そうだ、海に行こう!

3
 重い。何かが肩の上に乗っている。腕? まだ眠いと主張する瞼を無理矢理開けてみる。
 ―― あ。
 カーテン越しの朝の光を背にして浮かび上がった、目の前の、男の人にしては綺麗な貌に、昨夜いつの間にか寝てしまったのだと知る。
「アービンごめんね…」
 頬に掛かる髪を掬い上げながら呟く。薄く開かれた唇は規則正しく呼吸を繰り返し、まだ深い眠りの中にいるのだと告げている。肩を抱くように置かれた腕に、そっと自分の手を乗せて、顔をじっと眺めてみる。意志の強さと柔和さを兼ね備えた眉、今は閉じられているけれど時折射竦められてしまう青紫の瞳、すっと通った鼻筋、そして何時も甘い痺れをくれる唇。このまま眺めているとキスをしてしまいそうだと、反対側へ寝返りを打つ。その動きに目が覚めたのか、肩の上に置かれていたアーヴァインの腕にぐっと力が入ったかと思うと、後ろから抱き締められた。
「―― セフィ」
 少し掠れた声が、酷く艶めかしい。首筋にさらりと触れたアーヴァインの髪がくすぐったい。吐息と共に素肌に唇が触れた感触に、一本の矢を射られたような痺れが身体を走る。なおもキャミソールの肩紐を避け与え続けられる口付けに、思わず声が零れそうになった。それを懸命に別の力に換え「ダメ」と告げれば、「どうして?」と耳元で返された。肩を竦め「朝だから」と答えれば、「どうして朝はダメなの?」と背中に唇が触れるか触れないかの所で囁かれる。甘い攻防につい負ける事を許諾してしまいそうになるのを必死に耐え、「今日、海にに行っても水着、着ないから」と声を絞り出すように言うと、漸くアーヴァインの動きが止まった。
「それはイヤ! セフィの水着姿楽しみにしてきたのに〜」
 余程楽しみにしていたのか、アーヴァインの声は酷く落胆していた。
 取り敢えず、朝一でというかなり恥ずかしい事態は避けられた。と同時に激しい疲労感にも襲われた。
『アービンを追い出して、もう少しにベッドにいよう』
 ストレートにそう言えば、アーヴァインがへこむのは目に見えていたので、
「朝食はホットサンドと冷たいミルクがいいな〜」
 と言うと、
「ん〜 もう少しこのままでいたい」
 再び抱き締められた。これではまた元の木阿弥になってしまう。
「じゃ、隣のベッドに移る」
 セルフィが身体を起こしかけると、
「セフィのイジワル〜」
 一言そう言ってアーヴァインはベッドから降りた。

『ごめんね、アービン。……夜にね』
 髪をまとめながらベッドルームから出ていくアーヴァインの後姿に、心の中で詫びてセルフィは瞼を閉じた。




「行くよ、アービン!」
「ちょっと待ってよ、セフィ」
 起きるまでは、なまけもの状態だったのに、一端起きてしまうとハムスターのように素早い行動。昨夜も今朝もお預けを喰らった身としては、自分の欲望に忠実なセルフィが少しだけ恨めしかった。でも嬉しそうに「早く行くよー」と自分に笑いかけてくる顔は、とても好きだ、大好きだとも思った。こうなったら意地でもセルフィの水着姿は堪能させて貰わないと! 握った拳に力を込める。
『セフィの水着ってどんなのかな〜』
 自分の前を楽しそうな足取りで歩くセルフィの姿を見ながら思った。取り敢えず今彼女が着ている服から想像してみる。白いコットンの生地にピンタックとレース飾りが少し付いたブラウスと、アイスブルーのボックスプリーツのミニスカートとサンダル。ブラウスがセルフィにしてはフェミニンな感じなので、水着もフリルの付いたビキニとか……。想像して妄想が暴走しそうだった。
「着いたよ」
 と立ち止まったセルフィに気付かず、うっかり通り過ぎかけた。

 場所を確保すると、セルフィは早速服を脱ぎ始めた。
「セ、セフィ、ここで着替えるの?」
 もしやこんな公衆の面前で生着替えかと、アーヴァインは慌てた。
「ううん 下に水着着てるよ〜」
 アーヴァインはその言葉に安心し、また少し残念にも思った。
「じゃっ、先に行ってるね〜」
「え?! セフィ日焼け止めとか大丈夫?」
「塗って来たよ〜」
 とセルフィは一人でさっさと海に入ってしまった。
 日焼け止めを塗ってあげたり、塗って貰ったりとか色々、いろいろ、イロイロ楽しみにしていたのに、この休暇で楽しみにしていた事の半分は、既に達成出来ずに終わってしまったような気がする。しかもセルフィがどんな水着だったのかさえ思い出せない程、素早い行動だったのが何とも悲しい。アーヴァインは大きなパラソルの下で、デッキチェアに寝転がったままぼ〜っと海を眺めていた。
 時折、セルフィがこちらに手を振っているのが分かった。おいでよーと言っているような気もするが、何だか動く気になれなかった。あれ程楽しみにしていた、セルフィと一緒の旅行だけれど、アーヴァインの期待とは少々ずれていて、それが自分勝手な期待だとは分かっていても、かなりネガティブになってしまっていた。
 ぼんやりとセルフィの動きを眺めていると、一人の日焼けした青年がセルフィに話しかけて来たようだった。ニ三言何か話して、セルフィが断るような仕草をする。それでも青年はセルフィの腕を掴んで歩き出そうとしているように見えた。
「あ〜 もう、何やってんだ僕は!」
 髪をくしゃっと掻いて、足早にセルフィの元へ向かう。
「セフィ」
 努めて冷静に、けれど声はいつもより低く力を込めて言った。
「アービン!」
 泣きそうな顔でセルフィが振り返った。その表情に理性の神経が切れそうになったのを必死に耐え、セルフィの腕を掴んでいる青年の顔を真っ直ぐに見据える。
 冷たい氷のような瞳から放たれた刺すような視線と、自分よりも頭一つ高く体躯の良い、その全身から立ち昇る言い様のない威圧感に、セルフィの腕を掴んでいた青年は小さく舌打ちをしてその場を逃げるように去っていった。
「アービン」
 すこし怯えたような視線でアーヴァインを見上げた。
「セフィ、大丈夫? 何ともない?」
 心配そうにセルフィの顔を覗き込む彼の表情は、いつもの優しいアーヴァインのそれだった。
「うん」
 アーヴァインの気遣いは嬉しかったけれど、あんな冷たい貌を見たのは初めての事でセルフィは戸惑った。

『アービンでもあんな表情する事あるんだ。ていうか怒らせちゃった?』
 セルフィがそのまま立ち尽くしていると、
「泳がないの?」
 と言って、アーヴァインはざっざっと水を掻き分けて行ったかと思うと、ざぶんと海中へ潜ってしまった。
『怒らせてしまったのなら謝らなきゃ――』
 慌ててセルフィもアーヴァインの後を追って潜った。

 白い砂の上を水が揺らめき、差し込んだ太陽の光が不思議な模様を描く、青く透明で幻想的な光景。時折すれ違う、綺麗な色の魚に目もくれず、ただひたすらにアーヴァインを追う。ふと前を泳いでいたアーヴァインが動きを止め、くるりと身体を反転させると、こちらへと向かって来た。ふわっとセルフィの腕を掴むと、そのまま水面に上がる。長い間潜っていたので、お互い大きく息をしている。
「セフィ、来て」
 そう言って、セルフィの手を握るとアーヴァインは再び沖の方へ向かって泳いだ。ビーチに居る人の姿が、豆粒ほどの大きさになった頃、アーヴァインは漸く泳ぐのを止めた。
 くいっと下を指さして潜る、セルフィもアーヴァインに倣って潜った。ほんの少し潜った所で、握っていた手をくいんと引かれ抱き締められたかと思うと、口付けをされた。そのまま浮力に身を委ねて浮上する、水面から顔が出てもアーヴァインはセルフィの唇を直ぐには解放しなかった。やっとの事で離れると、「セフィ、僕の傍を離れないでよ」と小さく呟いた。アーヴァインの言わんとする事は、セルフィにも痛いほど分かったので、「うん、ごめんね」と答えた。
 俯き加減の頬を伝う雫、少し伏せられた瞳を縁取る睫、薄く開かれ濡れた唇が酷く魅惑的で、『ここで抱いてもいい?』と喉まで出掛かったのを飲み込み、アーヴァインは別の言葉にすり替えた。
「お昼ご飯にしようよ」
 明るく言われて、セルフィはお腹が減っていることに気が付いた。



 昼食はビーチの近くのファーストフードで軽く済ませ、午後は昼寝をしたり、泳いだりして過ごした。デッキチェアでまどろむセルフィに、『セフィその水着良く似合ってるよ』と言うと、その言葉が聞こえたのかセルフィはふわりと微笑んだ。その笑顔が自分にとっては堪らないものなのは、昔から承知の上だけれど、他の男にとっても結構魅力的なのを彼女は知らない。
 一般的にと言うよりも、ちょっと濃い感じの連中には特に受けが良い。絶賛片思い中だった頃、ガーデンで「セルフィたんハァハァ」という会話を耳にして、話していた連中を今日みたいに思い切り睨んだ事がある。その時「子供の頃からセルフィが好きだったんだ、誰にも渡しやしないーーー!」と構内放送しようかと思った位だった。それをしなかったのは懸命な判断だった、でなければ今セルフィは隣に居てくれなかっただろう、と言うより多分文字通り“ジ・エンド”だったのではないかと思う。
 その後色々あって、やっと想いが通じて、こうして彼女の傍にいられる事になったけれど、それでもこんな事があるんだと思うと、溜息が出る。
 セルフィが無自覚なだけに余計にたちが悪い。
 アーヴァインは再び盛大な溜息をついた。



 強い日差しを誇示していた太陽は西に傾き、水平線近くの雲と空を茜色、緋色、に染め、一日の終わりを告げようとしている。アーヴァインとセルフィは、着替えを済ませその風景を名残惜しむように、ホテルへと向かった。
 一端シャワーを浴び着替えて、夕食も兼ねて街へと出掛ける。
 SeeDの実地試験をした時とは比べものにならない位、華やかさを取り戻した街の風景を楽しみながら、雰囲気の良い店で楽しく食事をし、少しだけワインも飲んで再びホテルに戻った。
「あ〜あ 休暇も明日で終わりだね〜、楽しい事ってすぐに終わっちゃうよね」
「そうだよね」
 心の中では『僕の方はまだまだこれからなんだけど』と、付け加えた。
「じゃ、お風呂はいるね〜」
 バスルームに向かいかけたセルフィに、
「今日は先にいいかな?」
 と、また先に眠られてしまうのを避ける為に予防線を張った。
「う…ん」
 セルフィは渋々オーケーした。

「ちっ、敵もなかなかやるな」
 リビングのソファにぼふんと身体を沈めながらセルフィは呟いた。アーヴァインが先にバスルームを使わせて、と言った理由は想像がついた。こうなるとちょっとしたゲーム感覚で、今朝の攻防の続きとばかりに、負けてなるものかと思ってしまう。別に負けてもなんら問題はないけれど、むしろどこかで負ける事を期待していたり――。
「いやいや、勝負は勝ってこそ」
 と、意気込んでみたものの、特に作戦は思いつかなかった。先にバスルーム入られた時点で勝率はぐんと下がっている。う〜んと、腕を組んで考えを巡らせてみる。漸く思いついたのは、何時までもベッドルームに入らない作戦。これも穴だらけの作戦だとは思ったけれど、他に思いつかなかった。
「セフィ、上がったよ〜」
 程なくして、首にかけたタオルで髪を拭きながらアーヴァインが、バスルームから出てきた。
「うん、分かった〜」
 と返事をして立ち上がった時、丁度冷蔵庫の中を覗いているアーヴァインの後ろ姿が目に入った。上半身は裸で、動作をする度に動く筋肉が美しく、また艶を帯びて見えた。セルフィは急いで着替えを手に取ると、バスルームに駆け込んだ。
「うわ、なんか卑怯やん……」
 アーヴァインは、単にTシャツを持って入るのを忘れただけで、意図して上半身裸だった訳ではなかったけれど、それはセルフィの一方的な勝負魂を十分過ぎる位に削いだ。
「なんでかな〜 海では平気やったのに、部屋の中で見ると途端に……」
 バスタブに浸かりながら、どきどきと脈打つ心臓を手で押さえる。
 ふと無意識のうちに動かした手が思わぬ感覚を胸に与えた。まるでアーヴァインに触れられた時のような――――。
 分かっている、自分が触れられる事を望んでいるのは。けれど、それを表に出すのは、アーヴァインに悟られてしまうのは、この上無く恥ずかしい。
 はぁと小さく息を吐いて、ぶくぶくと鼻の辺りまで身体をお湯に沈めた。


「セフィ遅いな〜、のぼせて倒れたりしてないかな」
 セルフィがバスルームに入ったきり、なかなか出て来ないので少し心配になった。怒られても覗いてみようと思った時、バスルームのドアが開いてセルフィが出てきた。
「はふ〜 もうちょっとでのぼせるトコやった〜」
 セルフィは、ぱたぱたと手で仰ぎながら、倒れるようソファに座った。
「のようだね、ちょっと待ってて水を持ってくるよ」
 そう言って、立ち上がったアーヴァインは、もうちゃんとTシャツを着ていた。それを残念に思いながら、差し出されたグラスをセルフィは受け取った。
「うーん 生き返る!」
 スライスしたレモンを一枚浮かべた冷たい水が、喉を通ってのぼせかけた身体に沁み渡る。グラスをテーブルの上に置いて、頭もろとも身体を背もたれに預けて目を閉じた。
 テレビから知っている曲が静かに流れている。歌だっと思うけれど、ピアノ演奏だけのシンプルなアレンジ。好きな曲だけど、タイトルがちょっと思い出せない。


 セルフィに持ってきた水を少し自分も貰おうとそちらを見ると、彼女はソファにもたれ目を閉じていた。眠ってしまったのかと思ったが、細い指が僅かにトントンと動いていたので、曲を聴いているのだと判った。
 ソファの背もたれよりも、ほんの少しだけセルフィの頭が高い位置にあったので、丁度顔が上向き加減になっている。その角度が、アーヴァインにはまるでキスを待っているかのように見えてしまった。
 セルフィの飲みかけの水を一口飲む。それでも喉の渇きは癒えなかった。今、この渇きを癒せるのは――――。
 静かにソファに片膝をつき、顔を寄せる。唇がセルフィのそれに触れようとした刹那、
「ね、アー……」
 曲のタイトルをアーヴァインに訊ねようとして開かれた唇は、最後まで言い終える事無く塞がれた。
 不意打ちのキスだったけれど、セルフィはそれに応えた。空調は利いている筈なのに、アーヴァインの唇はとても熱い。そして自分も彼から熱が移ったように熱いとセルフィは思った。ふっと離れたアーヴァインの唇が、今度はセルフィの耳元で囁く。
「いい?」
「うん」
 セルフィの答えにアーヴァインはふわっと微笑み、セルフィを横抱きにして抱き上げた。突然の事に驚いて、セルフィは降ろして欲しいと藻掻いたが「じっとしてないと落ちるよ」と言われて大人しくした。
 ゆっくりとセルフィをベッドに横たえると、彼女の顔の両脇に腕をつき、
「今夜は、昨夜の分と今朝の分もあるからね」
 とアーヴァインは意地悪っぽく言った。
「今朝って、あれは普通にカウントしないでしょ〜」
「ダ〜メ、カウントあり」
 今のアーヴァインは、抗う事を許してれそうにない瞳をしている。確かに自分も悪かったのだからと、セルフィは観念する事にした。
「ほどほどに…ね、アービン」
「ん〜 明日の午前中はゆっくり出来るから、その程度に」
「え〜」
 セルフィの抗議の声は、直ぐにアーヴァインの唇によってかき消されてしまった。



END

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綺麗な店員のお姉さんはまた後で登場すると思います、多分、ガルバディアだから。
(2007.08.08)

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