだ。
「はい、分かると思います。少し待ってください」
 そう言うと、黒髪の青年は手早くキーボードを操作した。
 この数日、ずっと行方を追っていた。
 巧妙に仕組まれた手口に、何度も無駄足を踏まされ、その度に心と体を言い様のない疲労感が襲った。けれど、手を休める訳にはいかなかった。野放しにしておくにはあまりにも危険な相手、一国のトップが直々に依頼して来るほどの。
 犠牲者を出す前に食い止めなければ。その見えない相手の姿をひたすら追ってきて今、尾を捉えられるかも知れない。今度こそと思いながら、数字と記号の羅列が無数に流れる画面を食い入るように見つめ、作業を行っている黒髪の青年の次の句を待つ。
「捕まえました、ビンゴです、スコールさん!」
「どこに流れた?」
 声に喜びの色が浮かぶ青年に対して、スコールはいつもと変わらぬ冷静な口調で次を促した。
「ガルバディアの…、いえドールのバイヤーに流れたようです」
「そのバイヤーの名前は分かるか?」
「はい、分かります」
「それをこっちの端末に送ってくれ」
「はい」
 言い終えた時にはスコールは自分の席に戻り、もうコンピュータの操作を始めていた。
 黒髪の青年から送られた情報を元に、ターゲットの痕跡を追う。
『もう逃がしはしない』
 捕まえた尾に振り落とされないよう、細心の注意を払うと同時に、出来るだけ素早く捕獲に向かう。施された罠や仕掛けをかいくぐり、執拗に追いかけた。
 一体どれだけの壁を乗り越えたのかも分からなくなった頃、漸くそいつの全身が目の前に現れた。
「何か分かったんですか?」
 スコールの表情がいくらか柔らかくなったのを認めて、黒髪の青年は訊ねた。
「ああ カリエという議員に突き当たった」
「カリエ……」
「知っているのか?」
 名前を聞いて、何かを思い巡らす黒髪の青年の表情をスコールは見逃さなかった。
「はい、ここに来る直前自分が就くはずだった任務のクライアントが同じ名前です」
「どんな任務だったか話してくれ」
 黒髪の青年は、セルフィと共に就く筈だったカリエ議員の護衛任務ついて説明をした。
 話を聞き終えたスコールは直ぐさま、再びコンピュータに向かう。
「カリエ議員か、その任務はいつ終わる予定だったんだ?」
「と、こちらの時間で5日前には終了している筈です」
「そうか」
 スコールは黒髪の青年の話を聞きながら、備え付けの電話のインカムを装着してガーデンへコールしている。黒髪の青年は、ドールでの護衛任務と何か関わりがあるのだろうかと思ったが、既に通信中のスコールに聞くわけにもいかず、彼の行動をじっと見守った。
「アーヴァインが!? その血液検査のデータをこっちに送ってくれ」
 黒髪の青年にはっきりと聞こえたのはその部分だけで、その後は、時折相槌をうちながら、忙しなくキーボードを叩き、その話の内容まで聞き取る事は出来なかった。さっき聞こえた名前と、殆ど無表情で作業をする事の多い彼が、今は僅かに険しい表情をしているのが、黒髪の青年を不安にさせた。まさかと、良くない考えが頭をよぎる、自分達は間に合わなかったのだろうかと。
「ありがとうキスティス、悪いがそのまま待機していてくれ」
 静かに通信を終了したスコールの言葉を、黒髪の青年は固唾を飲んで待った。
「最悪の事態が起こった可能性が高い」
 まさかと思った事柄が現実になってしまった。
「もう使用されてしまったんですか!? 本当にあの新種のウィルスなんですか!?」
「おそらく。狙われたのはカリエ議員、だが実際に被害者となったのは、SeeDのアーヴァイン・キニアスだと思われる」
 悲痛な面持ちで語るスコールの顔が、黒く塗りつぶされて段々見えなくなっていくのを黒髪の青年は感じた。



※-※-※



 なんだろう、瞼の裏が明るくてちょっと眩しい。ゆっくりと目を開けると、知らない天井がゆらりとした。トラビアガーデンで泊まっていた友人の部屋でも無ければ、自分の部屋の天井でもない。自分は一体今どこにいるのだろうか……。腕を動かしてみると身体には上掛けが掛かっている感触がしたので、ベッドに横になっているのは間違いないようだ。
 そう言えば昨夜は殆ど眠っていなかった。知らない内にどこかで眠りこけて、親切な誰かがこの部屋に寝かせてくれたのだろうか。ならばお礼を言わなければいけない、そう思ってセルフィは身体を起こした。
「セルフィ、目が覚めたのね」
 優しい微笑みを浮かべて、壁際の椅子から立ち上がる美しい女性の姿が見えた。
 何故彼女がここにいるのだろう。自分をここへ寝かせてくれたのは彼女なのだろうか。ぼんやりとした頭で、近づいて来る彼女を見上げたら、その美しい人は改めて自分に向けて微笑んだ。
「キスティス?」
「ええ 何か欲しい物とかない? お腹とか空いてない?」
 お腹が空いている? いやそんな事はない、空腹など感じないと、小さく頭を振って意志を示した。
 そんな事よりも……もっと何か。目覚めかけた頭の中でそんな声がした。
「ここはどこ?」
 ふと頭に浮かんだ疑問を、ゆっくりとベッドの端に腰を降ろした美しい同僚に投げかけてみた。一瞬彼女の瞳を翳りが過ぎったような気がしたが、また柔らかく微笑んで「部屋よ」と答えてくれた。
「どこの?」
「中央医療センター」
「バラムにそんな所ないよね?」
「そうね、ここはエスタだからバラムではないわね」
 キスティスの美しいラインの眉は僅かにひそめられていた。
 エスタ? 何故、エスタなんかに? ……エスタ、その言葉に何かが引っ掛かった。何か重大な事のような気がする。
 頭で理解するより早く、強く脈打ち始めた心臓が何かを思い出したようだ。
 白い大きな建物。エスタの空。ラグナロク。バラムガーデン。走る自分。良く知っているドア。
 断片的な映像が、フラッシュバックを起こし、目の前に次々と現れる。それは段々と繋がり意味を持った映像へと変わっていく。
 そして――――。
『アービン!!』
 思い出した。
 何故ここに来たのか……。
 バラムガーデンからエスタへ向かうラグナロクのキャビンで、リノアが話してくれた、アーヴァインに起こった出来事。
 彼は――――。

「セルフィ、大丈夫?」
 もの凄い早さで、バラムガーデンに帰ってからここまでの出来事が、セルフィの頭に中を駆け巡り、いつの間にかキスティスが、心配そうな顔でこちらを見ていた事にも気が付かなかった。
「大丈夫だよ」
 本当は全然大丈夫じゃないのに、無意識のうちに反対の言葉が口をついて出ていた。今までもそうして来たように、ごく自然に、笑顔で。
「あたし楽天家だもん、大丈夫。キスティスだっていつも言ってるやん」
 そう言って、笑うセルフィの姿が、キスティスには痛ましくて堪らなかった。確かに彼女は楽天家だ。けれども、彼女は本当に辛い時ですら、そうやって笑顔の奥に本心を閉じ込めてしまう。
 幼馴染みの自分達は皆そう……。
 自らの力ではどうする事も出来ない辛さを、頭では憶えていなくとも身体で憶えている。辛い時にただ泣いていても、それが解決に繋がるとは限らない事を身を持って知っている。
 そして、――独りが嫌いだった。
 大切な人との強制的な別れ、幼い自分達はそれに抗う力も術もなかった。
 再び、彼女にその別れが訪れようとしている。
「セルフィ、あなたまた我慢してる。悲しい時は泣いていいのよ。思いっきり涙を流していいのよ。ここで泣いていいのよ」
 泣く事で解決はしなくとも、少しでも心が楽になるのなら、思い切り泣いてしまう方がいい、ここで貴女を見守るから。キスティスは、セルフィの肩をそっと抱いた。

―― セフィ、泣きなよ、ここで。…もう、一人で泣かないでよ ――

 キスティスの温かい体温と言葉は、否応無しにあの朝の出来事を思い出させた。
 優しく抱き締めて、同じような言葉を言ってくれたアーヴァイン。好きだと言ってくれたアーヴァイン。
 大好きなアーヴァイン ――――。
 けれど彼は、セルフィの心を知ること無く、彼女の前から消え去ろうとしている。
 人の英知を余すところなく注ぎ込んでも、どうにも出来ない事がある。そんな言葉で納得なんか出来ない、でも――。
 覚悟をしてSeeDになった、いつか自分がこんな終わりを迎える事もあるだろうと。それに直面しても狼狽えてはならない、そう思って任務に当たってきた。
 なのに――、今の自分は、目の前の現実を否定し、そこから逃げ出したくて堪らない。覚悟は出来ていると言いながらも、心のどこかで、他人事のように思っていたのだ。
 仲間の身の上にはそんな事は起こらないと……。

「あたし……まだアービンに何も返せてない、色んなものをたくさん貰ったのに、あたし…何も……伝え…たいの…に…」
 終わりの方は嗚咽になって、それ以上は言葉にならなかった。肩を震わせ、声を押し殺して涙するセルフィを抱き締めながら、キスティスもまた心で悔し涙を流していた。
 何が魔女を倒した英雄だろう。自分達だって皆と同じ、傷を負うこともあれば、病に倒れる事もある、笑う事もあれば、泣く事もある。そして、いつかは死に至る。自分達は、不死身の英雄ではない。たった一人の仲間を、救う手立てすら持ち得ない、非力な生き物だ。己の力と、G.F.の力を借り擬似魔法を駆使して戦う事は出来ても、人の命を救う事など……。
 今の自分に出来る事と言えば、悲しみに肩を震わせる友を抱き締め、死の神に抱かれかけている友の生を祈る事のみ。たったそれだけの事しか出来ない。



※-※-※



「もう一度やります」
「リノアさん、もう無理です! あなたが参ってしまう」
 年若い白衣の女性が、リノアの腕を制止する。彼女の綺麗にまとめられた髪が、一房はらりと落ちた。
「ドクター…」
 リノアは、女性の後ろに控えている、白髪交じりの落ち着いた雰囲気の男性に懇願するように視線を向けたが、首は縦には振られなかった。
「魔女の力を以てしても無理なのです。一時的な回復は得られます。ですが、根本原因を取り除かなければ、例え普通に日常生活を送れたとしても、ウィルスを宿したままの彼の身体は、確実に寿命が縮む事となるでしょう、十年単位で」
 ゆっくりと諭すように話す男性の言葉に、リノアは最後の希望の花を摘み取られた思いがした。これがゼルなどの言葉だったら、聞く耳など持たない。けれどこの男性は、今まで辛抱強くリノアに付き合ってくれた、魔女である自分の言うことも一人の人間として誠実に聞いてくれた。だからこそ、その言葉は聞きたくなかった、大丈夫ですと言って欲しかった。

「ドクター…、魔女の力って何なんですか!? 人ひとり助ける事が出来ないんですか!?」
 瞳からは大粒の涙が溢れ、既に自分の身体を支える力さえ失くして、女性に支えられるようにして言うリノアの姿は、そこに居る者の心を酷く打ち付けた。
「リノア、魔女も人だ、出来ない事だってある」
 女性の腕から、リノアを抱きかかえるようにして立たせ、スコールは絞り出すように言った。
「悔しいよ、スコール……」
 手が真っ白になる程握り、リノアはスコールの胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
 何の為の魔女なのか。何の為の力なのか。ある者は自分を既に人ではないと言う。人を超えた者ならば、人を救う事だって出来て当たり前ではないか。絶対に救えると、その為の力だと思っていた。
 けれど、自分の力では救えないと目の前の現実は言う。なら、自分は何故存在している。こんな無力な存在など――――。
「くそっ 本当に何も出来ないのかよっ!」
 はけ口のない感情を拳に込めて、ゼルは自分の手の平に打ち付けていた。
 その後ろで、アーヴァインの任務に赴く筈だった黒髪の青年も、悲痛な面持ちで唇を噛み締めていた。
 室内を重く息苦しい霧が、じわりじわりと浸食していく。

「希望がない訳ではありません」
 ドクターの言葉に、重苦しい霧が瞬時に晴れたような気がした。
「どういう事ですか?」
「ワクチンが一応完成しました。それを伝えに来たのですが……」
 明るい知らせの筈なのに、ドクターの言葉はそこで一端途切れてしまった。
 スコールもリノアもゼルも黒髪の青年も、一斉にドクターに視線を注ぎ再び口が開かれるのを待った。それを見て取ったドクターは、ゆっくりと再び口を開いた。
「一応完成はしましたが、臨床データはまだ殆ど取れていません。どんな副作用があるかも、予測が出来ません。また、この段階で投与して間に合うかどうかも不明です」
「つまり、効くかどうか使ってみねーと分からねーって事かよ!」
「落ち着けゼル。ドクター、助ける術はない、彼は死ぬ、そう言ったのは貴方だ。ならば選択の余地はない」
「副作用くらいなら私の力で……」
 スコール達の言葉に、小さく息を吐きドクターは顔を上げた。
「分かりました、ワクチンを使用してみましょう。また、その後は予測しうる限りの対策を致します。あなた方を巻き込んでしまった、償いにもなりませんが」
「ドクター、それとこれとは話が別です。貴方が気に病むことはありません」
 スコールの言葉に、ドクターは目を伏せて会釈をし、若い看護師と共にアーヴァインの病室を後にした。



※-※-※



 ベッド脇の椅子に座って、そこに静かに眠っている人の手を握ると、温かかった。
 良く知っている温かさ。
 リノアの力が効いているのか、血色は良い。ここで初めて見た時のような白さはない。こうしていると、今にも起きてくるんじゃないかと思える程に穏やかな寝顔、「ごめんね、セフィ、ちょっと驚かそうと思っただけなんだよ〜」って。
 握った手からは、ちゃんと命の鼓動が伝わってくる。この温もりがもうすぐ冷たくなるなんて、二度とその綺麗な瞳が見られないなんて、二度とその柔らかな声が聞けないなんて――――。受け入れられない、受け入れたくない。嫌だ、死なないで、あたしを置いて行かないで、独りにしないで。ここへ帰ってきて、ずっとずっと待ってるから。握ったアーヴァインの手を、自分の頬に当てて祈る、何度も何度も。
 一体どれ位の時間、そうしていたのか……。

 食事の時間と睡眠時間以外はずっとアーヴァインの傍にいた。食事など喉を通る状態ではないけれど、最低限必要なものだけは、無理矢理流し込んでいた。でないと周りに余計な心配を掛けてしまう。
「明日また来るね」
 物言わぬ愛しい人の手を、そっと元のように上掛けの中に戻して、セルフィは与えられた部屋に向かった。


 エスタで発見された新種のウィルス。
 それがアーヴァインの命を奪おうとしているものの正体。月の涙と共にもたらされたのではないかというのが、今の所の有力な見解。それが、何故アーヴァインの体内に入る事となったのか、ルートなどは全く知らなかったが、ドールでの任務時に負った傷口から侵入した事は明白だった。幸か不幸か空気感染はしない。だから、一緒に任務に赴いた自分は今も元気でいる。他の人を巻き込むのは嫌だったが、自分も一緒に感染していた方が良かったなどと、馬鹿な考えが胸の中に湧き上がる。アーヴァインの居ないこれからの人生に自分は耐える自信が……ない。だから、いっそこのまま……。こんな事を言ったら、リノアなんかには、思いっきりひっぱたかれそうだ。多分、キスティスにも同じ事をされそうな気がする。スコールは落ち込むだろうと思う。彼がエスタから持ち出されたウィルスの調査依頼を受けた時には、既にアーヴァインを傷つけた人間の手に渡っていたか、直ぐ近くにあった、それなのに「すまない」と言ってくるような人だから。ゼルも「バカだ」と言って怒るだろうか。サイファーには嫌われるだう、間違いなく。

 完成したばかりというワクチンを投与して二日。まだ容態の変化は、良い方にも悪い方にもない。
 トラビアでの任務の後、まとめて休暇をくれるという約束だった自分以外は、バラムに帰った。というか、無理矢理帰って貰った、皆忙しい身なのだからと。


 次の日、再びアーヴァインの病室へ向かって歩きながら、これは夢なんじゃないかと思った。現実味がない。身体は機械的に動き、話しかけられれば、きちんと答えているのは判る、けれど頭の中に薄く靄が掛かったような。身体も口をついて出る言葉も、どこか自分でのものではないような気がする。思考が酷く緩慢で、耳から入る言葉は頭の表面を素通りしていくような感覚。
 ふと視線を上げると廊下の先、丁度アーヴァインの病室の前辺りに立っている人影が見えた。セルフィが近づくと、その人はゆっくりとセルフィの方を向いた。
「アービン、あっと、アーヴァインの知り合いの方ですか?」
 白衣を着ているその人物はどう見てもこの施設の人だと思うのに、他に言葉が見つからずセルフィはそんな訊き方をしていた。
「えぇ まあ、あなたもですか?」
 どうやら、セルフィの訊き方は的を射ていたらしい。
「はい、同僚で大切な幼馴染みです」
「そうですか。僕は、先日ティアーズポイントの近くへ調査に派遣された時、キニアスさんが任務で来られていて、その時お世話になったんです。まさか、こんな再会になるなんて……もう少し早くワクチンが……」
 白衣姿の金髪の青年は、悔しそうに目を伏せて、ガラスに拳を当てていた。セルフィは掛ける言葉が見つからず、青年が動くまでそこに立ち尽くしていた。
「僕は、これで…」
 暫くして伏せていた瞳をくっと上げ、何かを決心したような顔つきで、青年はセルフィの方に身体を向けた後そう告げた。
「あの、会って行かれませんか?」
「いえ、僕は今出来ることをしようと思います。キニアスさんの傍にはあなたが居てくださるんでしょう?」
 青年はどこか悲しげな笑顔で、「キニアスさんをお願いします」と軽く会釈をして、彼女が歩いて来た方とは反対の方向へ去っていった。その後姿を見送ってから、セルフィはアーヴァインの病室に入った。
「おはよう、アービン」
 ベッドの側まで行き顔を覗き込むと、昨日より呼吸が大きいような気がした。手も少し熱い。リノアの力が消えたのか、ワクチンによるものなのか、セルフィには判らない。けれど、この部屋はモニターされているし、アーヴァインに付けられた計器類で、彼の容態は逐一ドクター達がチェックしている筈だ。ここにこうして寝かされているという事は、許容範囲なのだろうとセルフィは思った。
 時折僅かに眉がひそめられる。その表情は、表面上はからは分からないが、彼は身体を蝕むものと正に今戦っているのだという事を思い出させた。
 その日、ラグナさんとキロスさんが別々の時間に来てくれた。何も出来なくてすまないと、その沈痛な面持ちに胸が痛んだ。自分達よりも多くの死と別れを経験して来た彼ら。今誰よりも、やるせない悔しさを噛み締めているのは、この二人かも知れない。

 もうアーヴァインの病室を退室しなければならない時間になろうとしていた頃、定期的に病室を訪れる看護師の女性が、勤務時間外にもかかわらず様子を見に来てくれた。
「きっと良くなりますよ、看護師の私が言うのも変ですが、人の体は心の影響も大きいんです。ですから、こうやって帰りを待っている人がいるという事が分かれば、きっと彼は……」
 ともすれば悪い方へばかり考えが流れてしまいがちな心に、ふわっと温かい何かが灯ったような気がした。
 例え気休めでも、その言葉にとても勇気づけられた。希望を失ってはいけないと、今自分がするべき事は、最悪の事態を待つ事ではなく、信じる事なのだと。
 必ず戻って来てくれると ――――。
「アービン、元気になったらまたバイクに乗せてね」
 アーヴァインの耳元にそう囁いて、セルフィは病室を後にした。





「天井の色こんなだったんだ」
 セルフィはここに来てから初めて、ベッドの形、建物の色、周りの景色がはっきり見えた気がした。窓から見える空は綺麗な青色をしている。そして、食べ物の味が漸く分かった。
「よし」
 と気合いを入れて、セルフィはアーヴァインの病室へと足を向けた。今日はスコール達も皆揃って、こちらに来るという。やつれた自分を、彼らの目に晒さずに済んで良かった。
「アービン、おはよ。今日は良い天気だよ〜」

『それなら、どっか出掛けようか』

 アーヴァインの朗らかな声が聞こえたような気がした。顔も穏やかだし、熱も少し下がったみたいだ。
「どこがいいかな〜、つってもバラムの街位しか思いつかないよ〜」
 毎日そうしていたように、アーヴァインの手を握って、セルフィは話しかけた。
「それともみんなで、お弁当持ってピクニックとかどう? 楽しいと思うよ〜、あ 荷物はアービンが持ってね」
 多分彼は「え〜 僕は荷物持ち要員なの〜」と不満げに言うと思う。でもちゃんと持ってくれるんだよね、人の良い彼は。例えクジで決めたとしても、アーヴァインが当たりを引きそうだけど。想像してセルフィは笑ってしまった。
「本当にね、一緒に行きたいよね」
 手を握ったまま、立ち上がり顔を覗き込んでみる。
 ベッドから少し離れた所に置いてある機械の動作音が室内に静かに響いて聞こえた。
 小さな声で会話でもすれば、直ぐに聞こえなくなるような静かな動作音なのに、この部屋の中聞こえるのは只その音だけ。
「アービン……」
 空いている方の手で、そっと頬に触れた。
 そしてもう片方の手をぎゅっと握ると、僅かに握り返された気がした。
 気のせいだ……、今までに何度もそんな気がして、彼が再び動くのを待ったけれど、無駄に時間が過ぎるだけだったではないか。また期待を裏切られるのだろうと思いながらも、セルフィはアーヴァインの手から視線を離す事が出来なかった。
 長い ――――、永い時間が過ぎたような気がする。

 やっぱり気のせいだったのかと視線を外しかけた時、もう一度指がぴくりと動いた。見間違いなどではない、確かに自分の手に、自分のものではない微動が伝わってきた。
「アービン!」
 セルフィは縋るような思いでアーヴァインの名前を呼んだ。驚く程、強く、早く、脈打つ自分の心臓の音が耳に響く。
 お願い、お願い、お願い、…………。
 何度、心の中で繰り返しただろう。

 それでも、アーヴァインが動く気配はない。
 打ちひしがれた思いで再び動かされる事のない手から、視線をアーヴァイン顔に向けると、セルフィの視界が揺れた……。
 もう一度名前を呼ぼうと思うのに、口の中が酷く乾いていて声が出ない。
 あれは自分の願望が見せた幻覚だったのだろうか、そう諦めて視線を落としかけた時、セルフィの視界の端に何かが見えた。
 再び視線を戻すと、瞼がゆっくりと開かれ、もう一度見たいと思っていた、青紫の瞳がぼんやりとこちらへ動いたのが分かった。
「セ…フィ」
 力の入らない身体をなんとか動かし、アーヴァインは顔をセルフィの方へ向けようとしていた。
「うん」
 握ったアーヴァインの手に少し握り返された。
「泣いてる…」
 いつの間にか、セルフィの頬を涙がひとすじ伝っていた。
「僕の…せい…?」
 反対側の手をセルフィへと伸ばしながら、眉根を寄せ悲しそうな瞳でアーヴァインはセルフィを見上げた。
「違うよ、悲しいんじゃない、嬉し涙だから」
「……でも泣いてる…」
「いいの! アービンは気にしなくていいの……」
 込み上げてきた思いに胸が詰まって、その先は言葉にならず、涙は止め処なく流れ、セルフィは俯いたままアーヴァインの顔を見ることも出来なかった。
 ちゃんと伝えなければいけない言葉があるのに……。


「セフィ…大丈夫だよ、泣かないで…」
 その言葉を言わなきゃいけないのは自分の方なのに、こんな時まで人の事を気遣う、優しくて――――優しくて、大好きな人。
 喉の奥が熱い。
 つっかえている言葉を言わなければ、きちんと伝えなければ……。
「アービン、聞いて……」
「…うん」
 セルフィの手に握られていたアーヴァインの手はいつの間にか離れ、今はたどたどしく彼女の涙を拭っていた。
「またバイクの後ろに乗せて」
「うん、いいよ」
 アーヴァインはいつものように柔らかく笑っていた。
「また、一緒にランチしよう」
「うん」

「あと、……アービンが大好き、一番好き!」



※-※-※



 建物の外に出ると、空は高くどこまでも澄んでいた。
「よう、何ニヤついてんだ?」
 憮然と柱にもたれ、嫌みったらしく長い脚を交叉させて腕を組み、こちらを見ている長身の金髪の男が目に入った。
「ニヤついている? 私が? ニヤついてるのは貴方の方でしょう」
 男の前を無視するように目もくれず、通り過ぎようとした。
「帰るのならお供しますよ、美しいご婦人」
 あまりにらしい言葉に、つい苦笑が漏れる。
「中に入らないの? 会いに来たんじゃないの? 彼か彼女の方かは分からないけど」
「いや、お前を迎えに来た」
 相変わらず……、そう思うと溜息が漏れた。
「そう」
 再び、彼をそのままにして歩き始める。
「待てよ、キスティス。折角だ、食事にでも行こうぜ」
「貴方がご馳走してくれるのなら、考えてもいいわ」
 一呼吸置いてそう答えた。普段なら、絶対にこの男の口車に乗ったりする事はない。なのに今日は何かがそうさせた。この空のように晴れ渡った心がそうさせた、今日ぐらいは付き合ってやってもいいかなと。
「もちろん、俺は紳士だからな」
 いつもの人を小馬鹿にしたような笑顔ではなく、どこか少年のような笑みに、何か懐かしい感情が通り過ぎた。
「ちょっと、どこが紳士よ、その手は何よ! 今すぐ離さないと、ぶつわよ」
「もうぶってるじゃねーか」
 ぶたれた腕をさすりながら、サイファーは口より手の早いキスティスを咎めた。

「もう大丈夫よ、彼も、彼女も。安心して」
 空を見上げてそう呟いたら「訊いてねーよ」と、不機嫌な声の返事が返ってきた。
 照れ隠しのように上を向いた顔には、どこからどう見ても嬉しそうに、自分の目には見えるのに。
『この性格は一生直らないのかしらね』
 どこまでも真っ青な空に、白い線が一本、描かれていく様が美しかった。